118話 奇跡の朝
東の空が白み始め、夜の帳がゆっくりと引き上げられていく。
街道沿いの森を包み込んでいた静寂が、小鳥のさえずりと共に、朝の穏やかな空気へと溶け込んでいった。
カノアは、焚き火の消えた跡を見つめながら、大きく伸びをした。
肌を刺す空気は冷たいが、そこには昨日までの澱んだ重苦しさはもうない。
清々しい、始まりの朝の匂いがした。
「……おはよう、カノア」
ヒルダが、近くの小川で顔を洗って戻ってきた。
水滴が滴る銀髪が、朝日に輝いている。
彼女はすでに旅支度を整えていた。
その背中にはもう大剣はなかった。
愛剣『プロメテウス』は、ミリア王女を守る守護の剣として、城に置いてきたのだ。
「おはよう、ヒルダ。……いよいよだな」
カノアは立ち上がり、自身の目元を覆う布を締め直した。
『心眼』の光は、昨夜よりもさらに弱くなっている。
色彩は失われ、世界の輪郭がぼんやりとした灰色の濃淡でしか感じられない。
あと数日もすれば、完全に闇に戻るだろう。
だが、不思議と不安はなかった。
隣には仲間がいる。その温もりさえ感じられれば、光などなくても歩いていける。
「んぅ……おはよぉ……」
毛布の塊がもぞもぞと動き、フィーネが顔を出した。
長い耳が寝癖で折れ曲がっている。
彼女もまた、大きなリュックサックを枕元に置いていた。中には、王都の市場で買い込んだ食料や水、そして「商売道具」が詰め込まれている。
「おはよう、フィーネ。……ルミナは?」
カノアが尋ねると、少し離れた岩の上から、ルミナが手を振った。
彼女は一人、朝日に向かって祈りを捧げていたようだ。
その横顔は、神々しいほどに美しい。
ヴィオラの呪いが解け、戻ってきた本来の美貌。
だが、カノアの『心眼』に映るのは、その外見の美しさよりも、彼女の内側から溢れ出る、優しく強い魂の輝きだった。
ルミナが駆け寄ってきて、カノアの目の前でニコリと笑う。
そして、手話のように指を動かした。
『お・は・よ・う』
声は出ない。
喉の奥はまだ、焼けたように熱いままだ。
けれど、彼女の表情に陰りはない。
声が出なくても、心は伝えられる。昨夜、カノアがそう教えてくれたから。
「ああ、おはよう。……いい天気になりそうだ」
四人は簡単な朝食を済ませ、荷物をまとめた。
長く留まったこの場所とも、お別れだ。
「さあ、行こうか。……世界の果てまで」
カノアが荷物を背負う。
目的地はない。ただ、四人で歩くことそのものが目的の旅。
そう思って街道に足を踏み出した時だった。
ドドドドド……。
遠くから、地鳴りのような音が響いてきた。
カノアが足を止める。
『心眼』が、後方――王都の方角から急速に接近してくる多数の気配を捉える。
「……なんだ?」
ヒルダが剣に手をかける。
だが、フィーネが耳をピコピコと動かし、パァッと顔を輝かせた。
「違うよ! これ、馬蹄の音だ! それに……懐かしい匂いがする!」
砂煙の向こうから現れたのは、王家の紋章を掲げた馬車と、数十騎の騎馬隊だった。
先頭を走っているのは、ガルフだ。
彼は馬上で大きく手を振り、叫んでいる。
「おーい! 待て待てぇぇッ!」
馬車がカノアたちの前で急停車する。
扉が開き、中から飛び出してきたのは、純白のドレスの裾をまくり上げたミリア王女だった。
「はぁ、はぁ……! 間に合いました……!」
ミリアは息を切らせながら、乱れた髪も気にせずに駆け寄ってくる。
「ミリア様!? どうしてここに!?」
ヒルダが驚いて駆け寄る。
王女が城を抜け出してくるなど、前代未聞だ。
「どうしても……お見送りをしたくて……!」
ミリアは瞳を潤ませて訴えた。
その後ろから、ガルフが苦笑しながら降りてくる。
「止められなかったんだよ。『恩人を黙って行かせるなんて、王家の恥です!』って聞かなくてな。……まあ、俺たちも同じ気持ちだったがな」
騎馬隊の兵士たち――『暁の連隊』の仲間たちも、口々に声を上げる。
「水臭いですよ、みなさん!」
「俺たちにも、ありがとうって言わせてくださいよ!」
街道が、感謝と歓声で埋め尽くされる。
カノアは呆気にとられ、そして照れくさそうに鼻の下をこすった。
「……参ったな。こういうの苦手だからこっそり出ていったのに」
「ふふっ。人気者は辛いわね」
ヒルダが微笑み、ミリアに向き直った。
二人は見つめ合い、そして無言で抱き合った。
主従としてではなく、姉妹として。
最後の別れと、再会の約束を込めて。
「……お元気で、ヒルダ」
「はい。……貴女も、立派な女王になってください」
そして、ミリアはルミナの手を取った。
「ルミナさん。……貴女の歌声が、この国を救ってくれました。貴女がいなければ、この国は今も悪夢の中にありました。……本当に、ありがとうございます」
ルミナは首を横に振り、ミリアの手を握り返した。
感謝されるようなことはしていない。
私はただ、大切な人たちのために歌っただけ。
そう伝えたかった。
口を開く。
だが、音は出ない。
ヒューッという、空気が漏れる音だけが虚しく響く。
(……伝えたい)
ルミナは焦った。
言葉にしたい。
「ありがとう」と。「元気で」と。
身振り手振りだけじゃ足りない。
私のこの溢れる想いを、ちゃんと言葉にして、音に乗せて届けたい。
喉が熱い。
胸の奥で、何かが脈打っている。
『共鳴石』が、彼女の鼓動に合わせて淡く光り始めた。
――思い出して。
――貴女の歌は、何のためにあるの?
