105話 砕け散る理想郷
カノアの剣が、偽物のグレンを斬り裂いた。
ザンッ!
手応えはなかった。
師匠の身体は血を流すこともなく、ガラスのように砕け散り、光の粒子となって消えた。
同時に、平和だった家の風景に亀裂が走る。
空が割れ、地面が揺らぎ、完璧だった理想の世界がノイズとなって崩壊していく。
「……聞こえるか、みんな!」
カノアは叫んだ。
この亀裂の向こうに、まだ夢に囚われている仲間たちがいるはずだ。
「騙されるな! そこにある幸せは、俺たちが捨ててきた過去だ! 未来じゃない!」
◇
王城のテラス。
ヒルダは、ミリア王女と並んで美しい庭園を眺めていた。
平和だ。
騎士としての責務を果たし、誰からも尊敬され、愛される日々。
これこそが、彼女が求めていたゴールだったはずだ。
「どうしたの? ヒルダ」
ミリアが心配そうに顔を覗き込む。
ヒルダは、自分の手を見つめていた。
白く、滑らかで、傷一つない手。
……違う。
私の手は、こんなに綺麗じゃない。
剣ダコができ、無数の切り傷が刻まれているはずだ。
「……軽すぎるのよ」
ヒルダが呟く。
「この幸せは、軽すぎる。……私たちが流した血と涙の重さが、どこにもない」
彼女は腰の剣を抜いた。
王女を守るための剣。
だが、今の彼女が守りたいのは、ここにいない「家族」たちだ。
「ごめんなさい、ミリア様。……ここは私の居場所じゃありません」
ヒルダは剣を振り下ろした。
美しい庭園ごと、目の前の王女を斬る。
パリンッ!
世界が砕け、銀色の光が溢れ出す。
◇
大聖堂の控え室。
ルミナは、鏡に映る完璧な美少女を見つめていた。
これが私?
世界で一番美しい歌姫?
「……違う」
ルミナは首を横に振った。
この顔は、私じゃない。
私の顔は、炎に焼かれ、爛れ、それでもカノアが見つけてくれた「世界で一番綺麗な色」だ。
「宝石なんかじゃなくていい。……私は、傷だらけの私で歌いたい!」
ルミナは鏡に向かって拳を叩きつけた。
ガシャンッ!
美しい顔にヒビが入る。
その亀裂の奥から、懐かしい虹色の光が漏れ出した。
◇
ミラムの食卓。
フィーネは、温かいスープを前にして固まっていた。
家族の談笑。平和な日常。
ずっと憧れていた光景。
「……でも、なんか退屈だな」
フィーネはスプーンを置いた。
満たされているはずなのに、身体が疼く。
風を切って走る感覚。ギリギリの戦いの中で感じる高揚感。
そして何より、あの無鉄砲な連中と一緒にバカ騒ぎする時間が、恋しくてたまらない。
「ごめん、パパ、ママ。……ボク、やっぱり行くよ」
「どこへ行くんだ?」
「決まってるじゃん。……友達が待ってる『最前線』だよ!」
フィーネがテーブルを蹴り飛ばして走り出す。
彼女の脚力が、平和な家の壁をぶち抜いた。
◇
雪山の小屋。
ザインは、暖炉の前でリゼの淹れたお茶を飲んでいた。
温かい。
この温もりを、5年間ずっと求めていた。
だが。
「……この茶は、ぬるいな」
ザインはカップを置いた。
目の前で微笑むリゼを見る。
彼女は笑っている。生きて、動いている。
だが、ザインの懐にあるはずの「結晶」の重みがない。
あの日、氷の城で交わした最期の約束が、この世界には存在しない。
「お兄ちゃん?」
「……お前は、リゼじゃない」
ザインは立ち上がった。
その目には、冷徹な光が戻っていた。
「私の妹は死んだ。……私に『生きて』と言い残して、立派に逝ったんだ。その覚悟をなかったことにするような世界なら……いらんッ!」
ザインが鞭を振るう。
小屋が両断され、吹雪が舞い込む。
幻影のリゼが悲しげな顔をするが、ザインは迷わなかった。
死者への冒涜だ。
甘い夢に逃げることは、命を懸けて自分を生かしてくれた妹への裏切りになる。
◇
パリン、パリン、パリンッ……!
次々と世界が割れる音が響く。
カノアの周囲の空間が剥がれ落ち、本来の『鏡の間』の景色が戻ってきた。
そして。
「カノア!」
「まったく、手間をかけさせるわね」
「お待たせ! すごい夢見ちゃったよ!」
「……フン。くだらん茶番だったな」
光の中から、仲間たちが帰ってきた。
ルミナ、ヒルダ、フィーネ、ザイン。
全員が無事だ。
そして、その顔には「迷い」の影は一切ない。
自分の意志で、理想郷を蹴り飛ばして帰ってきたのだ。
「……おかえり」
カノアはニカっと笑った。
「さて、夢から覚めたところで……現実にケリをつけようぜ」
五人の視線の先。
玉座には、不機嫌そうに歪んだ影――『虚飾の王』が鎮座していた。
『……愚かだ。なぜ拒む? なぜ痛みを愛する? 人間とは、そこまでして傷つきたい生き物なのか?』
理解できないというように、影が揺らめく。
「アンタには分かんないよ」
カノアが剣を突きつける。
「傷があるから、優しくなれる。失ったから、大切にできる。……俺たちは、その痛みも含めて『自分』なんだよ!」
五つの魂が共鳴する。
虚構の王に対し、傷だらけの真実たちが牙を剥く。




