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36話 一番速いウサギとの契約

 

 かつて、私は音が嫌いだった。


 貧民街の喧騒。罵声。嘲笑。

 そして何より、私自身の耳障りな泣き声。

 世界はあまりにも騒々しく、醜い音で満ちていた。だから私は願ったのだ。


 すべてが消えてしまえばいい。

 雪が降り積もる朝のような、しんとした静寂の中で、誰にも邪魔されずに眠りたいと。


 ヴィオラ様は、そんな私に力をくれた。

 『静寂』という名の、美しいガラスの檻を。


 けれど……ああ、どうしてだろう。

 ガラスが割れた今、流れ込んでくるこの世界の音は――子供たちの笑い声や、風が木々を揺らす音は、こんなにも優しく響くのだろうか。


「……負けたのね、私」


 噴水の縁で、シレーヌは空を見上げていた。

 魔力を失い、もう声を発することもできない。

 けれど、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。


 耳を澄ませば、遠くから楽しげな足音が聞こえる。


 彼らが奏でる音色は、私の静寂よりもずっと、ずっと鮮やかで……羨ましいほどに美しかった。


「……私は……どうしてこうなってしまったんだろう……」


 ◇


 ミラムの街に、活気が戻りつつあった。

 石化から解けた人々が、家の修繕を始め、市場には久しぶりに呼び込みの声が響いている。


 そんな喧騒を背に、カノアたちはひっそりと街を出ようとしていた。

 フィーネには何も言わずに。


 彼女は今頃、再会した家族と抱き合っているはずだ。水を差すような真似はしたくない。


「……本当によかったの? カノア」


 ルミナが何度も振り返りながら尋ねる。

 カノアは前を向いたまま、布越しの視線を砂漠の地平線に向けていた。


「いいんだ。フィーネの居場所はここだ。俺たちみたいな流れ者に付き合わせるわけにはいかない」


「でも……」


 ルミナが言いかけた時だった。

 背後から、バタバタという慌ただしい足音が近づいてきた。


 カノアの『心眼』が捉えるまでもない。その特徴的なリズムは、よく知るウサギのものだ。


「待ってよッ!!」


 フィーネだった。

 彼女は息を切らせて駆け寄ると、カノアたちの前に立ちはだかり、両手を広げた。


「水くさいじゃん!! なんで黙って行こうとすんの!?」


 その瞳は潤み、長い耳は怒ったように逆立っている。


「ルミナ、カノア、ヒルダ……!」


「……フィーネ」


 カノアは足を止めた。

 フィーネは肩で息をしながら、訴えるように叫んだ。


「ボクは……仲間じゃねぇのかよ!?」


 その言葉に、ルミナがたまらず駆け寄ろうとする。

 だが、それを制したのはヒルダだった。

 彼女は巨大な身体でルミナの前に立ち、静かに、けれど厳しくフィーネを見下ろした。


「フィーネ。……貴女には、守らなきゃいけない家族がいるでしょう?」


「……っ」


「シレーヌの支配が無くなったとはいえ、この街はまだ不安定よ。誰かが導き、守らなければ、また別の脅威に晒されるかもしれない。……貴女の『耳』は、そのためにあるんじゃないの?」


 ヒルダの正論に、フィーネが言葉を詰まらせる。

 カノアが一歩前に出た。

 彼はわざと、冷たい声を作った。


「俺たちは魔女ヴィオラをぶっ飛ばしに行くんだ。……遊びじゃない」


 カノアは自身の目隠しを指差した。


「俺たち三人はみんな、ヴィオラに何かを奪われた。俺は目、ルミナは美貌、ヒルダさんは肉体。……みんな、取り返さなきゃならないものがあって、その目的のために命を懸けて戦ってる」


