116話 残された光
王城の庭園に、午後の柔らかな日差しが降り注いでいた。
名もなき野花が風に揺れ、小鳥たちがさえずる、穏やかな午後。
ヒルダは、ベンチに座って紅茶を飲んでいた。
白い陶器のカップから立ち上る湯気。
口に含むと、アッサムの芳醇な香りと、砂糖の甘さが舌の上に広がる。
「……美味しい」
ふと、独り言が漏れた。
3年前までは当たり前だった味。
けれど、鉄の鎧に閉じ込められていた長い冬の間、彼女がどれほど焦がれ、夢見た味だったことか。
味覚がある。温かさを感じる。
その些細な事実が、彼女の目頭を熱くさせる。
「ヒルダ」
背後から、鈴を転がすような声がした。
振り返ると、そこにはミリアが立っていた。
戴冠式を終え、女王としての公務の合間を縫って来たのだろう。
重厚なドレスではなく、動きやすいシンプルなワンピース姿だ。
「ミリア様。……お疲れではありませんか?」
ヒルダが立ち上がろうとすると、ミリアは手で制して隣に座った。
「いいの。今は、ただのミリアとして貴女と話したいから」
ミリアは、ヒルダの手をそっと握った。
3年前のあの日。
まだ幼かった少女の手は、今は少し大人びて、そして国を背負う者特有の力強さを帯びていた。
「……夢のようです」
ヒルダは呟く。
「こうしてまた、貴女の隣でお茶を飲める日が来るなんて。……あの暗い鉄の檻の中で、私はもう二度と、この光景を見ることはできないと思っていました」
「私もよ。……心を奪われ、闇の中にいた時、ずっと貴女の声を探していたわ」
ミリアはヒルダの肩に頭を預けた。
「ねえ、ヒルダ。……戻ってきてくれるのでしょう? 近衛騎士団長として」
それは、確認のような、けれど微かな不安を含んだ問いかけだった。
王都は解放されたが、国は荒廃している。
復興には強い指導者と、それを支える剣が必要だ。
かつて「王国最強」と謳われたヒルダが戻れば、国民は安堵し、騎士たちの士気も上がるだろう。
それが、一番「正しい」道だ。
だが。
ヒルダは、ミリアの手を握り返さなかった。
代わりに、自分の膝の上に置かれた剣――カノアから借り受けた『黒鉄』の鞘を、愛おしそうに撫でた。
「……ミリア様」
ヒルダは、静かに口を開いた。
その黄金色の瞳には、迷いではなく、澄み渡るような決意の光が宿っていた。
「私は……騎士団には戻れません」
風が止まる。
小鳥のさえずりさえも、遠くへ退いたような静寂。
「……どうして? まだ、体が本調子じゃないから? それなら、ゆっくり休んで……」
「いいえ。違います」
ヒルダは首を横に振った。
「私の身体は戻りました。剣の腕も、リハビリをすればすぐに戻るでしょう。……ですが、私の『魂』の形が、もう3年前とは違うのです」
彼女は空を見上げた。
そこには、どこまでも続く青空が広がっている。
かつては、この城壁の内側だけが彼女の世界だった。
王女を守り、王家に尽くすことだけが、自分の存在意義だと信じていた。
けれど、旅をした。
ゴミ捨て場でカノアに命を拾われ、砂漠を越え、雪山を登り、海を渡った。
泥にまみれ、傷つき、互いの過去をさらけ出し、それでも手を繋いで歩いた仲間たちがいた。
「私は、見てしまったのです。……城壁の外に広がる、残酷で、だけど泣きたくなるほど美しい世界を」
ヒルダは語る。
言葉を選び、心を込めて。
「そして何より……放っておけない家族ができました」
脳裏に浮かぶのは、三人の顔だ。
光を失いつつあるカノア。
声を失ったルミナ。
そして、元気に走り回るフィーネ。
彼らは強い。世界を救った英雄だ。
けれど同時に、あまりにも脆く、危なっかしい子供たちでもある。
