109話 英雄にはなれない
戦場の喧騒から切り離された、広場の片隅。
ザインの前には、残酷なほど美しい「理想」が立っていた。
銀色の光の中から現れたのは、一人の青年だった。
黒い狩猟服ではなく、白銀の軽鎧を纏っている。
顔立ちはザインそのものだが、その瞳には陰りも、後悔も、冷徹さもない。
あるのは、揺るぎない正義感と、未来への希望だけ。
そして、その傍らには――
「お兄ちゃん、頑張って!」
無邪気に笑う、少女リゼの姿があった。
虚ろな目をした雪の女王でもなく、声帯を奪われた抜け殻でもない。
健康で、幸せそうで、誰からも愛されている、完璧な妹の姿。
「……反吐が出るな」
ザインは、込み上げる吐き気をこらえて鞭を構えた。
目の前の光景は、彼が5年前に夢見て、そして自らの弱さゆえに手放した「あり得たかもしれない未来」そのものだったからだ。
『哀れだね、私』
理想のザイン――銀色の英雄が、優しげな声で語りかけてくる。
『君は、何も守れなかった。リゼを奪われ、プライドを捨て、魔女の靴を舐めて生き延びた。……だが、私は違う』
英雄が剣を掲げる。
その剣は、ザインがかつて持っていたが、魔獣使いの道を選んだ時に捨てた騎士剣だった。
『私は戦った。魔女に屈せず、リゼを守り抜いた。そして今、こうして英雄として讃えられている。……これこそが、君がなりたかった「本当の自分」だろう?』
「……黙れ」
ザインの鞭がうなる。
漆黒の閃光が英雄の顔面を襲うが、英雄は涼しい顔でそれを剣で弾いた。
『暴力では否定できないよ。……君の心の奥底にある「後悔」が、私を生み出したのだから』
英雄が踏み込む。
速い。
魔獣を使役するまでもない、個としての純粋な武勇。
ザインはバックステップで回避するが、頬を薄く切られる。
「くっ……!」
ザインは舌打ちし、懐から魔石を取り出した。
『影狼』を召喚しようとする。
だが、英雄はそれすらも見透かしたように笑った。
『魔獣に頼るのか? ……弱いな。自分の手では何も守れないから、獣の力を借りるしかない』
英雄の剣が閃き、召喚される前の影狼の魔力を霧散させる。
圧倒的な実力差。
スペックだけではない。精神的な優位性が、ザインを追い詰めていく。
『認めろ。君は失敗作だ。……妹を殺し、ただ一人で生き残った、薄汚い敗残兵だ』
その言葉は、ザインの古傷を的確に抉った。
雪山での出来事。
妹は、最期に「生きて」と言ってくれた。
だが、それは許しだったのか、それとも呪いだったのか。
俺は、妹を犠牲にして生き延びただけではないのか。
「お兄ちゃん……」
傍らで、幻影のリゼが悲しげに眉を寄せる。
「もう戦わないで。……こっちに来て? ここなら、もう誰も傷つかないよ」
彼女が手を差し伸べる。
その手を取れば、苦しみは終わる。
後悔も、罪悪感も、全て忘れて幸せになれる。
ザインの手が、無意識に伸びかけた。
だが。
その指先が触れる寸前、ザインの脳裏に、ある光景がよぎった。
――「背中を預ける」と言って笑ったカノアの顔。
(……ああ。そうだ)
ザインは手を止めた。
温かい。
今の自分の手には、血の冷たさだけではない、確かな温もりが残っている。
それは、理想の世界には決して存在しない、泥臭くて不格好な「絆」の温度。
「……断る」
ザインは手を引っ込めた。
そして、懐から一つの結晶を取り出した。
氷色の石。妹の魂。
「リゼは……こんなに軽くはない」
ザインは結晶を強く握りしめ、幻影のリゼを睨みつけた。
「あいつの命は、お前のような都合のいい幻覚ではない。……痛みも、苦しみも、最期の笑顔も、全てが本物だった。それを『なかったこと』にする世界など……死んでも御免だ!」
ザインの魔力が爆発する。
それは、英雄のような輝かしい光ではない。
ドス黒く、粘り気のある、執念の闇。
「それに、私は英雄になどなりたくない」
ザインが鞭を構える。
その先端に、禍々しい呪術の光が宿る。
「私は調教師だ。……獣を従え、毒を操り、泥にまみれてでも生き残る。それが、あいつが『生きて』と言ってくれた私の生き様だ!」
『……愚かな』
英雄が冷ややかに剣を構える。
『汚れたまま生きることに、何の意味がある?』
「意味など後でいい。……今はただ、邪魔な石ころを退かすだけだ!」
ザインが駆けた。
正面突破ではない。
彼は地面に魔石を叩きつけた。
煙幕。
視界が奪われる中、英雄は冷静に魔力探知でザインの位置を探る。
『無駄だ。小細工は通じない』
英雄が煙の中へ剣を突き出す。
だが、そこには誰もいなかった。
代わりに、足元から影が伸びた。
「ガァッ!」
影の中から『影狼』が飛び出し、英雄の足に噛みつく。
さらに、上空から『双頭蛇』が落下し、剣を持つ腕に巻き付く。
『ぐっ……! 魔獣か!』
英雄が魔獣を振りほどこうとする。
その隙に、ザインは背後へと回り込んでいた。
「英雄は一人で戦うかもしれんが……私は違う」
ザインの鞭が、英雄の首に巻き付く。
絞め上げるのではない。
鞭を通じて、零距離から魔力を流し込む。
それは、対象の「存在維持魔力」を強制的に暴走させる、調教師の裏技。
「堕ちろ、偽物!」
バチバチバチッ!!
黒い電流が英雄の身体を駆け巡る。
完璧だった肉体に亀裂が入り、銀色の塗装が剥がれ落ちていく。
『が、あぁ……! なぜだ……私は、お前の理想……!』
「私の理想は、そんなに安っぽくはない」
ザインは鞭を引き抜いた。
英雄が崩れ落ち、幻影のリゼと共に霧散していく。
残ったのは、ボロボロのコートを纏った、いつもの不機嫌な調教師だけ。
「……ふん。世話の焼ける自分だ」
ザインは結晶を懐にしまい、広場を見渡した。
ヒルダも、フィーネも、それぞれの戦いに決着をつけている。
偽物の軍勢が消え、静寂が戻りつつあった。
「……終わったか」
ザインは城を見上げた。
最上階。
まだ終わっていない戦いがある。
カノアとルミナ。
そして、全ての元凶である『虚飾の王』。
「行くぞ。……借りは返さねばならん」
ザインは歩き出した。
英雄にはなれなかった。
だが、彼には帰るべき場所と、背中を預けられる仲間がいた。
それだけで、戦う理由は十分だった。




