114話 勝利の代償
世界が、色を取り戻していく。
『虚飾の王』が砕け散った瞬間、王都を覆っていた銀色の虚構は、朝霧が晴れるように静かに、そして優やかに消え去っていった。
歪められた空は、涙で洗われたような澄み渡る蒼穹へ。
無機質な鏡の地面は、踏みしめられた土と、息吹く石畳へ。
そして、銀色の仮面を被らされていた人々は、体温を持つ生身の人間へと還っていく。
王城のテラス。
戦いを終えたカノアたちは、その再生の光景を呆然と見下ろしていた。
「……綺麗だ」
カノアが呟く。
彼の『心眼』に映る世界は、かつてないほど鮮やかだった。
人々の魂から溢れ出る「安堵」のオレンジ色。
抱き合う家族たちの「愛」の桃色。
そして、空に広がる「希望」の金色。
それらが混ざり合い、王都全体が巨大な虹の揺り籠のように輝いている。
勝利したのだ。
奪われたものを取り戻し、嘘で塗り固められた世界に、真実という楔を打ち込んだのだ。
「……終わった」
ルミナが隣で微笑む。
だが、その声は掠れ、風の音にかき消されそうなほど弱々しかった。
「ルミナ?」
カノアが振り返る。
ルミナは胸元の『共鳴石』を握りしめたまま、カノアを見つめ返そうとして――ふらりと身体を揺らした。
「っと、危ない!」
カノアがとっさに抱き留める。
軽い。
まるで羽毛のように、彼女の身体から質量が抜けてしまったかのようだ。
「……ごめんなさい。……声が、出ないの」
ルミナが口を動かすが、そこから音は紡がれなかった。
喉の奥が焼け付いたように熱く、空気が漏れる音しかしない。
『聖詠・虹彩』。
世界の理を書き換える究極の歌。その代償は、彼女という器にはあまりにも大きすぎた。
歌うための魔力、声を響かせるための生命力。その全てを、最後の一撃に注ぎ込んでしまったのだ。
「喋らなくていい。……今は、休んでくれ」
カノアは彼女を強く抱きしめた。
ルミナはカノアの胸に顔を埋め、静かに頷いた。
その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
悲しみではない。
全てを出し尽くした、心地よい虚脱感と安らぎの涙。
「カノア、貴方もよ」
ヒルダが、痛ましげな表情でカノアを見た。
彼女の指摘に、カノアは自分の目元に手をやった。
布で覆われたその場所が、氷を当てられたように冷たい。
「……ああ。分かってる」
カノアは自覚していた。
視界が、暗くなっていくのを。
『心眼』。
因果を見通し、未来を先読みする神の領域。
それを使い続けた反動が、今、静かに彼を蝕んでいた。
鮮やかだった魂の色が、徐々に彩度を失い、モノクロームの景色へと褪色していく。
風の揺らぎも、熱の奔流も、遠くの気配も。
指の間から砂がこぼれ落ちるように、感覚が一つ、また一つと閉じていく。
(……ここまでか)
カノアは恐怖を感じなかった。
むしろ、役割を終えた道具が静かに眠りにつくような、穏やかな納得があった。
この目は、師匠を超えるために、そして仲間を守るためにあった。
その目的を果たした今、魔法が解けるのは当然の報いなのかもしれない。
「……見えなくなるのか?」
ザインが、瓦礫に腰掛けたまま尋ねた。
彼の手には、妹の魂が宿る氷色の結晶が握られている。
「かもな。……今はまだ、ぼんやりとだが色は分かる。でも、時間の問題かな。」
カノアは強がって笑ってみせた。
「まあ、元々見えなかったんだ。元の世界に戻るだけさ」
そう言って笑うカノアの横顔を見て、フィーネが長い耳を伏せた。
彼女は知っている。
一度手に入れた光を失うことが、どれほど辛く、寂しいことかを。
「カノア……。ボクが、カノアの目になるよ。耳にもなる。手足にもなる」
フィーネがカノアの腕にしがみつく。
「だから、平気なフリしないでよ……」
「……ありがとな、フィーネ。お前は本当に、世界一速くて優しいウサギだ」
カノアはフィーネの頭を撫でた。
その感触だけは、以前と変わらず温かかった。
◇
やがて、城の入り口から賑やかな足音が響いてきた。
ガルフとミリア王女、そして『暁の連隊』の兵士たちだ。
彼らは最上階に辿り着くと、崩壊した玉座と、そこに佇む5人の英雄を見て、歓声を上げた。
「やった……! やったぞぉぉッ!!」
「俺たちの勝利だ! 王都を取り戻したぞ!」
兵士たちが駆け寄り、カノアたちを胴上げしようと押し寄せる。
だが、その輪の中心で、ミリア王女だけは立ち尽くしていた。
彼女の視線は、玉座の裏――隠し部屋の入り口に向けられていた。
「……ミリア様?」
ヒルダが声をかける。
ミリアは震える足で、隠し部屋へと歩き出した。