「カノアの『心眼』は消えかけています。ルミナの声も戻らないかもしれない。……あの子たちは、世界を救う代償に、自分たちの翼をもぎ取ってしまった」
ヒルダの声が震える。
「それなのに……あの子たちはまだ、旅を続けると言いました。見えない目で、声なき喉で、まだ見ぬ色を探しに行くのだと」
そんな無茶な旅を、どうして放っておけようか。
最強の盾がいなければ、誰があの子たちを守るのか。
最強の剣がいなければ、誰が道を切り拓くのか。
「ミリア様。……貴女はもう、守られるだけの少女ではありません」
ヒルダはミリアに向き直り、その肩に手を置いた。
「あの演説の時……貴女はご自身の足で立ち、民を導いていました。貴女には、ガルフがいます。新しい騎士たちがいます。……私が支えなくとも、貴女はもう、立派な女王です」
「……ヒルダ……」
ミリアの瞳から、涙が溢れる。
彼女は気づいていたのだ。
ヒルダが見ている先が、もう自分ではないことに。
彼女の心が、城壁の外へ、あの傷だらけの英雄たちの元へ飛んでいることに。
「……ずるいわ」
ミリアは涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。
それは、王女としての強がりであり、妹としての祝福だった。
「私を一人前に育て上げておいて、自分だけ新しい家族の元へ行くなんて」
「……ふふ。申し訳ありません」
ヒルダもまた、涙目で微笑む。
「行って。……私の大好きな、お姉様」
ミリアが背中を押した。
命令ではない。許しと、感謝の言葉。
「貴女の剣は、もうこの国のためだけのものじゃない。……世界を照らす、希望の光なのだから」
「……はいッ!」
ヒルダは立ち上がり、最敬礼をした。
騎士としての最後の礼。
そして彼女は、銀髪を翻して歩き出した。
もう、振り返らない。
背中で感じる王女の視線が、温かく、誇らしかった。
◇
城門の前。
そこには、旅装を整えたカノア、ルミナ、フィーネが待っていた。
カノアは杖をつき、ルミナは筆談用のボードを抱え、フィーネは大きな荷物を背負っている。
満身創痍のパーティ。
けれど、その雰囲気は明るかった。
「……遅かったね、ヒルダ」
カノアが、足音だけで彼女だと気づき、顔を向ける。
その目隠しの奥には、もう光は届いていないのかもしれない。
だが、彼の顔には安心しきったような笑みが浮かんでいた。
「ごめんなさい。……少し、お茶が長引いてしまって」
ヒルダは駆け寄る。
カノアの隣に並び、ルミナの頭を撫で、フィーネと拳を合わせる。
しっくりくる。
豪華な玉座の隣よりも、この埃っぽい街道の上の方が、今の自分には相応しい。
「本当に……よかったの?」
ルミナがボードに文字を書く。
『後悔しない?』と。
「ええ。……ここが私の居場所よ」
ヒルダは腰の剣――『黒鉄』を撫でた。
かつて、カノアが魂を込めて打った剣。
今は、彼女がそれを預かっている。
目が不自由になったカノアの代わりに、彼女がこの剣で道を切り拓くのだ。
「私は、貴方たちの剣になる。……盾だけじゃなく、剣にもなれるって、証明したくなったのよ」
ヒルダが悪戯っぽく笑うと、カノアも肩をすくめて笑い返した。
「頼りにしてるよ、元騎士団長様」
「またからかって」
風が吹く。
王都の旗がはためき、彼女たちの旅立ちを見送っている。
門が開かれた。
その先には、果てしなく続く荒野と、まだ見ぬ世界が広がっている。
「行こうか」
カノアの一言で、四人は歩き出した。
ゆっくりと、けれど確かな足取りで。
失ったものは多い。傷跡は消えない。
だが、彼らの心には、何者にも奪えない「世界で一番綺麗な色」が、確かに灯っていた。
残された光は、新たな地平線へと向かう。




