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117話 二人の時間


 王都の喧騒を背にし、街道を歩くこと数時間。


 太陽が地平線の彼方へと沈み、空が茜色から深い群青へと塗り替えられていく頃、カノアたちは街道を少し外れた森の入り口で足を止めた。


 今夜はここで野営だ。


 カノアが慣れた手つきで枯れ木を集め、小さな焚き火を起こす。


 パチパチ、という薪が爆ぜる音だけが、静寂な荒野に響き渡る。

 揺らめく炎が、四人の影を長く、大きく地面に投影していた。


 食事を終え、夜が深まると、それぞれの時間が訪れる。


 ヒルダは少し離れた岩場に座り、月明かりの下で剣の手入れをしていた。


 砥石が刃を滑る、シュッ、シュッという規則的な音が、どこか心地よいリズムを刻んでいる。


 フィーネは、昼間の興奮が冷めやらぬまま遊び疲れたのか、カノアが貸した毛布にくるまり、丸くなって寝息を立てていた。時折、長い耳がピクリと動くのが愛らしい。


 そして、焚き火のそばには、カノアとルミナの二人だけが残された。


「……静かだな」


 カノアがポツリと呟く。

 その声は、焚き火の熱に溶けて消え入りそうだった。


 彼は、自分の目元を覆う布の上から、そっと瞼を押さえた。


 視界は、もうほとんど何も映していない。


 かつて世界を極彩色に彩っていた『心眼エイドス』の輝きは、風前の灯火のように小さく、頼りなくなっていた。


 焚き火の熱を肌で感じることはできる。

 薪が燃える匂いも、夜風が運んでくる草の香りも分かる。


 だが、その「色」を見ることはできない。

 ただ、黒いキャンバスに滲むような、ぼんやりとした灰色の濃淡が揺らいでいるだけ。


 世界が、また閉じていく。

 5年前、ヴィオラに瞳を奪われたあの日と同じ、絶対的な暗闇が、足元から忍び寄ってくるのを感じていた。


 ギュッ。


 不意に、左手が温かさに包まれた。

 隣に座るルミナが、カノアの手を握ったのだ。


 彼女は声を出さない。出せない。

 喉の奥にあるはずの歌声は、世界を救う代償として置いてきた。


 だが、その指先は雄弁だった。

 カノアの掌の上で、彼女の人差し指がゆっくりと動く。


 『さ・む・く・な・い?』


 たどたどしい指の動き。

 爪先が掌をくすぐる感触が、直接心臓に触れられているようで、カノアは胸の奥が締め付けられるのを感じた。


「……平気だよ」


 カノアは、ルミナの手を両手で包み込んだ。

 柔らかくて、小さな手。


 かつては、石を投げられ、泥を投げつけられ、拒絶されていた少女。


 今は、こうしてカノアの手を握りしめ、体温を分け与えてくれている。


 それが、何よりも嬉しかった。


「君の手が……温かいから」


 カノアが言うと、ルミナが恥ずかしそうに身じろぎする気配がした。

 彼女はそっと身体を寄せ、カノアの肩に頭を預けてきた。


 触れ合う肩から、互いの鼓動が伝わってくる。

 トクン、トクン、というリズムが、不思議とシンクロしていく。


 彼女の髪から、ほのかに甘い香りがした。

 それは高価な香水などではない。


 陽の光を浴びた干し草のような、あるいは雨上がりの森のような、懐かしくて優しい匂い。


 視力を失いつつあることで、他の感覚が鋭敏になっているのかもしれない。

 彼女の体温、呼吸の深さ、そして微かな衣擦れの音。


 それら全てが、ルミナという存在の輪郭を、目で見える以上に鮮明に、愛おしく描いていた。


(……不思議だな)


