115話 英雄たちの休息
王都に、新しい朝が来た。
数日前まで空を覆っていた紫色の靄は消え失せ、澄み渡るような青空が広がっている。
瓦礫の撤去が進む大通りには、色とりどりの旗が掲げられ、人々の笑顔が溢れていた。
それは、長い長い魔女の支配が終わったことを告げる、再生の祝祭。
王城のバルコニー。
そこに、純白のドレスを纏った少女が立った。
ミリア王女だ。
彼女の頭上には、亡き父王から受け継いだ王冠が輝いている。
まだあどけなさは残るが、その瞳には、国を背負う者としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……私の愛する国民たちよ」
ミリアの声が、魔道具を通じて広場に響き渡る。
「私たちは傷つきました。多くのものを失いました。……けれど、私たちは生きています。奪われた明日を取り戻し、こうしてまた、手を取り合うことができました」
広場を埋め尽くす民衆が、静まり返って聞き入る。
「この勝利は、私一人のものではありません。……勇気ある『暁の連隊』、そして命を賭して戦ってくれた、誇り高き英雄たちのおかげです」
ミリアが振り返り、バルコニーの袖に控えていたカノアたちに手を差し伸べた。
わぁっ! と歓声が上がる。
「……なんか、照れくさいな」
カノアは正装の窮屈な襟元を引っ張りながら苦笑した。
隣には、同じくドレスアップしたヒルダとルミナ、そして珍しくスカートを履かされて不満顔のフィーネがいる。
「堂々としていなさい。……貴方たちは、この国の救世主なんだから」
ヒルダが背中を叩く。
「ヒルダも、だろ?」
「……ふふ。そうね」
彼女はもう、近衛騎士団の鎧を着ていない。
だが、その立ち姿は誰よりも騎士らしく、凛としていた。
◇
戴冠式の後、城の大広間で祝賀会が開かれた。
豪華な料理と音楽。
生き残った騎士たちやレジスタンスのメンバーが、身分を超えて肩を組み、杯を交わしている。
ガルフも、機械義手で器用にワイングラスを持ち、部下たちと笑い合っていた。
そんな喧騒から離れた、城の裏庭。
静かな月明かりの下に、一人のザインが佇んでいた。
彼は祝宴には参加せず、一人で旅立ちの準備を整えていた。
「……行くのか?」
背後から声をかけると、ザインは振り返りもせずに答えた。
「ああ。……あんな騒がしい場所は、私の性に合わん」
カノアが歩み寄る。
その隣には、ルミナ、ヒルダ、フィーネもいた。
全員、抜け出してきたのだ。
「水くさいわね。……せめて乾杯くらいしていけばいいのに」
ヒルダが言うと、ザインはフンと鼻を鳴らした。
「馴れ合いは終わりだ。……それに、私にはやるべきことがある」
ザインは懐に手を入れた。
そこにあるのは、妹リゼの魂が宿る氷色の結晶。
そして、ヴィオラの亡骸から回収した、リゼの「声帯」の魔石。
二つが揃った今、彼は妹を弔う旅に出るのだ。
「北の雪山に戻る。……あそこの氷の城で、あいつを静かに眠らせてやるつもりだ」
「そっか。……妹さんも、きっと喜ぶよ」
カノアが言う。
ザインは一瞬だけ目を伏せ、そしてカノアの方を向いた。
「……カノア。お前の目は、どうだ?」
「ん? うーん……」
カノアは自分の目隠しに触れた。
『心眼』の光は、もう風前の灯火だ。
周囲の景色は、灰色の霧の中に沈みかけている。
魂の色も、以前のような鮮やかさはなく、ぼんやりとした滲みとしてしか認識できない。
「正直、もう限界に近い。……多分、あと数日で完全に閉じるだろうな」
カノアはあっけらかんと言った。
悲壮感はない。
借り物の力だったのだ。役目を終えて消えるのは、自然の摂理だ。
「……そうか」
ザインはそれ以上何も言わなかった。
同情も、慰めもしない。
ただ、戦士として、その覚悟を認めるように頷いた。
「ルミナ。……お前の喉も、大事にしろよ」
ザインの視線がルミナに向く。
彼女は声が出せない。
だが、その瞳で「ありがとう」と伝えていた。
「……ではな」
ザインはコートを翻した。
引き止めない。それが、彼らなりの誠意だと分かっているから。
「あ! ちょっと待って!」
フィーネが駆け寄り、ザインのポケットに何かを押し込んだ。
包み紙に入った、宴会用のクッキーだ。
「お弁当! ……お腹空いたら食べてよね! ボクの奢りだから!」
「……フン。余計なことを」
ザインは口元を緩め、そのまま闇の中へと消えていった。
振り返らない背中。
だが、その足取りは、出会った頃よりもずっと軽やかに見えた。
◇
ザインを見送った後、四人は庭園のベンチに座った。
遠くから、祝宴の音楽が微かに聞こえてくる。
カノアは、ゆっくりと空を見上げた。
『心眼』が消えかけ、星の光さえも見えなくなっている。
広がるのは、静寂な闇。
5年前、ヴィオラに瞳を奪われた時と同じ、絶対的な暗闇。
――怖くないのか?
心のどこかで、問いかける声がする。
もう、あの鮮やかな色彩の世界は、二度と戻らない。
ギュッ。
不意に、左手が温かさに包まれた。
ルミナの手だ。
彼女は何も言わず、ただカノアの手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てていた。
柔らかな肌の感触。
涙で濡れた、温かい雫の熱。
(……ああ。そうか)
カノアは悟った。
目は見えなくても、世界はこんなにも「感じる」ことができる。
ルミナの体温。
隣に座るヒルダの、安心するような生身の衣擦れの音。
足元で丸まっているフィーネの寝息。
光を失っても、俺の世界から色が消えるわけじゃない。
彼女たちがそばにいる限り、俺の世界はいつだって鮮やかだ。
「……ルミナ」
カノアは、空いている右手で、ルミナの髪を撫でた。
視界は暗い。
けれど、心の中に浮かぶ彼女の姿は、どんな宝石よりも美しく輝いている。
「声が出なくても、聞こえるよ。……君の歌が」
ルミナが顔を上げる気配がした。
「俺の耳には、ずっと響いてる。……君がくれた勇気も、優しさも、全部」
カノアは微笑んだ。
「だから、大丈夫だ。……俺たちは、何も失っちゃいない」
ルミナが、カノアの胸に飛び込んでくる。
声にならない嗚咽。
カノアは彼女を抱きしめた。
かつては、守るために剣を握った手。
今は、ただ愛する人を抱きしめるために。
ヒルダが、二人を優しく見守りながら、そっと夜空を見上げた。
満月が輝いている。
長い長い戦いの夜が明け、本当の意味での「休息」が訪れようとしていた。
明日は、旅立ちの日。
王都を出て、まだ見ぬ世界へ。
目が見えなくても、声が出なくても。
四人の絆があれば、どんな道だって歩いていける。
夜風が、優しく彼らの頬を撫でていった。