 そして、カノアは残酷な事実を突きつけた。


「ボクは何も奪われてないから……そこに混じる資格がないって……そういうこと……?」


 フィーネの声が震える。

 カノアは拳を握りしめた。

 強く握りすぎて、爪が食い込む。その手は微かに震えていた。


 ルミナはそれを見逃さなかった。カノアが今、どれほどの思いで嘘をついているかを。


「……そうだ。この旅に、君は必要ない」


 決定的な拒絶。


「……なに……それ……ボクは……」


 フィーネが呆然と立ち尽くす。

 再び、ルミナが堪えきれずにフィーネの元に駆け寄ろうとするが、ヒルダがガントレットで通せんぼをした。


「どうして……!」


「……カノアの覚悟を無駄にする気?」


 ヒルダの声もまた、痛みを堪えているようだった。

 連れて行けば、フィーネは危険に晒される。

 彼女の「日常」を守るためには、ここで突き放すしかないのだと。


「……!」


 ルミナは唇を噛み、涙をこらえた。


「……そう。分かった……みんな、元気でね」


 フィーネは俯き、掠れた声で言った。

 これ以上食い下がれば、カノアたちを困らせるだけだと察したのだ。


「ああ。フィーネも元気で。……行こう、みんな」


 カノアは踵を返した。

 もう振り返らない。振り返れば、決意が揺らぐから。

 ヒルダが小さくフィーネに手を振り、カノアの後に続く。


 ルミナだけが、その場に立ち竦んでいた。


「フィーネちゃん……」


「……ルミナ。行ってよ。ボクのことはいいから」


 フィーネは顔を上げなかった。

 その足元に、ポツポツと涙のシミが広がっていく。


「……うん。元気でね。風邪ひかないでね。お水いっぱい飲んでね!」


 ルミナは精一杯の言葉を残し、走り出した。

 二人の背中を追って。


「……うん。バイバイ」


 フィーネの声は、砂漠の風にかき消された。


 ◇


 フィーネは、一人で街への道を歩き始めた。

 足取りは重い。心にぽっかりと穴が空いたようだ。


(分かってる。カノアがそんなこと本心で思ってないって)


 彼の『心眼』には、ボクの未熟さも、家族への想いも、全部お見通しだったんだろう。

 だから、あえて悪役になって、ボクを家族の元へ帰したんだ。


(みんな、危険な旅に、ボクを巻き込みたくないんだよね。みんな優しいから、分かるよ)


 ボクだって、商売人だ。

 心の損得勘定だけで物事を進められるほど、世の中上手くいかないことなんか分かってる。


 命のやり取りをする戦場に、半端な覚悟のボクがいても足手まといになるだけだ。


(だけど、だけどさ……)


 フィーネは胸を押さえた。

 そこにあるのは、理屈では割り切れない痛み。


(今はその優しさが……寂しいよ)


 涙が溢れて止まらない。

 短い付き合いだった。でも、彼らはボクの「逃げ足」を認めてくれた。ボクを仲間だと言ってくれた。

 あんなに心地よい場所は、今までなかった。


 フィーネが立ち止まる。


(……ボクは……)


 このまま、ただの思い出にしていいのか。

 いつか「あの時、すごい人たちと旅をしたんだよ」なんて、昔話として語るだけで満足なのか。


(嫌だ!)


 フィーネは顔を上げた。

 ピンク色の瞳に、強い光が宿る。


「ボク……みんなと……!!」


 フィーネが振り返った、その瞬間だった。


 ドサッ!


