22話 霧の帳と光の檻
ギア・ガルドの北、険しい山岳地帯を抜けた先に、その谷はあった。
『霧の谷』
地元民が恐れて近づかないその場所は、一年中晴れることのない濃密な白霧に閉ざされている。
その霧の中を、一台の巨大な台車が進んでいく。
牽引するのは蒸気機関を搭載した重装甲車両。荷台には、厳重に梱包された全高四メートルを超える巨大なオートマタが鎮座している。
「……すごい霧だね。視界が真っ白だ」
助手席に座るカノアが、わざとらしく手をかざして言った。
もちろん、彼の『心眼』にとって物理的な視界不良など意味をなさない。
だが、この霧はただの水蒸気ではなかった。
カノアの脳内マップに映る世界は、極彩色のノイズが走る抽象画のようだ。霧の一粒一粒に微弱な魔力が込められており、それが空間識覚を狂わせようと常に干渉してくる。
「結界の一種か。……天然のものじゃないな」
カノアが呟くと、運転席でハンドルを握るガルフが苦笑した。
「ああ。ヴィオラの仕業だろうよ。普通の人間なら、この霧に入っただけで方向感覚を失って、谷底へ真っ逆さまだ。俺の義手のコンパスも狂ってやがる」
「でも、カノアには道がわかってるんでしょう?」
後部座席で身を縮めていたルミナが、不安そうに声をかける。
彼女は整備士の作業着に身を包み、顔にはいつもの白い仮面をつけている。
「任せとけって。俺の目は誤魔化されないよ」
カノアは自信たっぷりに笑ってみせたが、内心では舌を巻いていた。
魔力の密度が濃い。
まるで、巨大な生き物の胃袋の中を進んでいるような圧迫感がある。
そして、その霧の奥底に鎮座する『何か』の気配。
それは、ベル・ルージュのナルシスや、森で戦ったザインとは比較にならないほど強大で、そして鋭利な輝きを放っていた。
やがて、霧が晴れた。
いや、唐突に視界が開けたのだ。
谷底に広がる、巨大な湖。その中央に浮かぶ小島に、目指す『鏡華宮』は建っていた。
息を呑むような光景だった。
宮殿はすべてが硝子と水晶で作られていた。
尖塔は天を突き、壁面は周囲の景色を鏡のように映し込んでいる。
湖の水面すらも鏡のように磨き上げられ、空の青と宮殿の輝きを上下対象に反射していた。
世界が二つあるかのような錯覚。
美しく、幻想的で、そしてどこまでも人工的な「静止した世界」。
「……綺麗。でも、すごく冷たい感じがする」
ルミナが身震いをする。
彼女の感性は正しい。そこにあるのは生命の温かみではなく、凍てついた美学の結晶だ。
「止まれ! 何用だ!」
宮殿へと続く一本の橋。その入り口にある関所で、銀色の鎧を着た衛兵たちが立ちはだかった。
彼らもまた、ベル・ルージュの衛兵と同じく、感情のない人形のような目をしている。
「ギア・ガルドの職人組合だ! 発注された『庭園警備用オートマタ』の納品に来た!」
ガルフが身分証と納品書を提示する。
衛兵は無言で書類を確認し、鋭い視線を荷台のオートマタに向けた。
カノアとルミナは息を殺す。
あの中には、ヒルダが潜んでいる。魔力遮断合金で覆われているとはいえ、もし中身を改められれば一巻の終わりだ。
「……確認する」
衛兵が魔導具をかざす。
ブォン、という低い音がして、魔力の波がオートマタをスキャンする。
長い沈黙。
ルミナが祈るように手を組む。カノアは愛剣の柄に指を添え、いつでも抜けるように筋肉を弛緩させる。
「……反応なし。純粋な機械構造と認める」
衛兵が魔導具を下ろした。
カノアは心の中で大きく息を吐いた。ガルフの技術力は本物だったようだ。
「通れ。ただし、宮殿内での無許可な行動は即座に処分対象となる。荷下ろしが済み次第、速やかに退去せよ」
「へいへい、わかってらぁ」
ガルフがアクセルを踏み込む。
