11話 鏡の狂気、女神の幻影
大階段の上、領主ナルシスが指を鳴らした瞬間、世界が反転した。
カノアの『心眼』が捉えていた空間情報が、一瞬にして掻き乱される。
上下左右、前後不覚。
館の内壁を埋め尽くす鏡が一斉に輝き、それぞれが異なる景色を映し出したのだ。ある鏡には天井が、ある鏡には床が、またある鏡にはカノア自身の背中が映っている。
「ようこそ、私の『鏡界』へ」
ナルシスの声が、反響して全方位から聞こえてくる。
彼の姿もまた、無数の鏡の中に増殖していた。
千人のナルシスが、一斉に優雅な手つきで魔法陣を描く。
「まずは挨拶代わりだ」
シュババババッ!!
無数の鏡から、極光のレーザーが放たれた。
それは直進するだけではない。別の鏡に入っては反射し、屈折し、予測不能な軌道を描いてカノアたちに殺到する。
まるで光の檻だ。逃げ場などどこにもない。
「ヒルダさん!」
「任せなさい!」
カノアの叫びに、ヒルダが即座に反応した。
彼女はルミナとカノアを背後に庇い、巨大な両腕を広げて仁王立ちになる。
ガガガガガガッ!!
光線がヒルダの鎧に直撃し、激しい火花を散らす。
だが、鎧は傷一つ付かない。彼女の『物理無効』と『魔法障壁』のハイブリッド防御は、この程度の飽和攻撃では揺るがない。
「……鬱陶しいハエめ。私の光を遮るとは」
鏡の中のナルシスが不快げに顔を歪める。
ヒルダの防御の陰で、カノアは『心眼』を極限まで研ぎ澄ませていた。
(光の反射……魔力の屈折……くそ、目が回るな)
カノアの脳内には、色彩の暴力とも言える情報が流れ込んでいた。
鏡に反射するたびに、魔力の色がプリズムのように分光し、混ざり合い、カオスなマーブル模様を描いている。
どこが実体で、どこが虚像か。
普通なら発狂してもおかしくない状況だ。
だが、カノアは笑った。
「へえ……。綺麗じゃん」
彼は、その混沌を楽しんでいた。
視界を奪われてからの五年間、彼は常に「見えないもの」を見ようと足掻いてきた。
この程度の情報の奔流など、彼にとっては美しいパズルに過ぎない。
「ルミナ、歌えるか?」
「え……?」
「この場所、魔力が充満しすぎてて音が響きそうだ。君の歌で、このキラキラした世界を少し揺らしてくれ」
ルミナは仮面を押さえ、カノアの背中を見つめた。
震えはもうない。
彼女は深く息を吸い込み――そして、歌った。
――アァァァァ……。
透明な歌声が、鏡の広間に響き渡る。
『聖詠』。
ルミナの魔力が音波となって空間を震わせる。
その瞬間だった。
館を満たす光景が、劇的に変貌したのは。
ルミナの口から溢れ出したのは、虹色の光の粒子だった。
それは音に乗って広がり、鏡に反射するたびに輝きを増し、ナルシスの放つ毒々しい極光を、優しく、けれど圧倒的な純度で塗り替えていく。
まるで、薄汚れた硝子の城に、本物の天の川が流れ込んだかのような幻想的な光景。
「な……これは……」
カノアの後ろで、ヒルダが息を呑む。
そして、誰よりも心を奪われたのは、鏡の向こうにいるナルシスだった。
「……美しい」
ナルシスは、攻撃の手を止めていた。
鏡越しに見るその少女――ルミナの姿が、彼の目には全く別のものに見えていたからだ。
ボロボロのローブも、顔を覆う仮面も、そしてその下にある爛れた皮膚すらも、虹色の光に溶けて透き通っていく。
そこに見えるのは、圧倒的な「魂の美」が具現化した姿。
白磁の肌、星屑を散りばめたような長い髪、そして世界中のどんな宝石よりも澄んだ瞳を持った、絶世の女神。
「なんだ、あれは……。私のコレクションに……いや、私の美学にすら存在しない、至高の……」
ナルシスは魅入られたように、鏡の中から手を伸ばした。
自分が作り上げた「静止した美」とは違う、躍動し、溢れ出し、世界を浄化する「生命の美」。
その輝きの前では、彼が誇る美貌も、この館も、全てが色褪せた模造品に見えてしまう。
「欲しい……! あれこそが、私が求めていた真の美……!」
ナルシスの瞳から、狂気じみた羨望の涙がこぼれ落ちる。
彼がルミナの歌声に心を奪われ、完全に隙を見せたその一瞬。
「……よそ見してんじゃねーよ」
低く冷たい声と共に、カノアの姿が掻き消えた。
『空間転移』。
彼が出現したのは、大階段のさらに上。天井付近に浮かぶ、一枚の巨大な鏡の前だった。
カノアには視えていた。ナルシスがルミナに心を奪われた瞬間、その鏡から伸びる魔力の糸が緩んだのを。
「ここが特等席か、ナルシス!」
カノアの愛剣が閃く。
黒い刃が、鏡面を深々と貫いた。
パリンッ!!
甲高い破砕音と共に、鏡に亀裂が走る。
その奥から、苦悶の声が響いた。
「グゥッ……! 貴様ぁッ!!」
鏡が砕け散ると同時に、そこからナルシス本体が転がり落ちてきた。
優雅だった髪は乱れ、美しい顔は怒りで歪んでいる。
だが、その瞳にはまだ、先ほど見たルミナの幻影への執着が焼き付いていた。
「なぜだ……! なぜあんな醜い女の中に、あのような光がある!?」
「醜い? まだそんなこと言ってんの?」
カノアは空中で体勢を整え、着地と同時にナルシスへ冷ややかな視線を向けた。
「アンタの目はとことん節穴だな。……俺の連れはな、最初からずっと、世界で一番綺麗なんだよ」
カノアは剣を構え直した。
ルミナの歌声が、カノアの背中を押すように高らかに響き渡る。
美しさの定義を巡る戦いに、決着の時が迫っていた。




