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31話 沈黙の襲撃


 オアシス都市ミラムの門をくぐった瞬間、カノアの『心眼エイドス』が奇妙な違和感を捉えた。


 静かだ。あまりにも静かすぎる。

 物理的な音がないだけではない。

 大気中を漂う魔力の粒子までもが、何者かの意志によって強制的に「静止」させられているような、重苦しい圧迫感。


「……気持ち悪いな。水の中にいるみたいだ」


 カノアが呟く。

 隣を歩くルミナも、不安そうに自身の喉元を押さえている。


 街路を行き交う人々は、カノアたち余所者を見ても声を上げない。ただ怯えたように目を伏せ、逃げるように路地裏へと消えていく。


 その視線の先――街の中央広場には、無数の「石像」が並んでいた。

 恐怖に顔を歪め、叫ぼうとして固まった人々の成れの果て。


「あれが……フィーネちゃんの言ってた……」


 ルミナの声が震える。

 見せしめだ。音を立てればこうなるぞという、無言の脅迫。


「悪趣味ね。ナルシスの鏡も大概だったけれど、こっちはもっと陰湿だわ」


 ヒルダが嫌悪感を露わにする。

 カノアは愛剣の柄に手をかけ、神経を研ぎ澄ませた。

 敵はどこだ?

 この広場全体が罠か?


 その時だった。


 チリーン……。


 どこからともなく、澄んだ鈴の音が響いた。

 いや、耳で聞こえたのではない。

 脳髄を直接揺らすような、魔力の波長としての「音」。


「あら、新しいお客様?」


 広場の中央にある噴水。

 その水面が盛り上がり、一人の女性が姿を現した。

 喪服のような漆黒のドレス。顔の下半分を覆う黒いベール。

 そして、その手には黄金のハンドベルが握られている。


 『沈黙の聖女』シレーヌ。


 彼女が立つだけで、周囲の空気が凍りついたように重くなる。

 カノアの『心眼』に映る彼女の色は、深い藍色。それも、全ての光と音を飲み込むブラックホールのような、虚無の色だ。


「貴女たちが、ヴィオラ様を悩ませる『ノイズ』ね。……ふふ、聞いていた通り、随分と騒々しい色をしているわ」


 シレーヌの声は、甘く、そして氷のように冷たかった。


「挨拶は不要よ。私の庭で音を立てる害虫には、永遠の沈黙を与えるだけ」


 シレーヌが、手にしたハンドベルを軽く振った。


 チリンッ。


 その瞬間、世界から「音」が消滅した。


「――ッ!?」


 カノアが叫ぶ。「ルミナ、下がれ!」と言ったはずだった。

 だが、自分の声が聞こえない。

 喉は震えている。空気も振動している。


 なのに、音波として伝わる前に、空間そのものに吸収され、無効化されているのだ。


 絶対的な無音。

 まるで真空の宇宙に放り出されたような、平衡感覚の喪失。


(……マズいな、これは)


 カノアは冷や汗を流した。

 視覚を持たない彼にとって、聴覚は空間認識の重要な補助線だ。


 足音、風切り音、衣擦れの音。それらが消えたことで、『心眼』で捉える3Dマップの精度が一気に低下する。


 距離感が掴めない。


 そこへ、シレーヌが指を振った。

 彼女の背後に浮かぶ無数の水球が、弾丸となって射出される。


 ヒュンッ! という音すらない。

 無音の殺人雨。


 カノアは反応が遅れた。

 肌に感じる風圧だけで回避行動を取るが、完全には躱しきれない。


 バシッ!


 水弾がカノアの頬を掠め、鮮血が舞う。

 ただの水ではない。魔力で圧縮された、鋼鉄以上の硬度を持つ質量弾だ。


「――――!!」


 ルミナが悲鳴を上げようとするが、声にならない。

 ヒルダが前に出て盾になろうとするが、シレーヌは嘲笑うように指を動かす。

 水弾の軌道が直角に曲がり、ヒルダの装甲の隙間――関節部を正確に狙い撃つ。


 ガガガガッ!!


 音のない衝撃。ヒルダの巨体が揺らぐ。

 強い。

 単なる魔力出力だけなら、これまでの敵と変わらないかもしれない。

 だが、この「無音空間」というフィールド効果が、カノアたちの連携を完全に分断している。

 声かけができない。合図が送れない。

 個々が孤立し、各個撃破されていく未来が見える。


(クソッ、どうする!?)


 カノアは思考を加速させる。

 『空間転移バウンダリー・ステップ』で近づくか?

 いや、シレーヌの周囲には高密度の魔力障壁が展開されている。音もなく弾き飛ばされるのがオチだ。

 まずはこの結界を破らなければ勝機はない。


 だが、どうやって?