 カノアは思った。

 5年前、光を奪われた時は、ただ絶望しかなかった。

 世界が閉ざされ、自分は一人ぼっちだと感じていた。

 闇は孤独の色で、静寂は恐怖の音だった。


 でも今は、同じ闇の中にいても、全く違う。


 隣に誰かがいる。

 ただそれだけで、世界はこんなにも優しく、温かい場所になる。

 見えなくても、「居る」ことが分かる。

 それこそが、何よりも確かな光だった。


「……ねえ、ルミナ」


 カノアは空を見上げた。

 きっと、頭上には満天の星が広がっているのだろう。

 かつてグレンが見せてくれた、宝石箱をひっくり返したような星空が。


 今の彼には、その輝きは見えない。

 けれど、心の中には、もっと美しい星が輝いていた。


「俺さ。……君に出会えて、本当によかった」


 ルミナの身体が、ビクリと震える。


「目が見えなくなった時は、何もかも終わったと思った。神様を呪ったし、運命を恨んだ。……でも」


 カノアは言葉を探した。

 飾り気のない、本心の言葉を。


「もし目が見えてたら、俺は君の『色』に気づけなかったかもしれない」


 ゴミ捨て場の、泥だらけの少女。

 もし視力があったら、その汚れた外見だけを見て、通り過ぎていたかもしれない。


 この目が光を失い、表面的な情報を遮断されたからこそ、魂の奥底にある、あの虹色の輝きを見つけることができた。


 世界で一番綺麗な色を。


「奪われたことは、やっぱり悔しいけどさ。……でも、そのおかげで君を見つけられたなら、悪いことばかりじゃなかったのかもな」


 カノアは苦笑した。

 それは強がりではなく、旅の果てに辿り着いた、偽らざる本音だった。


 ルミナが顔を上げる気配がした。

 彼女の手が、カノアの胸元から離れ、そっと頬に触れる。


 震える指先が、目隠しの布をなぞり、その下の傷跡を優しく撫でる。


 まるで、その傷の痛みを、自分の指で吸い取ろうとするかのように。


 『わたしも』


 彼女の指が、再びカノアの掌の上で動き出す。

 一文字ずつ、噛み締めるように。


 『カノアがいてくれたから』


 『わたしはわたしをすきになれた』


 その言葉が、カノアの心に染み込んでいく。

 かつて「化け物」と呼ばれ、自分自身を呪っていた少女。


 彼女が今、自分を好きだと言ってくれた。

 それは、カノアが彼女に与えた救いであり、同時にカノア自身が彼女から貰った救いでもあった。


 最後の文字を描き終えると、彼女の手が止まった。

 そして、ポツリと。

 温かい雫が、カノアの頬に落ちた。

 涙だ。


「……泣くなよ」


 カノアは、ルミナの涙を親指で拭った。

 その涙は熱く、けれど清らかだった。


「声が出なくても、聞こえるよ。……君の歌が」


 カノアは自分の胸を、トンと叩いた。


「俺の中で、ずっと響いてる。……君がくれた勇気も、優しさも、愛も。全部、ここにある」


 耳で聞く音ではない。

 魂が共鳴する音。


 それは、どんな名曲よりも美しく、カノアを勇気づける旋律。


 ルミナが、声にならない声を漏らして、カノアに抱きついた。


 ドンッ、と胸に飛び込んでくる衝撃。

 震える肩。必死にしがみつく腕の力。


 カノアは彼女を強く抱きしめ返した。

 かつては、守るために剣を握った手。


 今は、ただ愛する人を抱きしめ、その存在を確かめ合うために。


 言葉はいらない。

 ただ、互いの鼓動を感じ合うだけで、心が通じ合っていた。


 ドクン、ドクンという心臓の音が、二人の世界を満たしていく。


 失ったものは多い。

 光も、声も、かつての平穏も。


 けれど、彼らは手に入れたのだ。

 欠けた部分を埋め合わせ、支え合い、共に歩むことができる「半身」を。


 焚き火が小さく爆ぜる音。

 遠くで聞こえる夜鳥の声。


 そして、腕の中に在る、愛する人の確かな体温。

 カノアにとって、今のこの瞬間こそが、かつて師匠が見ろと言った「誰も見たことのない景色」なのかもしれない。


 目には見えないけれど、魂が震えるほど美しい世界。


 夜が更けていく。

 月が天頂に昇り、銀色の光を地上に降り注ぐ。

 二人は寄り添ったまま、静かな時間を過ごした。


 それは、傷ついた英雄たちに許された、束の間の、しかし永遠のような安息だった。


 明日は、どんな色が見えるだろうか。

 見えなくても、きっと大丈夫だ。

 隣にはいつだって、虹色の光がいてくれるのだから。


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