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32話 共闘の条件


 地下室の闇に、緊張が走る。

 カノアは愛剣の柄に手をかけたまま、ザインを睨みつけていた。


 敵か、味方か。


 その真意を測ろうとするが、ザインの魂の色は氷のように冷たく、感情の揺らぎが全く見えない。


「取引だと? ……アンタ、俺たちを殺すためにここに来たんじゃないのか」


 カノアが問う。

 ザインはふっと鼻を鳴らし、手に持っていた羊皮紙を軽く振ってみせた。


「殺すさ。だが、今ではない。……今の未熟なお前たちを狩っても、ヴィオラ様への『最高のスパイス(絶望)』にはなり得ないからな」


 ザインは羊皮紙を無造作に投げ渡した。

 カノアがそれを受け取り、指先で表面をなぞる。

 点字ではないが、魔力インクで書かれた文字の凹凸から、内容が脳内に流れ込んでくる。


 『音響共鳴理論』。

 そこには、シレーヌの『静寂結界』の構造と、それを打ち破るための魔力波長の計算式が記されていた。


「これは……」


「シレーヌの結界は強力だが、穴がある。……特定の周波数の音波を、一点に集中させて叩き込めば、ガラスのように砕け散る」


 ザインが淡々と解説する。


「お前の連れの歌姫なら、その『音』を出せるはずだ。……もっとも、今のままの未熟な喉では無理だろうがな」


 ルミナがビクリと肩を震わせた。

 彼女は自分の喉元を抑え、悔しそうに俯く。

 先ほどの戦い。声が出せない恐怖に飲み込まれ、何もできなかった無力感が蘇る。


「……なんで、こんなものを私たちに?」


 ヒルダが低い声で問い詰める。

 彼女はルミナを守るように前に立ち、ザインを警戒している。


「敵に塩を送る真似をして、何の得があるの?」


「得などない。これは『育成』だ」


 ザインは表情を変えずに言い放った。


「シレーヌごときに殺されるようなら、その程度の価値しかなかったということだ。……だが、もし彼女を超え、その歌声を『完成』させることができたなら……」


 ザインの瞳が一瞬だけ、鋭く光った気がした。

 だが、すぐにその光は消え、冷徹な仮面に戻る。


「精々あがくことだ。……次に会う時は、私が直々に引導を渡してやる」


 言い残し、ザインは闇の中へと溶けるように消えていった。

 後には、静寂だけが残る。


「……何あいつ? 変なの」


 フィーネが、長い耳をパタパタとさせながら呆れたように呟いた。


「アイツ敵でしょ? 敵なのに助けるなんて、魔女の手下はみんなイカれてるの?」


「かもな。……でも、使えるものは使うさ」


 カノアは羊皮紙を懐にしまった。

 ザインの真意は分からない。だが、この情報が「本物」であることは、『心眼』が告げていた。


          ◇


 とりあえずの危機を脱した一行は、地下室の奥にある休憩スペースで一息ついていた。

 フィーネが持っていた保存食と水を分け合い、体力を回復させる。


「ふぅ……生き返ったぁ」


 フィーネが水を飲み干し、口元を手の甲で拭った。

 彼女はちらりと横目でルミナを見た。

 ルミナはまだ仮面をつけたまま、水筒を手に持っているだけで飲もうとしない。


「ねえ、飲まないの? 干からびちゃうよ?」


「う、うん……でも……」


 ルミナが言い淀む。

 仮面を外せば、素顔が見えてしまう。

 カノアやヒルダは知っているが、フィーネにはまだ見せていない。

 先ほどの逃走劇で助けてもらったとはいえ、もしこの顔を見て、彼女に嫌悪されたら……。


「気にしなくていいわよ、ルミナ」


 ヒルダが優しく声をかける。


「フィーネちゃんは命の恩人だもの。それに、この子はそんなことで貴女を嫌ったりしないわ。そんな気がするの」


 ヒルダの言葉に、ルミナは少しだけ勇気をもらったようだった。

 彼女は震える手で、ゆっくりと仮面を外した。


 露わになる素顔。

 ヴィオラの呪いによって赤黒く爛れ、ひび割れた皮膚。

 かつての美貌の面影はなく、見る者に生理的な恐怖を与えるような痛々しい傷跡。


 ルミナはギュッと目を閉じた。

 悲鳴が上がるのを覚悟して。


「へえ」


 だが、聞こえてきたのは、拍子抜けするほど軽い声だった。


「結構ハデにやられてるね。……痛くないの、それ?」


 ルミナが恐る恐る目を開ける。

 そこには、ピンク色の瞳で興味深そうに自分の顔を覗き込むフィーネの姿があった。

 嫌悪も、恐怖もない。

 ただの「怪我」を見るような、フラットな視線。


「え……あ、うん。時々、ズキズキするけど……」


「そっか。大変だね」


 フィーネはそれだけ言うと、興味を失ったように自分の耳の手入れを始めた。


「ボクも昔、砂漠で魔獣に噛まれた傷があるけどさ、古傷って雨の日とか痛むんだよねぇ。薬草塗っとく?」


「あ……ううん、大丈夫……」


 ルミナは呆気にとられた。


 それだけ?


 「化け物」とも「可哀想」とも言われない。ただの「怪我人」扱い。

 それが、ルミナにとってはどれほど救われることか。


「……フィーネちゃんは、怖くないの?」


「何が?」


「私の、この顔……」


「んー? 別に?」


 フィーネは耳をピコピコ動かしながら、あっけらかんと答えた。


「ボクは情報屋だからね。世の中にはもっとエグいものがいっぱいあるし。……それにさ」


 フィーネはニッと笑った。


「見た目がどうだろうと、あんたはさっきボクの手を離さなかった。……それが全てでしょ?」


 逃げる時、ルミナは必死にフィーネの手を握りしめていた。

 その温もりが嘘をつかないことを、この聡い獣人は知っているのだ。


「……うん。ありがとう、フィーネちゃん」


 ルミナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは悲しみの涙ではない。

 受け入れられた安堵と、仲間への信頼の涙だった。


 カノアは、その光景を離れた場所から『心眼』で見守っていた。

 ルミナの魂の色が、より一層澄み渡っていくのが視える。

 そして、フィーネの魂の色もまた、少しだけ警戒の色を解き、温かな色に変化していた。


「……いい仲間になりそうじゃん」


 カノアは小さく笑い、懐から先ほどの羊皮紙を取り出した。

 感傷に浸っている時間はない。

 次は、反撃の番だ。


「よし、休憩終わりだ! ルミナ、特訓するか」


 カノアがパンと手を叩く。


「特訓……?」


「そ。ザインの情報が正しければ、シレーヌの結界を破るには、君の歌声を『針』のように鋭くしなきゃいけない」


 ただ叫ぶだけではダメだ。

 一点突破。

 魔力を凝縮し、特定の周波数に合わせて撃ち抜く技術。


「できる? ルミナ」


「……やる」


 ルミナは涙を拭い、仮面をつけ直した。

 その声には、もう迷いはなかった。


「私、もっと強くなりたい。……カノアやヒルダさん、それにフィーネちゃんを守れるくらい、強い歌を歌いたい!」


 ルミナが胸元の『共鳴石』を握りしめる。

 青白い石が、彼女の決意に応えるように微かに明滅した。


 地下室での特訓が始まる。

 音のない世界でも届く、最強の「声」を手に入れるために。


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