表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
113/120

113話 虚飾の理


 カノアの剣が『虚飾の王(ヴァニタス)』の核に触れた瞬間、世界から音が消えた。


 衝撃も、痛みも、手応えすらない。

 気づけばカノアは、無限に広がる真っ白な空間に立っていた。


 上も下もなく、地平線もない。

 あるのは、足元に広がる水面のような鏡面と、目の前に佇む不定形の「影」だけ。


『……ようこそ。ここが私の内側だ』


 影が口を開く。

 その声は、重低音のようでもあり、無数の人間の囁き声が重なったようでもあった。


 カノアは剣を下ろした。


 『心眼エイドス』で視ても、この空間には「敵意」という単純な色は存在しない。

 あるのは、もっと根源的で、吐き気を催すほどの「渇望」の濁流。


「アンタは……一体、何なんだ?」


 カノアが問う。

 影は、ゆらりと形を変えた。

 ある時は老人、ある時は少女、ある時は獣。

 定まらないその姿は、まるで世界中のあらゆる存在を映し出し、嘲笑っているかのようだ。


『私は悪魔ではない。神でもない。……私は、お前たち人間が鏡の裏側に捨ててきた「汚泥」だ』


 影が答える。


『人は、鏡を見る。そして願う。「もっと美しくありたい」「あいつのようになりたい」「今の自分ではない何者かになりたい」と。……その尽きることのない羨望、嫉妬、劣等感。それらが長い年月をかけて澱のように溜まり、自我を持ったのが私だ』


 ヴァニタス。

 虚飾の王。

 その正体は、人類が抱く「コンプレックス」という呪いの集合体。


『ヴィオラという個体は、その中でも特に純粋だった。彼女の魂の飢えは素晴らしかった。……だから私は力を貸した。「概念置換」などという児戯は、ほんの手遊びに過ぎない』


 影がカノアに近づく。

 その体から、ドロリとした黒い滴が落ちる。


『私が望むのは、もっと根源的な救済だ。……この不完全で、残酷で、不平等な世界を、完璧な「虚構」で塗りつぶすこと』


「……救済だって?」


『そうだ。……見ろ、カノア』


 影が手を振ると、空中に無数の映像が浮かび上がった。

 それは、カノアたちが破壊してきた「理想の世界」の光景だった。


 目が見えるカノア。

 顔が綺麗なルミナ。

 肉体があるヒルダ。

 家族と笑うフィーネ。

 そして、妹と暮らすザイン。


『この世界のどこに不幸がある? 誰も傷つかず、誰も失わず、誰も誰かを羨んだりしない。……全ての人間が、自分が主役の物語を生きることができる』


 ヴァニタスは両手を広げ、陶酔したように語る。


『痛みとは「エラー」だ。個性とは「争いの火種」だ。現実とは「欠陥品」だ。……ならば、それらを全て排除し、都合の良い嘘で埋め尽くせばいい。それこそが、究極の平穏ではないか?』


 カノアは息を呑んだ。

 こいつは本気だ。

 世界中の人間を、あんな甘ったるい夢の中に閉じ込め、飼い殺しにすることを「善」だと信じている。

 その論理には、人間としての感情が欠落している。

 完璧すぎて、狂っている。


「……確かに、そこには痛みがないな」


 カノアは映像を見つめた。

 甘美で、完璧な世界。


 そこにいれば、きっと幸せになれるだろう。

 だが、カノアの『心眼』は、その映像の奥にある「空虚」を見逃さなかった。


 色が、ないのだ。

 喜びも悲しみも、全てがプログラムされた演出のように均一で、魂の輝きがない。


「でも、それは『生きてる』とは言わない」


 カノアは断言した。


『生きている? 生命活動なら、永遠に維持されるぞ』


「違う。……変わっていくことだ」


 カノアは自分の胸に手を当てた。

 そこには、幾多の戦いで負った傷跡があり、仲間と過ごした日々の記憶が刻まれている。


 師匠を失った痛み。

 ルミナを守れなかった悔しさ。

 それでも前に進もうと足掻いた、熱い鼓動。


「俺たちは、傷つくから痛いと知る。失うから大切だと気づく。……昨日とは違う自分になろうとして、泥まみれになって足掻く。その『変化』こそが、生きるってことだ」


 カノアは『黒鉄(クロガネ)』を構えた。

 その刀身には、今のカノア自身の魂の色――迷いを含みながらも、力強く燃える「赤」が映っている。


「アンタの世界は、綺麗だけど止まってる。……変化のない永遠なんて、死んでるのと同じだ。俺たちは、そんな剥製みたいな幸せなんかいらない!」


『……理解不能だ』


 影が揺れる。

 それは困惑のようでもあり、異物を排除しようとする免疫反応のようでもあった。


『不完全を愛するなど……非合理的だ。なぜ、そこまでして痛みを求める? なぜ、醜い現実を肯定する?』


「ああ、非合理的だよ。人間なんてそんなもんだ」


 カノアはニッと笑った。


「俺たちは、不完全だからこそ、誰かと手を繋げる。……一人じゃ完璧になれないから、仲間が必要なんだ」


 ルミナの歌声が聞こえた気がした。

 ヒルダの盾が、フィーネの足が、ザインの鞭が。

 不完全なピースが集まって、一つの形を作る。

 それが、カノアたちの強さだ。


「アンタには一生分からないだろうな。……最初から完成された『虚構』であるアンタには、誰かを愛するという『痛み』が」


 カノアの剣に、光が集束していく。

 それは、ルミナから託された『深愛カリタス』の輝き。

 そして、カノア自身が見つけた「真実」の輝き。


「終わらせてやるよ、ヴァニタス。……俺たちは、傷だらけの現実を愛してるんだ」


『拒絶するか。……ならば、消えるがいい。不完全な種よ』


 影が膨張し、世界を飲み込もうとする。

 純粋な「無」の概念。

 触れれば存在ごと消滅する、究極の拒絶。

 それは、人間の醜い感情が生み出した、巨大すぎる悪意の津波。


 だが、カノアは一歩も退かなかった。

 『心眼』を開く。


 視える。


 この完璧に見える虚構の世界にも、たった一つだけ、綻びがある。


 それは、ヴァニタス自身が「認められたい」「存在したい」と願ってしまった、自我の芽生え。


 概念が意思を持った瞬間、そこには「核《急所》」が生まれる。


「見えたッ!」


 カノアが踏み込む。

 転移ではない。

 自分の足で、現実の大地を踏みしめるように、虚構の海を駆ける。


 ――『一刀両断』。


 技名などない。

 ただ、ありったけの想いを込めて振り下ろす。

 師匠から受け継いだ剣と、仲間たちと紡いだ色が、一つになる。


 ザンッ……!!


 剣閃が、白い世界を一直線に切り裂いた。

 影が真っ二つに割れる。

 そこから、眩いばかりの色彩が溢れ出した。


『……そうか。これが……』


 ヴァニタスの声が、微かに震えた。

 斬られた瞬間に生まれた、初めての感覚。

 不快で、熱くて、どうしようもなく鮮烈な刺激。

 それは、彼がずっと否定し続けてきた「現実」の味だった。


『……悪くない』


 影が崩壊していく。

 鏡が割れる音が、連鎖的に響き渡る。

 虚構の理が砕け散り、その下から、泥臭くて、騒がしくて、愛おしい「現実」が顔を出す。


 カノアの意識が、光の中に吸い込まれていく。

 戦いは終わった。

 概念との対話、そして決別。

 彼らは自らの手で、不完全な世界を選び取ったのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