119話 誰も見たことのない景色
夕暮れが、世界を茜色に染め上げていく。
カノアとルミナは、街道を少し外れた、海を見下ろす小高い丘の上にいた。
ヒルダとフィーネは、「野営の準備をしておくわ」「ボクは薪拾い!」と言って、気を利かせて二人きりにしてくれた。
今日という奇跡のような一日の終わりを、誰にも邪魔されずに過ごせるように。
「……綺麗だね」
ルミナが、海に沈みゆく太陽を見つめながら呟いた。
水平線がオレンジ色に燃え、空の青と混ざり合って、息を呑むようなグラデーションを描いている。
波の音が、心地よいリズムで響いていた。
「うん。……本当に、綺麗だ」
カノアは、その景色を瞬きもせずに見つめていた。
彼の視界は、すでに黄昏を迎えていた。
朝には鮮烈だった色彩が、今は少しずつ彩度を落とし、輪郭が滲み始めている。
『天恵』の魔法が解けようとしているのだ。
あと数分。あるいは数秒かもしれない。
この光が消えれば、カノアは再び永遠の闇へと帰ることになる。
怖いか?
自問する。
かつては、怖かった。
光を失うことは、世界から切り離されることだと思っていた。
だが今は、不思議なほど心は穏やかだった。
隣に、彼女がいるからだ。
「……カノア」
ルミナが、そっとカノアの手を握った。
彼女は、沈む夕日ではなく、カノアの横顔をじっと見つめていた。
その瞳には、不安と、そして切実な願いが宿っていた。
「見て。……私のこと、もっと見て」
彼女は、自分の顔をカノアに向けた。
夕日に照らされたその顔は、神々しいほどに美しかった。
かつて「王国の宝石」と謳われた、完璧な造形。
だが、今の彼女の美しさは、そんな表面的な言葉では表現しきれない深みを持っていた。
傷つき、絶望し、それでも誰かを愛するために立ち上がった魂の強さが、表情の一つ一つに滲み出ている。
「忘れないで。……私が、どんな顔をして笑っていたか。どんな顔で、貴方を見ていたか」
ルミナの声が震える。
彼女は知っている。
カノアの視力が、もう限界に近いことを。
だからこそ、最後の一瞬まで、自分の姿を彼の瞳に焼き付けたがっていた。
美しく戻ったから見てほしいのではない。
大好きな人に、自分という存在を刻み込みたいという、純粋な恋心。
「……ああ。忘れるもんか」
カノアは、ルミナの方を向いた。
視界の端から、黒い靄が侵食してくる。
色彩が灰色に変わり、光が遠ざかっていく。
それでも、カノアは必死に焦点を合わせた。
目の前にいる少女の、涙で潤んだ瞳。震える唇。風になびく髪。
その全てを、網膜ではなく、魂に刻み込むように。
「ルミナ。……君は、本当に綺麗だ」
カノアは言った。
それは、5年前に目を奪われる前に見たどんな宝石よりも、どんな景色よりも、胸を打つ美しさだった。
視力が戻ってよかった。
この目で、君の笑顔を見ることができて、本当によかった。
だが。
太陽が水平線に触れ、最後の強烈な光を放った瞬間。
カノアの視界が、プツリと途切れた。
闇。
絶対的な、静寂な闇。
物理的な光が、完全に消失した。
「……カノア?」
ルミナが息を呑む気配がした。
彼女の顔が見えなくなった。
海も、空も、自分自身の手さえも。
けれど。
カノアは慌てなかった。
彼はゆっくりと、自分のポケットから、使い慣れた黒い布を取り出した。
そして、まだ微かに光の残像が残る自分の両目を、自らの手で覆い隠した。
「……カノア……見えなく、なっちゃったの……?」
ルミナの声が、涙で濡れている。
悲しみ。喪失感。
せっかく取り戻した光を、また失ってしまったことへの嘆き。
カノアは、布を縛り終え、そして静かに微笑んだ。
暗闇の中で、彼は瞼を閉じた。
そして、意識を切り替える。
目で見ようとするのをやめ、魂で感じる世界へ。
――ドクン。
世界が、色を取り戻した。
それは、網膜に映る光ではない。
カノアの『心眼』が捉える、真実の世界。
風の揺らぎが、緑色の波となって森を渡る。
海の熱が、青いグラデーションとなって広がる。
そして、目の前にいる少女。
ルミナの魂が、輝いていた。
さっき肉眼で見た美しさとは違う。
もっと激しく、もっと鮮烈で、そしてどこまでも優しい光。
悲しみも、喜びも、愛も。
彼女が抱える全ての感情が混ざり合い、揺らめき、世界でたった一つの「虹色」となって、カノアの網膜を焼いた。
「……ああ」
カノアは、感嘆のため息を漏らした。
手を伸ばす。
迷うことなく、ルミナの頬に触れる。
その温かさ。
「美しい。……さっき見た君も、最高に綺麗だった」
カノアは、ルミナの涙を親指で拭った。
「でも……やっぱり、俺にとっての『一番』はこっちだ」
「……え?」
ルミナが顔を上げる気配。
「目があろうとなかろうと、関係ないんだ」
カノアは、ルミナを抱き寄せた。
強く、壊れないように優しく。
「俺が愛しているのは……あのゴミ捨て場で、泥まみれになりながらも強く輝いていた、君の『色』だけだから」
外見がどう変わろうと。
たとえ世界が闇に包まれようと。
「好きだよ、ルミナ」
その魂の輝きだけは、決して変わらない。
それさえあれば、俺は生きていける。
「……カノア……ッ!」
ルミナが、カノアの胸に顔を埋めて泣き出した。
それは悲しみの涙ではなかった。
あまりにも深い愛に触れ、魂が震えた歓喜の涙。
彼女の魂の色が、さらに輝きを増す。
虹色が広がり、カノアの闇を優しく塗り替えていく。
――ああ、これだ。
カノアは思った。
師匠が言っていた「誰も見たことのない景色」とは、きっとこのことだ。
物理的な光を超えた先にある、魂と魂が触れ合う瞬間の輝き。
カノアは、ルミナの顎をそっと持ち上げた。
見えなくても分かる。
彼女が今、どんな顔をしているか。
そして、彼女が何を待っているか。
二人の唇が重なる。
言葉はいらない。
互いの体温と、鼓動のリズムだけが、永遠を語っていた。
波音が優しく響く。
一番星が、夜空に灯り始めていた。
二人の周りには、世界で一番綺麗な色が、いつまでも、いつまでも輝き続けていた。




