39話 見えない斬撃
闘技場の空気が、凍りついたように静止していた。
観客たちの熱狂も、水を打ったように静まり返っている。
誰もが息を呑んで見守る中、カノアと黒騎士は対峙していた。
(……来る)
カノアは愛剣を正眼に構え、神経を極限まで研ぎ澄ませた。
相手は動かない。
ただ自然体で立っているだけだ。
カノアの『心眼』には、黒騎士の体内を巡る魔力の流れや、筋肉の微細な収縮が鮮明に映っている。
情報は見える。
だからこそ、不気味だった。その全てが「攻撃の意思」を示していないのに、圧倒的な圧力を放っているのだから。
「……行くぞ」
カノアが踏み込む。
一足飛びで間合いを詰め、袈裟斬りを放つ。
ヒュンッ!
刃が空を切る。
黒騎士は、カノアの剣が届くギリギリの瞬間に、半歩だけ下がっていた。
まるで最初からそこに剣が来ると知っていたかのような、最小限の回避。
「逃がすかよ!」
カノアは着地と同時に剣を返し、逆袈裟に斬り上げる。
だが、黒騎士の剣が音もなく閃いた。
カァンッ!
軽い金属音。
カノアの剣が弾かれる。
力で押し返されたのではない。剣の重心、力の支点を正確に突かれ、軌道を逸らされたのだ。
(嘘だろ……?)
カノアは背筋が寒くなるのを感じた。
この剣技。この脱力した受け流し。
何度も何度も、泥だらけになりながら叩き込まれた「あの人」の癖そのものだ。
「……アンタ、やっぱり……」
カノアが問いかけるが、黒騎士は答えない。
その代わり、黒騎士の纏う空気が変わった。
今まで静かに凪いでいた魔力が、ふっと消えたのだ。
「――!?」
カノアは我が目を疑った。
『心眼』に映っていた黒騎士の姿が、突然掻き消えた。
もちろん、物理的にはそこにいる。
だが、魔力も、熱も、殺気も、生命反応さえも、全てが「無」になった。
まるで、空間にぽっかりと黒い穴が空いたような、情報の空白。
(消え……た?)
カノアが混乱した、その一瞬。
何の予兆もなく、黒騎士の剣が迫っていた。
ザシュッ!
痛みよりも先に、血が噴き出す音が聞こえた。
カノアの左腕に、赤い線が刻まれる。
「ぐっ……!」
カノアは飛び退いた。
いつ斬られた?
予備動作が見えなかった。殺気がなかった。
『心眼』で未来を予測しようにも、読み取るべき情報が何もない。
「なんだ、これ……」
カノアは脂汗を流した。
視力を失ってから、彼は『心眼』という新しい目で世界を見てきた。
だが、目の前の男は、その目をあざ笑うかのように「見えない存在」として立ちはだかっている。
黒騎士が一歩踏み出す。
その足音すら聞こえない。
カノアは反射的に剣を振るうが、それは闇雲に「黒い穴」へ向かって振り回しているだけだ。
ヒュン。
再び、見えない刃が走る。
今度は脇腹。
ドゴッ!
続けて、剣の柄による強烈な打撃が鳩尾に入った。
「がはっ……!」
呼吸が止まる。
カノアは地面を転がった。
痛い。骨が軋む。
だが、肉体の痛み以上に、心が悲鳴を上げていた。
今の打撃。
あえて峰打ちで、急所を外された感覚。
それは、かつて修行時代に何度も味わった、「未熟者への叱咤」のような痛みだった。
カノアは痛みをこらえて顔を上げ、叫んだ。
「師匠……! 師匠なんだろ!? グレン師匠ッ!!」
その名が呼ばれた瞬間。
黒騎士の動きが、ほんの一瞬だけピクリと止まった。
十字のスリットの奥。暗闇の中に、微かな光が揺らめいた気がした。
だが、次の瞬間には、より冷たく、鋭い殺気が膨れ上がる。
黒騎士が剣を上段に構える。
その構えを見て、カノアは絶望した。
幼い頃、何度も憧れ、何度も真似をした、師匠独自の必殺の型。
「……やっぱり、アンタなんだな」
カノアの手が震える。
戦えない。
相手が師匠だと分かってしまった瞬間、剣が鉛のように重くなる。
恩人だ。親代わりだ。
世界で一番綺麗な瞳だと言ってくれた、たった一人の理解者だ。
そんな人に、刃を向けられるはずがない。
「なんで……! なんで俺に剣を向けるんだ!」
カノアの叫びは、虚しく響くだけ。
黒騎士は無慈悲に踏み込んだ。
大気が断裂する。
『心眼』にすら映らない、認識外の一撃。
ザシュッ――!