 小さな身体が、フィーネに飛びついてきた。


「え……?」


「はぁ、はぁ……! フィーネちゃんッ!」


 ルミナだった。

 彼女はカノアたちの元へ戻らず、引き返してきたのだ。息を切らせ、仮面がズレるのも構わずに抱きついてきた。


「ルミナ……!? 行ったんじゃなかったの……!?」


「走って追いかけてきた! だって……! こんなお別れ嫌だよ!!」


「……!」


 ルミナの腕が、ギュッとフィーネを締め付ける。

 その温もりに触れた瞬間、フィーネの中で何かが弾けた。


(……あー……嫌い)


 フィーネは、ルミナの背中に手を回し、しがみついた。


(嫌いだ。魔女なんて。ボクの家族をめちゃくちゃにした魔女シレーヌも……)


 そして、こんな優しい子たちを苦しめ、引き裂こうとする運命も。


「……ボク……そんなに頼りないかな……?」


 フィーネが震える声で問う。


「そんなことない! フィーネちゃんは……!」


(嫌いだ。大っ嫌いだ)


 自分の無力が。


 ただ守られるだけで、一緒に行けない自分が。


「……ボク……追い付くよ」


 フィーネは顔を上げ、ルミナを見つめた。


「え……?」


「……みんなに置いて行かれないくらい……速くなって……絶対追い付く」


 それは、ただの強がりではなかった。

 魂からの誓い。

 家族を守り、街を復興させ、そしていつか必ず――胸を張って彼らの隣に立つための約束。


「ルミナ」


「フィーネちゃん……」


「だからさ……今は先に行ってて。ボクは走って、すぐに追いつくから。その時、みんなと並んで魔女を倒す」


 フィーネの言葉に、ルミナの瞳から涙が溢れる。

 別れではない。

 これは「待ち合わせ」だ。


「……うん……!」


 ルミナが頷く。

 フィーネは、ルミナの顔を見つめた。

 白い陶器の仮面。その下にある傷跡。

 魔女に奪われた美貌。


(嫌いだ。……こんなに優しい……あったかいルミナから……大切なものを奪った魔女ヴィオラが……大っ嫌いだ)


 フィーネはそっと手を伸ばし、ルミナの仮面に触れた。


「……ルミナ」


「……?」


「初めて見た時から、思ってたんだ。宝石みたいでキラキラしてるって」


 フィーネの手が、仮面をゆっくりと外す。

 ルミナは抵抗しなかった。

 露わになる、赤黒く爛れた素顔。

 だが、フィーネが見ていたのは、そんな表層の傷ではなかった。


「フィーネちゃん……?」


 フィーネは微笑み、ルミナの瞳を覗き込んだ。

 傷ついた皮膚の奥で、決して汚されることなく輝き続ける、二つの光。


「ほら……すっごく……綺麗な瞳だ」


「……!!!」


 ルミナが息を呑む。

 魔女はルミナの美貌を奪った。顔を奪った。


 だが、魔女の眼窩に収まっているのは、アレキサンドライトの瞳――カノアから奪ったものだ。


 今ここにあるルミナの瞳は……紛れもなく、ルミナ本人のもの。


 ヴィオラが奪えなかった、唯一の「美」の残り火。


 カノアは盲目ゆえ、ルミナの瞳を見ることはできない。


 世間の人々は、爛れた皮膚を見て目を逸らす。

 だから、初めてだった。


 この姿になってから、誰かに……容姿を、瞳を、真っ直ぐに褒められたのは。


 ドクンッ。


 ルミナの魂の光が、激しく脈打った。


 カノアの『心眼』でさえ直視できないほどの、爆発的な輝き。


 それは一時的にルミナの身体を全て満たし、爛れた皮膚すらも透明な光で覆い隠していく。

 傷ついた少女の姿が、一瞬だけ、虹色の翼を持った天使のように見えた。


「……フィーネちゃん。待ってるからね。すぐ追いついてきてね」


 ルミナが、光の中で微笑む。

 その笑顔は、どんな宝石よりも美しかった。


「うん。まかせといて! ボクはこの、砂漠で一番速いウサギだから!」


 フィーネは涙を拭い、満面の笑みでVサインを作った。


 二人の少女の約束。

 それは、離れたカノアとヒルダの背中にも、確かに届いていた。


 旅は続く。

 けれど、彼らはもう四人だった。


 離れていても、その魂の色は、見えない糸で強く、固く結ばれていたのだから。

 

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