37話 崩れる魔女、仮面の街
王都、魔女の城。
その最上階にある『鏡の間』から、絹を引き裂くような絶叫が響き渡った。
「ギャアアアアアアアッ!!」
魔女ヴィオラが、床に転げ回りながら顔を掻きむしっている。
彼女の左頬。かつてカノアたちの反撃で亀裂が入った場所が、今まさに音を立てて崩壊しようとしていた。
美しい肌が剥がれ落ち、その下から赤黒い汚泥のような「呪い」が溢れ出す。
「痛い……痛い痛い痛いッ! 私の顔が……美貌が……ッ!」
鏡に映った自分の姿を見て、ヴィオラはさらに発狂した。
崩れている。
ルミナから奪ったはずの美しさが、拒絶反応を起こして腐り落ちていく。
遠く離れた砂漠の地で、ルミナの魂がかつてないほど強く、美しく輝いた反動だ。
「おのれ……おのれぇぇッ!許さない……絶対に許さない! あの小娘ッ!!」
ヴィオラは血走った目で、傍らに控える男を睨みつけた。
調教師ザイン。
彼は主人の錯乱を前にしても、眉一つ動かさず、ただ静かに佇んでいる。
「ザイン! 今すぐ殺してきなさい! あの小娘を……いや、全員よ! 八つ裂きにして、その首をここに持ってこい!」
ヒステリックな命令。
だが、ザインは恭しく一礼しながらも、冷静に反論した。
「仰せのままに。……ですが、ヴィオラ様。今の奴らは勢いに乗っています。シレーヌすら退けた連携力、生半可な戦力では返り討ちに遭うでしょう」
「じゃあどうしろって言うのよ! 私がこうして苦しんでいるのを見てるだけ!?」
「滅相もございません。……奴らは今、砂漠を抜けて『アルカナ』へ向かっている頃合いです」
ザインは顔を上げ、冷徹な笑みを浮かべた。
「ならば、あそこに配置している『番犬』を使うのが最善かと」
「番犬……?」
ヴィオラの動きが止まる。
彼女の脳裏に、漆黒の闇に溶ける一人の騎士の姿が浮かんだ。
言葉を持たず、心を持たず、ただ彼女の命令のみを実行する最強の剣士。
「……『黒騎士』のことか」
「はい。奴の実力は折り紙付き。それに……カノアという少年に対しては、これ以上ない『劇薬』となるでしょう」
ザインの言葉に、ヴィオラの歪んだ唇が吊り上がった。
痛みも忘れ、昏い歓喜の色が瞳に宿る。
「そうね……そうだったわ。あの男なら、実力も、そして『因縁』も申し分ない……!」
ヴィオラはくつくつと喉を鳴らした。
その残酷な運命の皮肉を想像するだけで、崩れかけた顔の痛みが和らぐような気がした。
「許可するわ。黒騎士を解放しなさい。……仮面の街を、あのネズミどもの処刑場に変えてやるのよ」
「御意」
ザインは深く頭を下げ、部屋を辞した。
その背中からは、主への忠誠心など微塵も感じられない。あるのは、盤上の駒を動かす棋士のような、静かな策謀の気配だけだった。
◇
砂漠の熱風を背に、カノアたちは新たな都市の前に立っていた。
黒の城『アルカナ』。
そこは、奇妙な街だった。
夜空の下、魔導灯が街を照らしているが、行き交う人々の様子がおかしい。
男も女も、子供も老人も。
全員が、顔に「仮面」をつけているのだ。
道化師の仮面、動物の仮面、貴族のような美しい仮面。
素顔を晒して歩いている者は、一人もいない。
「……変な街だね。お祭りでもやってるのかな?」
ルミナが自身の白い仮面を押さえながら呟く。
彼女にとって、仮面は傷を隠すためのものだが、この街の人々にとっては日常の衣服のようだ。
「お祭りにしては、空気が重いな」
カノアは眉をひそめた。
『心眼』に映る街の光景は、一見華やかだ。
だが、人々の魂の色は、仮面の下で息苦しそうに淀んでいる。
何かを隠している色。
本音を押し殺し、演じることに疲弊した色だ。
「とりあえず、情報収集ね。宿を探しましょう」
ヒルダが先導して歩き出す。
街の中に入ると、すぐに違和感の正体がわかった。
この街では、仮面の「ランク」が全てなのだ。
