38話 黒の城と隠された素顔
アルカナの路地裏にある、目立たない宿屋の一室。
外の喧騒を遮断した静かな部屋で、カノアたちは重い沈黙に包まれていた。
窓の外を見れば、街の中央にそびえ立つ漆黒の巨塔――『黒の城』が、街全体を見下ろす墓標のように鎮座しているのが見える。
「……ねえ、ヒルダさん」
ルミナが自身の仮面を膝の上に置き、不安そうに問いかけた。
「どうしてこの街の人たちは、みんな仮面をつけてるの? 素顔を見せることが、あんなに酷いことなの?」
先ほどの広場での処刑。
男はただ仮面が割れただけで、まるで大罪人のように扱われ、尊厳を踏みにじられた。
ルミナにとって仮面は傷を隠すための「守り」だが、この街の人々にとっては「義務」であり「鎖」のように見える。
「……近衛騎士だった頃、噂で聞いたことがあるわ」
ヒルダが重い口を開いた。
彼女は窓際で腕を組み、黒の城を睨みつけている。
「アルカナは『虚構の都』。ここでは、感情や表情といった『生身の情報』は、他人に付け入る隙を与える弱点であり、恥ずべきものとされているのよ」
「弱点……?」
「ええ。怒り、悲しみ、動揺……素顔は雄弁に心を語ってしまうでしょう? だから彼らは仮面でそれを覆い隠し、理想の自分を演じることで身を守っている。……それを強制しているのが、あの黒騎士よ」
ヒルダの説明に、カノアは鼻を鳴らした。
「くだらない。本音を隠して、嘘で塗り固めた仮面同士で付き合うなんてさ。……だからこの街の連中の魂は、あんなに息苦しそうに濁ってるのか」
カノアの『心眼』には見えていた。
煌びやかな仮面の下で、ドロドロに淀んだ人々の心が。
誰にも本心を見せず、誰も信じず、ただ仮面のランク(地位)だけで相手を判断する空虚な世界。
「ヴィオラが好きそうな世界だ。……中身なんてどうでもいい、表面だけ綺麗ならそれでいいって考え方だろ?」
「そうね。……でも、厄介なのはその支配者よ」
ヒルダがカノアの方を向く。
その声色は、いつになく真剣で、微かな怖れを含んでいた。
「カノア。貴方、広場で黒騎士を見た時……動揺していたわね? 何か心当たりがあるの?」
鋭い指摘。
カノアは一瞬言葉に詰まり、視線を床に落とした。
「……ありえない話だよ」
カノアは自分に言い聞かせるように首を振った。
「俺の師匠に似てたんだ。剣の構え、立ち姿……。でも、師匠はあんな冷たい気配じゃなかったし、第一、師匠は優しい人だった。あんな黒騎士とは似ても似つかない」
師匠はもっと自由で、豪快な人だった。
あんな風に、誰かの番犬として首輪に繋がれるような人じゃない。
「つまり俺の気のせい。……ただ、腕は立つ。あの太刀筋、半端じゃない」
「ええ。私も見たわ」
ヒルダがガントレットを強く握りしめる。
鉄が軋む音が、彼女の緊張を物語っていた。
「あの抜刀の速さ……。筋肉の予備動作が全くなかった。呼吸をするように、自然に、そして認識できない速度で剣を振るっていた」
ヒルダは、かつて王国最強と謳われた近衛騎士団長だ。
その彼女が、冷や汗を流している。
「正直に言うわ。……全盛期、肉体があった頃の私でも、勝てるかどうか分からない。いえ……純粋な剣技だけで言えば、私よりも上かもしれない」
「ヒルダさんが、そこまで言うなんて……」
ルミナが息を呑む。
物理無効の鎧を持つ今のヒルダでも、脅威と感じるほどの相手。
「でも、会うしかないんだろ? ヴィオラの居場所を聞き出すには」
カノアは顔を上げた。
恐怖はある。既視感への不安もある。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「城の前に掲示板があった。『御前試合』の告知だ」