そこは、かつてヴィオラが国王を監禁していた場所だ。
部屋の中には、豪華なベッドが一つ置かれていた。
そこに、やせ細った初老の男が横たわっていた。
国王だ。
だが、その胸はもう動いていなかった。
「……お父様」
ミリアがベッドの脇に跪く。
王の手を握るが、それは冷たく硬直していた。
ヴィオラの支配が解けた瞬間、薬漬けで無理やり生かされていた肉体が限界を迎え、糸が切れたように息を引き取ったのだ。
安らかな死に顔だった。
長い悪夢から解放され、ようやく眠りにつけたかのような。
「……遅くなって、ごめんなさい」
ミリアは泣かなかった。
ただ静かに、父の額に口づけをした。
「お母様も……もう、いらっしゃらないのですね」
王妃の姿はどこにもない。
おそらく、ヴィオラの「美の素材」として、もっと早い段階で犠牲になっていたのだろう。
この城には、もう王族はミリアしか残っていない。
「ミリア様……」
ヒルダが、ミリアの肩に手を置く。
かける言葉が見つからない。
勝利の代償は、あまりにも大きかった。
だが、ミリアは立ち上がった。
その瞳には、涙ではなく、未来を見据える王の光が宿っていた。
「……泣いている暇はありません。国民たちは、導き手を待っています」
ミリアは振り返り、カノアたち、そして集まった兵士たちを見渡した。
「魔女は去りました。ですが、傷跡は深く、国は荒廃しています。……ここからが、本当の戦いです」
彼女の声は凛として、部屋中に響き渡った。
13歳の少女とは思えない威厳。
それは、心を奪われ、取り戻し、そして絶望を乗り越えた者だけが持つ強さだ。
「私は、この国の女王として立ちます。……どうか皆の力を、私に貸してください」
ミリアが頭を下げる。
その姿に、兵士たちは一斉に膝をつき、最敬礼を送った。
新しい時代の幕開け。
その瞬間に立ち会えたことを、誰もが誇りに思っていた。
◇
その夜。
王都では、ささやかな祝宴が開かれていた。
まだ物資は少ないが、人々は家から持ち寄った酒と食料で、解放の喜びを分かち合っていた。
街のあちこちで焚き火が焚かれ、歌声が響く。
だが、カノアたちはその輪から少し離れた、城壁の上にいた。
喧騒を遠くに聞きながら、静かな夜風に吹かれている。
「……終わったんだな〜……」
カノアは夜空を見上げた。
『心眼』の光は、もうほとんど残っていない。
星の輝きも、街の灯りも、ぼんやりとした灰色の輪郭としてしか認識できない。
完全な闇が訪れるのも、時間の問題だろう。
「……」
隣に座るルミナが、カノアの手に自分の手を重ねた。
声は出ない。
けれど、その掌の温かさが、雄弁に語りかけてくる。
『ここにいるよ』と。
カノアは握り返した。
強く、優しく。
視力がなくても、言葉がなくても。
触れ合うだけで、心が通じ合う。
それは、どんな魔法よりも確かな、二人の絆の証明だった。
「……カノア」
不意に、ヒルダが声をかけた。
彼女は、夜風に銀髪をなびかせ、真剣な眼差しでカノアを見つめていた。
「私、決めたわ」
「……何をだ?」
「私は、ミリア様の騎士には戻らない」
その言葉に、カノアは驚いて顔を向けた。
あれほど王女を大切に思い、再会を喜んでいた彼女が、なぜ。
「ミリア様は、もう立派な女王よ。私がいなくても、ガルフや新しい騎士たちが支えてくれるわ」
ヒルダは自分の鎧を撫でた
「私は、一度死んで、生き返った。……この命は、貴方たちが繋いでくれたものよ。だから、私は私の意志で、これからの生き方を選びたい」
ヒルダはカノアとルミナの前に跪いた。
騎士の礼ではない。
友としての、そして家族としての誓い。
「私は、貴方たちの『剣』でありたい。……これからも、一緒に旅をさせてくれるかしら?」
カノアは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
目が見えなくなっても、声が出なくなっても。
失ったものを嘆く必要なんてない。
だって、こんなにも素晴らしいものが、手元に残っているのだから。
「……当たり前だろ」
カノアは笑った。
最高の笑顔で。
「俺たちの旅は、まだ終わっちゃいない。……世界中を見て回ろう。俺の目が見えなくなる前に、もっともっと、綺麗な色を探しにさ」
ルミナが大きく頷き、フィーネが「やったぁ!」と飛び跳ねる。
ザインは少し離れた場所で、背を向けたままフンと鼻を鳴らした。
だが、その場を立ち去ろうとはしなかった。
夜明け前の風が吹く。
それは、終わりと始まりを告げる、優しい風だった。
傷ついた英雄たちの休息は、まだもう少しだけ続く。