豪華な仮面をつけた者は道の真ん中を歩き、粗末な仮面の者は端を歩く。
カノアの目隠しや、ヒルダの兜は「仮面の一種」として認識されているようだが、余所者を見る視線は冷たかった。
広場に出た時だった。
人だかりができている。
その中心で、一人の男が地面に這いつくばらされ、悲鳴を上げていた。
「許してください! 仮面が割れたのは事故なんです! わざとじゃありません!」
男の仮面は半分砕け、素顔の一部が露わになっている。
ただそれだけのことが、この街では重罪らしい。
周囲の人々は、汚いものを見るように男を指差し、嘲笑っている。
「見ろ、素顔だ」
「野蛮ね。恥知らずだわ」
「早く『黒騎士』様に裁いてもらわないと」
カノアの足が止まる。
黒騎士。
その名が出た瞬間、広場の空気が凍りついた。
カツン、カツン……。
石畳を叩く、重く冷たい足音が響く。
群衆が海が割れるように道を開けた。
その奥から現れたのは、漆黒の全身鎧を纏った一人の騎士だった。
装飾の一切ない、無骨な黒鉄の鎧。
顔を覆う兜には、十字のスリットが入っているだけ。
剣の柄に手を置き、幽霊のように音もなく歩いてくる。
「……ッ!」
カノアの全身に、鳥肌が立った。
『心眼』が、警告音を鳴らすどころか、フリーズしたのだ。
見えない。
目の前に確かに「存在」しているはずなのに、魔力も、殺気も、生命力さえも感じない。
まるで、空間そのものがそこだけ切り取られたような「空白」。
「……なんだ、あいつは」
カノアの声が震える。
黒騎士は、這いつくばる男の前に立った。
「慈悲を……! どうか慈悲を……!」
男が懇願する。
だが、黒騎士は無言のまま剣を抜いた。
その動きは、あまりにも自然で、あまりにも速かった。
ヒュン。
風切り音すら置き去りにする一閃。
男の首が飛んだわけではない。
男がつけていた「割れた仮面」だけが、砂のように粉砕されたのだ。
「ひぃっ……!」
男は腰を抜かし、完全に露わになった素顔を隠して泣き崩れた。
殺しはしない。だが、衆人環視の中で「恥」を晒させる。それがこの街の処刑なのだ。
黒騎士が剣を納める。
その所作。
流れるような納刀の軌道。
無駄の一切ない足運び。
それを見た瞬間、カノアの記憶の奥底で、何かが激しく明滅した。
(……嘘だろ?)
カノアは無意識に一歩踏み出していた。
違うはずだ。ありえない。
だって、あの人は遠征に行っていて、あの日、俺が目を奪われた時にはいなかったはずだ。
それに、あんな冷たい気配じゃなかった。もっと温かくて、大きな背中だったはずだ。
でも。
あの剣の構えだけは。
カノアに剣を教えてくれた、世界でたった一人の師匠の癖と、完全に一致していた。
「……師匠?」
カノアの呟きは、喧騒にかき消された。
だが、黒騎士の兜が、ピクリと動いた気がした。
十字のスリットの奥から、底知れぬ闇がカノアを見据える。
その視線を感じた瞬間、カノアは確信してしまった。
あれは、俺がよく知る「何か」だ。
黒騎士は踵を返し、街の中心にある巨大な城――『黒の城』へと戻っていく。
カノアは動けなかった。
ただ呆然と、その漆黒の背中を見送ることしかできなかった。
「カノア……? 知ってる人なの?」
ルミナが袖を引く。
カノアは乾いた唇を舐め、絞り出すように答えた。
「……まさかな。他人の空似だよ」
そう言い聞かせるしかなかった。
だが、胸の動悸は収まらない。
ヴィオラの情報を得るには、あの黒騎士に近づくしかない。
それはつまり、あの不気味な既視感の正体を暴きに行くということだ。
「……行こう。あの城に用がある」
カノアは歩き出した。
その足取りは、いつもの軽やかさとは違い、どこか重く、引きずられるようだった。
黒の城アルカナ。
仮面の下に隠された真実が、カノアに牙を剥こうとしていた。