鮮血が舞った。
カノアの胸元から肩にかけて、深い傷が走る。
だが、致命傷ではない。
カノアが避けたからではない。黒騎士の剣が、寸前で軌道を歪めたように見えたからだ。
「……あ……」
カノアが膝をつく。
血が溢れ出し、意識が遠のく。
黒騎士が、ゆっくりと近づいてくる。トドメを刺すために。
「カノアッ!!」
悲鳴が響いた。
観客席から、ルミナが飛び降りてくるのが『心眼』の端に映った。
ダメだ、来るな。
そう叫ぼうとしたが、声が出ない。
ドォォォォォンッ!!
黒騎士とカノアの間に、巨大な鉄塊が落下した。
ヒルダだ。
彼女は観客席のフェンスを破壊し、カノアを守るように立ちはだかった。
「下がってなさい、黒騎士!」
ヒルダが拳を構える。
だが、黒騎士は止まらない。
まるで障害物などないかのように、流れるような動作でヒルダの懐に潜り込む。
ヒルダの剛腕を紙一重で躱し、関節の隙間に剣の柄を叩き込む。
ガシャッ!
ヒルダの姿勢が崩れる。
力で勝てないなら、技で崩す。柔よく剛を制す、達人の技。
「くっ……! なんてデタラメな強さ……!」
ヒルダが体勢を立て直そうとするが、黒騎士はすでにその背後へ回り込み、カノアへの道を開いている。
そこへ、ルミナが駆け込んできた。
彼女は両手を広げ、倒れたカノアの前に立ちはだかる。
「やめて……! カノアを殺さないで!」
黒騎士の剣が、ルミナの首元でピタリと止まった。
冷たい風が、ルミナの髪を揺らす。
殺せる。
容易に首を刎ねることができる。
だが、黒騎士は動かなかった。十字のスリットの奥から、苦悶のような唸り声が漏れた。
「……ぐ……ぅ……」
剣を持つ手が、小刻みに震えている。
殺せという命令と、殺すなという魂の叫びが、彼の中で激しく衝突しているのだ。
「……逃げ……ろ……」
掠れた、金属同士が擦れ合うような声。
それは間違いなく、カノアが知っている師匠の声だった。
「早、く……!」
黒騎士が、自身の意思で剣を引いた。
その隙を、ヒルダは見逃さなかった。
「カノア! ルミナ! 掴まって!」
ヒルダが二人を両脇に抱え込む。
そして、脚部のルーンを全開にし、闘技場の壁に向かって跳躍した。
ズドォォォン!!
壁を突き破り、三人は夜の闇へと消えていく。
黒騎士は追わなかった。
ただ、剣を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
まるで、自らの身体を縛り付ける鎖と戦っているかのように。
◇
路地裏の廃教会
ヒルダはカノアをそっと簡易ベッドに寝かせた。
傷は深い。胸から肩にかけての斬撃は、骨までは達していないものの、出血が酷い。
「カノア……! しっかりして!」
ルミナがカノアの手を握り、必死に呼びかける。
カノアはうつろな目で天井を見上げていた。
身体の傷よりも、心の傷が深い。
「……師匠……」
カノアがうわ言のように呟く。
圧倒的な敗北。
そして何より、信じていた師匠が敵として現れた事実が、カノアの心を粉々に砕いていた。
『心眼』は万能ではなかった。
一番見たかった人の心を、見通すことができなかったのだ。
「……無様だな」
その時、闇の中から冷たい声が響いた。
黒い狩猟服の男、ザイン。
彼は倒れ伏すカノアを見下ろし、侮蔑と、そして微かな期待を含んだ目で言い放った。
「立て。……死にたくなければ、私が『見えないものを見る方法』を教えてやる」




