26話 預けられた希望
冷たい実験室に、ヒルダの嗚咽だけが響いていた。
彼女は空っぽの王女を抱きしめたまま、動けずにいた。
三年前、命を懸けて守ろうとした希望。
それが今、中身のない絶望となって腕の中にある。この現実を受け入れるには、彼女はあまりに真っ直ぐな騎士すぎた。
「……私のせいだわ。私が無力だったから、ミリア様は……」
ヒルダが自分を責める言葉を吐き出すたび、彼女の魂の色が灰色に沈んでいく。
このままでは、彼女自身もまた、絶望に飲み込まれてしまう。
「ヒルダさん」
カノアが静かに近づき、その鋼鉄の肩に手を置いた。
「諦めるのはまだ早い」
「……え?」
「俺の目には視えるんだ。この子の魂の奥底に、まだ微かに光が残ってる」
カノアは『心眼』で捉えた真実を告げた。
空っぽに見えるミリアの魂。だが、その最深部には、消え入りそうな蛍火のような輝きが、確かに残っていた。
根こそぎ奪われたように見えても、命の根源までは奪えなかったのだ。
「中身の大部分はヴィオラに持ってかれたかもしれない。……でも、根っこが生きてるなら、奪われた分を取り返して繋げば、元に戻る」
カノアの言葉に、ヒルダが顔を上げる。
虚ろだった彼女の目に、微かな光が戻る。
「取り返す……? ミリア様の、心を?」
「ああ。俺の瞳や、ルミナの顔と同じさ。ヴィオラは奪ったものを自分のコレクションにしてる。なら、ぶっ飛ばして奪い返せばいい」
単純明快。しかし、それこそが唯一の希望。
「でも……今のミリア様を連れて旅をするのは……」
ヒルダが腕の中の少女を見る。
人形のように動かない少女。この状態で過酷な旅を続けるのは不可能だ。守りきれる保証はないし、何より戦闘の余波で彼女を傷つけてしまうかもしれない。
「そうだな。だから――預けるんだ」
カノアは、部屋の入り口を指差した。
そこに、息を切らせたガルフとレジスタンスの面々が到着していた。彼らはオートマタを回収し、カノアたちを援護するために駆けつけてくれたのだ。
「ガルフ!」
ヒルダが叫ぶ。
ガルフは状況を一目で察したようだった。
彼は無言で近づき、ヒルダの腕の中にいる少女を見て、痛ましげに顔を歪めたが、すぐに力強く頷いた。
「……事情は分かった。任せろ、ヒルダ様」
ガルフが胸を叩く。
「王女様は俺たちが守る。ギア・ガルドの地下最深部、誰も手出しできない聖域で、あんたが帰ってくるまで絶対に傷一つ付けさせねぇ」
「ガルフ……」
「あんたは行ってこい。奪われたもん全部取り返して、胸張ってこの子を迎えに来てくれ。……それができるのは、俺たちが憧れたあんただけだ」
ガルフの言葉が、ヒルダの背中を押す。
ヒルダは震える手で、ミリアをガルフへと託した。
少女は抵抗もせず、されるがままにガルフの腕に収まる。
その軽さが、ヒルダの胸を締め付けた。
「……行ってきます、ミリア様」
ヒルダは、少女の額に兜越しにそっとキスをした。
「必ず、貴女の心を取り戻して帰ってきます。……それまで、少しだけ待っていてください」
それは、主従の誓いではない。
愛する娘を旅先に残していく、母親のような慈愛に満ちた約束だった。
「……ありがとう、ガルフ。ミリア様のこと、お願いね」
「おうよ! 吉報を待ってるぜ!」
ガルフたちがミリアを連れて撤退していく。
その背中が見えなくなるまで、ヒルダは見送っていた。
そして、彼女が振り返った時。
そこにはもう、迷いはなかった。
「お待たせ、カノア、ルミナ」
ヒルダが拳を握る。ガシャリと力強い音がした。
「行きましょう。……私の大切な人の心を、取り返しに」
彼女の魂の色は、悲しみの灰色から、燃えるような真紅へと変わっていた。
剣は折れた。守るべき主君もそばにはいない。
だが、その心はかつてないほど強く、熱く燃え上がっている。
「よし。行くか。今回俺は良いとこなしだったから、挽回しないとな!」