 ルミナの歌も、声が出なければ発動しない。


 万事休すか。

 そう思った瞬間だった。


 ドンッ。


 カノアの足元の石畳が、リズミカルに振動した。

 敵の攻撃ではない。

 もっと規則的で、意志を持った振動。

 モールス信号のように、床を叩く衝撃が伝わってくる。


『こっち! 逃げて!』


 カノアの『心眼』が、広場の隅にある路地裏を捉えた。

 そこのマンホールの陰から、ピンク色の長い耳がピョコピョコと動いているのが見えた。


 フィーネだ。

 街には入らないと言っていた彼女が、戻ってきていたのだ。


 彼女は口元に手を当て「シーッ」というジェスチャーをし、手招きをしている。


(……助けに来てくれたのか!)


 カノアは瞬時に決断した。

 今は退くしかない。この不利な状況で戦い続けるのは自殺行為だ。


 カノアは魔力を光に見立て閃光魔法フラッシュバンを地面に叩きつけた。


 カッッッ!!!


 強烈な光が炸裂する。

 音は出ないが、光までは消せない。

 シレーヌが一瞬、目を覆ったその隙。


 カノアはルミナの手を引き、ヒルダの肩を叩いて合図を送った。


 ――『空間転移』。

 三人の姿が掻き消える。

 移動先は、フィーネが潜む路地裏の奥だ。


「こっち! 早く!」


 転移した先で、フィーネがカノアの手を引いた。

 彼女の声も聞こえない。だが、その手の温もりと、必死に走る背中が、雄弁に「生きたい」と語っていた。


 フィーネの足取りは迷いがない。

 複雑に入り組んだミラムの裏路地を、まるで自分の庭のように駆け抜けていく。

 追ってくるシレーヌの水弾が、建物の壁を粉砕する。

 だが、フィーネは止まらない。

 彼女の長い耳が、ピクリと動く。


(右! あっちからヤバイ音がする!)


 彼女は直感的に、崩れる壁や飛来する攻撃を察知し、カノアたちを安全なルートへと誘導していく。

 音のない世界。

 それは聴覚特化の獣人である彼女にとっても地獄のはずだ。

 だが、彼女は「音」ではなく「振動」で世界を見ていた。

 地面を伝わる微かな震え。空気の揺らぎ。

 それらを全身で感じ取り、最適解を導き出す。


「……やるじゃん。助かった」


 カノアは内心で舌を巻いた。

 ただの臆病な情報屋だと思っていたが、こいつのサバイバル能力は本物だ。


 やがて、フィーネは一軒の廃屋の地下室へとカノアたちを押し込み、重い鉄の扉を閉めた。

 ズンッ、と扉が閉まると同時に、耳を圧迫していた不快な静寂が少しだけ和らいだ気がした。

 ここはシレーヌの結界の影響が薄い場所なのだろうか。


「はぁ……はぁ……。死ぬかと思った……」


 フィーネがその場にへたり込む。

 ルミナも肩で息をしながら、壁にもたれかかった。


「あ、ありがとう……フィーネちゃん。助けてくれて……」


「……勘違いしないでよね。ボクは、あんたたちに死なれたら情報料がパァになると思っただけだから」


 フィーネは膝を抱え、震える声で強がった。

 だが、そのピンク色の瞳には、涙が溜まっていた。

 怖かったのだ。


 一度逃げ出した地獄に、もう一度戻ってくることが。

 それでも彼女は、カノアたちを見捨てなかった。


「命拾いしたわね。……でも、どうするの? あの魔女、想像以上に厄介よ」


 ヒルダが低い声で問う。

 音を奪われれば、ルミナの歌も、カノアの連携も封じられる。

 真正面からぶつかれば、次は確実に殺される。


「策はある」


 カノアは静かに言った。

 彼は『心眼』で、この地下室の奥――隠し通路の先に広がる空間を見据えていた。

 そこには、微かだが懐かしい気配があった。


 ザインだ。

 あの調教師が、この地下で何かを待っている。


「まずは作戦会議だ。……それに、どうやら先客がいるみたいだしな」


 カノアが視線を向けた先。

 暗闇の中から、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。

 黒い狩猟服。手には長い鞭。

 調教師ザイン。


「……無様な逃走劇だったな、カノア」


 ザインは冷ややかに笑った。

 だが、その手には武器はなく、代わりに一枚の古びた羊皮紙が握られていた。


「だが、合格だ。シレーヌの初撃を生き延びた運だけは褒めてやろう。……手を貸してやる。取引の時間だ」


 敵であるはずの男からの、共闘の提案。

 カノアはニヤリと笑い返した。

 面白くなってきた。

 絶望的な状況こそ、反撃の狼煙を上げるには最高の舞台だ。


いつもお読みいただきありがとうございます!

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