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41話 アレキサンドライトの記憶


 カノアの体は限界を超えていた。泥のように重い手足を廃教会の固い床に投げ出し、深い眠りに落ちていく。


 意識の深淵。

 そこでカノアは、懐かしい、けれど二度と戻りたくない過去の夢を見ていた。


          ◇


 まだ、世界に「光」があった頃の話だ。


 貧民街の路地裏。

 薄汚れた少年――幼い頃のカノアは、膝を抱えて座っていた。


 彼の周りには、誰も寄り付かない。

 時折、通り過ぎる大人たちが彼を見るが、その視線は決まって二種類だった。


 気味悪がるか、あるいは、欲に塗れた目で見つめるか。


「……おい、見ろよ。あれが『アレキサンドライト』のガキだ」


「へえ、いい目をしてるじゃねぇか。ありゃあ高く売れるぞ」


「よせよ、目が合うと心の中まで覗かれるって噂だ。……気味が悪い」


 ヒソヒソ話が聞こえる。

 カノアは耳を塞ぎたかったが、それ以上に「目」を塞ぎたかった。


 彼の目は、特別すぎた。

 『アレキサンドライト』。

 光の加減で緑にも赤にも変化する、宝石のような瞳。

 その美しさゆえに、彼は「商品」として狙われた。

 だが、それだけではない。

 彼の目は、物理的にも「見えすぎた」のだ。


 遠くの看板の文字。

 路地裏のネズミの毛並み。

 そして――人の顔に張り付いた、微細な筋肉の動きまで。


『いい子だねぇ、飴をあげよう』


 そう言って近づいてくるおばさんの、引きつった笑顔の裏にある嫌悪感。


『俺について来い。腹いっぱい食わせてやる』


 優しい言葉をかける商人の、瞳の奥で計算される金貨の枚数。


 全部、見えてしまう。

 嘘も、欲望も、悪意も。

 世界は鮮やかだったが、その色彩はあまりにも汚濁にまみれていた。


 だからカノアは、いつも下を向いていた。

 何も見たくなかったから。


「……おい、坊主」


 ある日、男の声が降ってきた。

 カノアが顔を上げると、そこには巨大な影があった。


 無精髭を生やした、大柄な剣士。

 背中には身の丈ほどもある大剣を背負っている。


「ここで何をしてる?」


 男はしゃがみ込み、カノアの顔を覗き込んだ。

 カノアは身構えた。

 どうせ、この人も俺の目を見て、金になりそうだとか、気持ち悪いとか思うんだろう。


 だが。


「……腹、減ってるのか?」


 男が差し出したのは、無骨な手で割った固いパンだった。

 カノアは驚いて、男の目を見た。

 そこには、欲も嫌悪もなかった。


 ただ、腹を空かせた子供を心配する、純粋な「お節介」の色だけがあった。


「……あんた、僕の目が怖くないの?」


「ん? ああ、綺麗な色だな。……だが、少し寂しそうな色だ」


 グレンは、そう言って笑った。

 宝石としてではなく、ただの迷子として、カノアを見てくれた。

 初めてだった。


 「目」ではなく「自分」を見てくれる大人に出会ったのは。


 それから、カノアはグレンについて回るようになった。

 グレンは傭兵だった。剣の腕は一流だが、お人好しで損ばかりしている男だった。

 カノアは、そんな師匠が大好きだった。


「師匠、あいつ嘘ついてるよ。右の眉がピクリと動いた」


「……カノア。人のアラばかり探すな」


 ある時、カノアが得意げに言うと、グレンは大きな手でカノアの頭をガシガシと撫でた。


「お前の目は、世界の汚い部分を見すぎている」


「だって、見えちゃうんだもん」


「なら、見えないものを見ろ」


 グレンは腰の剣を抜いた。

 夕日に照らされた黒鉄の剣。


「人の心は、顔の筋肉なんかじゃ分からない。剣を交え、魂をぶつけ合って初めて見える『色』がある」


「……色?」


「ああ。いつかお前にも分かる日が来る。その宝石みたいな目で、表面の汚れじゃなく、その奥にある『一番綺麗な色』を見つけられる日がな」


 グレンはニカっと笑った。


「カノア、お前の瞳はこの国の宝だ。いつかその目で、誰も見たことのない景色を見つけるんだぞ」


 その言葉は、カノアにとっての呪いだった瞳を、未来への希望に変えてくれた。


 だからカノアは剣を握った。

 いつか、師匠のように強くなって、本当の景色を見るために。


 でも。

 その未来は、あの日――唐突に奪われた。


「あら、なんて綺麗な瞳……」


 魔女ヴィオラ。


 彼女の指先が、カノアの世界を塗りつぶした日。

 師匠は遠征に行っていた。助けは来なかった。

 痛みと絶望の中で、カノアは思った。


 (師匠……ごめん。もう何も見えないや)


 約束した景色は、永遠の闇に閉ざされた。

 そう思っていた。


          ◇


「……はッ!」


 カノアは弾かれたように目を覚ました。

 汗びっしょりだ。

 身体中が軋むように痛いが、昨日の絶望感は少しだけ薄れていた。


「……夢か」


 久しぶりに、昔の師匠の夢を見た。

 あの頃の師匠は、強くて、優しくて、温かかった。

 闘技場で戦った「黒騎士」とは、まるで別人だ。


「……いや、違うな」


 カノアは自分の胸の傷に触れた。

 黒騎士の剣は、心臓を避けていた。

 あの一瞬、確かに感じたのだ。

 殺意の奥底にある、悲痛な叫びを。


 『逃げろ』と。


「師匠……」


 カノアは拳を握りしめた。

 師匠に何があったのかは分からない。だが……このままにしていて良い訳がない。


「待っててくれ、師匠」


 カノアは立ち上がった。


 カノアの『心眼』が、静かに、けれど力強く輝き始めた。

 それは、かつてのアレキサンドライトよりも鮮烈な、覚悟の色だった。


本年はありがとうございました。また来年も(明日も)お正月は多めに更新します。良いお年を!


同時進行で別に2作連載しています。

年始の暇つぶしのお供に是非お読みください。


「か弱い令嬢」を演じていたのに、ショックで震えて手すりを掴んだら粉砕してしまった。~婚約破棄され実家に帰ったら、いつの間にか『筋肉の聖女(拳聖)』と崇められ、隣国の王様や変態賢者に溺愛され始めました~


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