自分を飾るためじゃない。
誰かを守るため、誰かと繋がるための「架け橋」だ。
声が出ないなら、魂で歌えばいい。
想いが強ければ、それは必ず音になる。
そして、隣にはカノアがいる。
光を失いつつある彼に、最後に私の「一番綺麗なもの」を見せてあげたい。
(……届け!)
ルミナは、喉の痛みを無視して、思い切り息を吸い込んだ。
肺いっぱいに、朝の澄んだ空気を満たす。
イメージするのは、天から降り注ぐ祝福の光。
感謝と、愛と、未来への祈りを込めた、贈り物。
――『聖詠・天恵』。
カサついた音ではない。
以前よりも澄んでいて、深く、そして優しい響きを持った声が、世界に響き渡った。
「……ありがとう、ございました……!」
「ルミナ!?」
カノアが驚いて振り返る。
ヒルダも、フィーネも、ミリアも、全員が目を見開いた。
ルミナの身体から、黄金色の光が溢れ出していた。
それは魔力ではない。
彼女の魂が奏でる、奇跡の輝き。
光は波紋となって広がり、その場にいる全員を包み込む。
温かい。
疲れた身体に力が戻り、心が洗われていくようだ。
そして、その光の中心にいたカノアに、異変が起きた。
「……え?」
カノアは目を見開いた。
目隠しの奥。
灰色の濃淡しかなかった世界に、色が戻ってくる。
赤、青、緑、金。
ぼんやりとした輪郭が鮮明になり、光の粒子が形を成していく。
それは『心眼』による疑似的な視覚ではない。
網膜が光を捉え、脳が色彩を認識している、物理的な「視力」。
「……まさか」
カノアは震える手で、目隠しを外した。
眩しい。
朝日が目に染みる。
涙が出るほど眩しい。
だが、それ以上に鮮烈に飛び込んできたのは、目の前で微笑む少女の姿だった。
朝日を浴びて輝く、涙で潤んだ宝石のような瞳。
「……カノア……?」
ルミナが、信じられないという顔でカノアを見つめる。
彼女の瞳に、カノアの顔が映っている。
左目が緑、右目が赤。
『アレキサンドライト』の輝きが、戻っていた。
(……ああ。そうか)
カノアは理解した。
これは、目が治ったわけじゃない。
ヴィオラから瞳を取り返したわけでもない。
これは『天恵』だ。
ルミナの歌が起こした、ほんのひとときの奇跡。
魔法が解ければ、また消えてしまう泡沫の光。
でも、だからこそ。
「……綺麗だ」
カノアは呟いた。
美しい顔だからじゃない。
彼女が、自分に向けてくれているその笑顔が、泣きたくなるほど愛おしいから。
「見えるよ、ルミナ。……やっぱり君は、世界で一番綺麗だ」
「カノア……!」
ルミナが泣きながら飛びついてくる。
カノアは彼女をしっかりと受け止めた。
『心眼』で感じる色だけじゃない。
この目で、彼女の表情を、流れる涙の透明さを、焼き付けることができる。
その幸福感に、胸が震えた。
「……行きましょう」
騒ぎが落ち着いた後、ヒルダが声をかけた。
彼女は、ミリア王女との別れを済ませ、晴れやかな顔をしていた。
「うん……行こうか」
カノアは頷いた。
視界は鮮明だ。
フィーネのピンク色の髪が風に揺れているのが見える。
ヒルダの銀髪が、朝陽に照らされて輝いているのが見える。
そして、空の青さが、森の緑が、こんなにも鮮やかだったことを思い出していた。
四人は歩き出した。
背後からは、いつまでも感謝の言葉が降り注いでいる。
「……ねえ、カノア」
ルミナが隣を歩きながら、そっと手を繋いできた。
「私ね、見てほしいの。……今の私を、覚えていてほしい」
「ああ。……一瞬だって見逃さないよ」
カノアは、繋いだ手を強く握り返した。
この視力がいつまで続くかは分からない。
もしかしたら、今日の日没と共に消えてしまうかもしれない。
だからこそ、この目に映る全ての瞬間を、宝物のように心に刻もう。
一行は街道を進む。
その足取りは軽い。
カノアは時折、空を見上げ、道端の花を見つめ、そして仲間たちの顔を見た。
世界は、こんなにも美しかったんだ。
だが、昼過ぎになる頃。
カノアは気づいていた。
視界の端が、少しずつぼやけ始めていることに。
色彩の彩度が、微かに落ちてきていることに。
(……早いな)
魔法が解ける時間が近づいている。
だが、カノアは誰にも言わなかった。
ただ、隣を歩くルミナの横顔を、瞬きするのも惜しいほどに見つめ続けていた。
夕暮れが近づく。
彼らは、海が見える丘へと向かっていた。
そこで、最後の太陽を見届けるために。