カノアは懐から、広場でくすねてきた羊皮紙を取り出した。
「明日の夜、黒の城の頂上で武闘大会が開かれる。優勝者は、街の支配者である黒騎士に謁見し、どんな願いも一つだけ叶えてもらえるらしい」
「願いを……?」
「ああ。俺たちの願いは一つ。『ヴィオラの情報を吐け』だ」
カノアはニヤリと笑った。
正面突破。
一番分かりやすくて、一番危険な道。
「参加資格は『仮面を持つ者』。……俺たちにはうってつけだろ?」
カノアは自身の目隠しを指差し、ルミナの白い仮面を見た。
そしてヒルダの兜もまた、全身を覆う鉄の仮面と言える。
「行きましょう。……その黒騎士が何者なのか、その仮面の下を暴いてやるわ」
ヒルダが覚悟を決めたように頷く。
ルミナも、カノアの袖をギュッと握りしめた。
「私も戦う。……カノアとヒルダさんの力になる」
「頼もしいね。……よし、明日は派手に暴れるぞ」
カノアは羊皮紙を握りつぶした。
脳裏に焼き付いている、あの漆黒の騎士の背中。
その正体を確かめるためにも、剣を交えるしかない。
たとえその先に、知りたくなかった絶望が待っていたとしても。
◇
翌夜。
黒の城、頂上。
そこは、円形闘技場になっていた。
観客席を埋め尽くすのは、煌びやかな仮面をつけた貴族や富豪たち。彼らは熱狂しているが、その声はどこか上品ぶっていて、底にある残虐性を隠しきれていない。
「さあ! 今宵の宴、メインイベントの始まりだ!」
司会者の声が響き渡る。
カノアたちは、選手入場のゲートに立っていた。
「……すごい魔力の密度ね」
ヒルダが呟く。
闘技場の周囲には強力な結界が張られており、観客席への被害を防ぐと同時に、選手たちが逃げ出せないようになっている。
「檻の中の鼠ってわけか。……まあいいさ」
カノアは愛剣の感触を確かめる。
予選はすでに突破した。
雑魚など相手にならなかった。ヒルダがただ歩くだけで相手は戦意喪失し、カノアが剣を抜くまでもなく制圧した。
そして今、彼らの目の前に現れたのは、最後の対戦相手ではなく――主催者その人だった。
ゴオオォォォ……。
重苦しいプレッシャーと共に、貴賓席から一人の騎士が闘技場へと降り立った。
音もなく。
まるで重力がそこだけ消失したかのように、ふわりと着地する。
漆黒の全身鎧。
十字のスリットが入った兜。
黒騎士。
「……彼が、相手?」
ルミナが震える。
対峙して初めてわかる、圧倒的な「静」の気配。
魔力が暴れているのではない。
湖の水面のように、恐ろしいほど静まり返っている。
カノアの『心眼』が、その姿を捉える。
その瞬間、カノアの心臓が早鐘を打った。
(……この構えは)
足の位置。剣先の角度。重心の置き方。
カノアの記憶にある「あの人」の構えと、ミリ単位で一致している。
あまりにも洗練された、無駄のない立ち姿。
それが見えすぎるほど鮮明に見えてしまうからこそ、カノアの背筋に冷たい汗が伝う。
「……優勝者への褒美は謁見じゃなかったのかな」
カノアが剣を抜き、皮肉を飛ばす。
だが、黒騎士は答えない。
彼はゆっくりと腰の剣を抜いた。
装飾のない、実用一点張りの黒鉄の長剣。
「……おい。アンタ、名前は?」
カノアが問う。
黒騎士は無言のまま、切っ先をカノアに向けた。
言葉はいらない。
剣で語れということか。
「……上等だ」
カノアは覚悟を決めて踏み込んだ。
確かめてやる。
その仮面の下にある顔を。そして、俺の胸をざわつかせるこの予感の正体を。
闘技場の鐘が鳴る。
それは、カノアにとって最大の試練の始まりを告げる弔鐘のようだった。