重い車輪が橋を渡り、ついに敵の本拠地――鏡華宮の敷地内へと足を踏み入れた。
◇
指定された荷下ろし場所は、宮殿の裏手に広がる広大な庭園だった。
そこもまた、異様な場所だった。
咲き乱れる花々はすべてクリスタルや宝石で作られていた。木々の葉は一枚一枚が磨き上げられた金属片だ。
風が吹くたびに、シャラシャラと涼やかな、しかし無機質な音が響き渡る。
「……悪趣味な庭だな。草一本生えてない」
カノアがオートマタの固定具を外しながら呟く。
周囲に人の気配はない。
今がチャンスだ。
「ヒルダさん、聞こえる? 周りに敵はいないぜ」
カノアがオートマタの装甲をコンコンと叩く。
プシュゥゥゥ……。
蒸気の排出音と共に、胸部の装甲がスライドして開いた。
中から、窮屈そうに身を縮めていたヒルダが顔を出す。
「ふぅ……。やっと外の空気が吸えるわね。……といっても、あまり美味しい空気じゃなさそうだけど」
ヒルダが軽やかに飛び降り、地面に着地する。
その瞬間、ガシャリと重い音が鳴った。
「さて、と。ここからが本番よ。ミリア様を探しましょう」
「ああ。手分けして探すか? それとも……」
カノアが言いかけた時だった。
ピカッ。
庭園の奥、クリスタルの木々の間から、強烈な閃光が走った。
カノアが反応するより早く、光の矢が地面を穿つ。
「――おやおや。招かれざる客が紛れ込んでいるようですね」
光の向こうから、一人の男が歩いてきた。
全身を、鏡のように磨き上げられた白銀の甲冑で包んだ騎士。
兜の隙間からは素顔が見えない。ただ、そこから漏れ出る魔力は、太陽のように眩く、そして絶対的な「秩序」を感じさせるものだった。
「誰だ……!」
ヒルダが大剣に手をかける。
男は優雅に一礼してみせた。
「私はルクス。この鏡華宮を守護する『光彩の騎士』。……ヴィオラ様より、害虫駆除を仰せつかっております」
ルクス。
その名が示す通り、彼が纏う魔力は「光」そのものだ。
カノアの『心眼』が、警告音を鳴らす。
こいつはヤバイ。ナルシスやとは格が違う。
「害虫駆除? ……随分とナメられたもんだ」
カノアが一歩前に出る。
だが、ルクスは動じない。彼は右手を掲げ、パチンと指を鳴らした。
「ナメてなどおりませんよ。……特に貴方、盲目の剣士殿には、とっておきの舞台を用意しました」
瞬間。
庭園にある無数のクリスタルの花々、金属の葉、そして宮殿の鏡面壁――すべてが一斉に発光した。
カッッッ!!!!
世界が白に染まる。
物理的な光量だけではない。
それぞれの光が異なる波長の魔力を帯び、複雑怪奇に乱反射を繰り返している。
「ぐっ……!?」
カノアが膝をついた。
目が見えないはずの彼が、だ。
彼の脳内に直接、色彩の暴力が叩き込まれたのだ。
『心眼』は、魔力の流れや魂の色を視覚情報として脳内で再構築する能力だ。
だが今、周囲の空間は、数億もの異なる色の絵の具をぶちまけたように、狂った情報量で埋め尽くされている。
「見え……ない……ッ」
カノアがうめく。
脳が焼けるような処理落ち(ホワイトアウト)。
敵がどこにいるのか、自分がどこに立っているのかすら分からない。
完全なる「失明」。
盲目の彼が、唯一の武器である『心眼』を、その特性ごと逆手に取られて封じられたのだ。
「カノア!」
ルミナが叫び、駆け寄ろうとする。
だが、その前に光の壁が立ち塞がる。
「おっと。私の相手をして頂くのは、そこの元騎士団長殿だ」
ルクスがヒルダに剣を向ける。
その刀身は、実体のない光の刃で構成されていた。
「貴女の罪深き魂……この光で浄化して差し上げましょう」
「……ッ!」
ヒルダが大剣を抜く。
だが、カノアは動けない。
情報の海に溺れ、脳が焼き切れそうな激痛の中で、彼は初めて「何も見えない恐怖」を味わっていた。




