113話 虚飾の理
カノアの剣が『虚飾の王』の核に触れた瞬間、世界から音が消えた。
衝撃も、痛みも、手応えすらない。
気づけばカノアは、無限に広がる真っ白な空間に立っていた。
上も下もなく、地平線もない。
あるのは、足元に広がる水面のような鏡面と、目の前に佇む不定形の「影」だけ。
『……ようこそ。ここが私の内側だ』
影が口を開く。
その声は、重低音のようでもあり、無数の人間の囁き声が重なったようでもあった。
カノアは剣を下ろした。
『心眼』で視ても、この空間には「敵意」という単純な色は存在しない。
あるのは、もっと根源的で、吐き気を催すほどの「渇望」の濁流。
「アンタは……一体、何なんだ?」
カノアが問う。
影は、ゆらりと形を変えた。
ある時は老人、ある時は少女、ある時は獣。
定まらないその姿は、まるで世界中のあらゆる存在を映し出し、嘲笑っているかのようだ。
『私は悪魔ではない。神でもない。……私は、お前たち人間が鏡の裏側に捨ててきた「汚泥」だ』
影が答える。
『人は、鏡を見る。そして願う。「もっと美しくありたい」「あいつのようになりたい」「今の自分ではない何者かになりたい」と。……その尽きることのない羨望、嫉妬、劣等感。それらが長い年月をかけて澱のように溜まり、自我を持ったのが私だ』
ヴァニタス。
虚飾の王。
その正体は、人類が抱く「コンプレックス」という呪いの集合体。
『ヴィオラという個体は、その中でも特に純粋だった。彼女の魂の飢えは素晴らしかった。……だから私は力を貸した。「概念置換」などという児戯は、ほんの手遊びに過ぎない』
影がカノアに近づく。
その体から、ドロリとした黒い滴が落ちる。
『私が望むのは、もっと根源的な救済だ。……この不完全で、残酷で、不平等な世界を、完璧な「虚構」で塗りつぶすこと』
「……救済だって?」
『そうだ。……見ろ、カノア』
影が手を振ると、空中に無数の映像が浮かび上がった。
それは、カノアたちが破壊してきた「理想の世界」の光景だった。
目が見えるカノア。
顔が綺麗なルミナ。
肉体があるヒルダ。
家族と笑うフィーネ。
そして、妹と暮らすザイン。
『この世界のどこに不幸がある? 誰も傷つかず、誰も失わず、誰も誰かを羨んだりしない。……全ての人間が、自分が主役の物語を生きることができる』
ヴァニタスは両手を広げ、陶酔したように語る。
『痛みとは「エラー」だ。個性とは「争いの火種」だ。現実とは「欠陥品」だ。……ならば、それらを全て排除し、都合の良い嘘で埋め尽くせばいい。それこそが、究極の平穏ではないか?』
カノアは息を呑んだ。
こいつは本気だ。
世界中の人間を、あんな甘ったるい夢の中に閉じ込め、飼い殺しにすることを「善」だと信じている。
その論理には、人間としての感情が欠落している。
完璧すぎて、狂っている。
「……確かに、そこには痛みがないな」
カノアは映像を見つめた。
甘美で、完璧な世界。
そこにいれば、きっと幸せになれるだろう。
だが、カノアの『心眼』は、その映像の奥にある「空虚」を見逃さなかった。
色が、ないのだ。
喜びも悲しみも、全てがプログラムされた演出のように均一で、魂の輝きがない。
「でも、それは『生きてる』とは言わない」
カノアは断言した。
『生きている? 生命活動なら、永遠に維持されるぞ』
「違う。……変わっていくことだ」
カノアは自分の胸に手を当てた。
そこには、幾多の戦いで負った傷跡があり、仲間と過ごした日々の記憶が刻まれている。
師匠を失った痛み。
ルミナを守れなかった悔しさ。
それでも前に進もうと足掻いた、熱い鼓動。
「俺たちは、傷つくから痛いと知る。失うから大切だと気づく。……昨日とは違う自分になろうとして、泥まみれになって足掻く。その『変化』こそが、生きるってことだ」
カノアは『黒鉄』を構えた。
その刀身には、今のカノア自身の魂の色――迷いを含みながらも、力強く燃える「赤」が映っている。
「アンタの世界は、綺麗だけど止まってる。……変化のない永遠なんて、死んでるのと同じだ。俺たちは、そんな剥製みたいな幸せなんかいらない!」
『……理解不能だ』
影が揺れる。
それは困惑のようでもあり、異物を排除しようとする免疫反応のようでもあった。
『不完全を愛するなど……非合理的だ。なぜ、そこまでして痛みを求める? なぜ、醜い現実を肯定する?』
「ああ、非合理的だよ。人間なんてそんなもんだ」
カノアはニッと笑った。
「俺たちは、不完全だからこそ、誰かと手を繋げる。……一人じゃ完璧になれないから、仲間が必要なんだ」
ルミナの歌声が聞こえた気がした。
ヒルダの盾が、フィーネの足が、ザインの鞭が。
不完全なピースが集まって、一つの形を作る。
それが、カノアたちの強さだ。
「アンタには一生分からないだろうな。……最初から完成された『虚構』であるアンタには、誰かを愛するという『痛み』が」
カノアの剣に、光が集束していく。
それは、ルミナから託された『深愛』の輝き。
そして、カノア自身が見つけた「真実」の輝き。
「終わらせてやるよ、ヴァニタス。……俺たちは、傷だらけの現実を愛してるんだ」
『拒絶するか。……ならば、消えるがいい。不完全な種よ』
影が膨張し、世界を飲み込もうとする。
純粋な「無」の概念。
触れれば存在ごと消滅する、究極の拒絶。
それは、人間の醜い感情が生み出した、巨大すぎる悪意の津波。
だが、カノアは一歩も退かなかった。
『心眼』を開く。
視える。
この完璧に見える虚構の世界にも、たった一つだけ、綻びがある。
それは、ヴァニタス自身が「認められたい」「存在したい」と願ってしまった、自我の芽生え。
概念が意思を持った瞬間、そこには「核《急所》」が生まれる。
「見えたッ!」
カノアが踏み込む。
転移ではない。
自分の足で、現実の大地を踏みしめるように、虚構の海を駆ける。
――『一刀両断』。
技名などない。
ただ、ありったけの想いを込めて振り下ろす。
師匠から受け継いだ剣と、仲間たちと紡いだ色が、一つになる。
ザンッ……!!
剣閃が、白い世界を一直線に切り裂いた。
影が真っ二つに割れる。
そこから、眩いばかりの色彩が溢れ出した。
『……そうか。これが……』
ヴァニタスの声が、微かに震えた。
斬られた瞬間に生まれた、初めての感覚。
不快で、熱くて、どうしようもなく鮮烈な刺激。
それは、彼がずっと否定し続けてきた「現実」の味だった。
『……悪くない』
影が崩壊していく。
鏡が割れる音が、連鎖的に響き渡る。
虚構の理が砕け散り、その下から、泥臭くて、騒がしくて、愛おしい「現実」が顔を出す。
カノアの意識が、光の中に吸い込まれていく。
戦いは終わった。
概念との対話、そして決別。
彼らは自らの手で、不完全な世界を選び取ったのだ。




