104話 偽りの幸せ
カノアが『反転した世界』の違和感に気づいた頃、他の仲間たちもまた、それぞれの「理想」という名の檻の中にいた。
◇
王都の大聖堂。
そこは、光と祝福に満ちていた。
パイプオルガンの荘厳な音色が響く中、一人の少女が祭壇で歌っている。
ルミナだ。
だが、その顔には火傷の痕など微塵もない。
透き通るような肌、星屑を散りばめたような瞳。
『王国の宝石』と謳われた、完璧な美少女。
「……綺麗な歌声だ」
「まさに天使だわ」
観客席には、着飾った貴族たちが並び、うっとりとした表情で彼女を見つめている。
かつての冷たい視線ではない。
心からの称賛と、愛情に満ちた眼差し。
(……あぁ。私、愛されてる)
ルミナは胸が一杯になった。
これが、私が望んでいた未来。
顔を奪われることもなく、捨てられることもなく、ただ歌うだけでみんなが笑顔になってくれる世界。
「ルミナ、素晴らしい歌だったよ」
歌い終わると、神父様が駆け寄ってきて、優しく頭を撫でてくれた。
かつて、「化け物」と罵って石を投げたはずの人だ。
でも、今の彼は優しい。
「さあ、お菓子を用意してあるんだ。みんなでお茶会をしよう」
「……うん!」
ルミナは笑顔で頷いた。
幸せだ。
何も失っていない。何も奪われていない。
完璧な世界。
けれど。
ふと、胸元に手を当てた時、違和感があった。
何かが足りない。
いつも肌身離さず持っていたはずの、ゴツゴツとした石の感触がない。
(……石? なんの石だっけ?)
『共鳴石』。
カノアと旅をして、歌を輝かせてくれた絆の証。
だが、この世界のルミナは旅などしていない。
ずっと教会で、大切に守られてきた箱入り娘だ。
だから、そんな薄汚れた石など持っているはずがない。
「……カノア?」
無意識に、誰かの名前を呼んでいた。
誰だろう。
思い出せない。
でも、その名前を口にした瞬間、心臓がチクリと痛んだ気がした。
◇
王城の訓練場。
金属が打ち合う音が、小気味よく響く。
「一本! そこまで!」
審判の声が上がり、訓練生たちが一斉に礼をする。
「まいりました! さすがは団長です!」
「まだまだね。腰が入っていないわよ」
汗を拭いながら笑うのは、近衛騎士団長ヒルダ。
銀色の鎧に身を包んだ、全盛期の姿。
その肉体には傷一つなく、力強さに満ち溢れている。
「ヒルダ!」
テラスから声がした。
見上げれば、成長したミリア王女が手を振っている。
13歳になった彼女は、聡明で美しい女性に育っていた。
「ミリア様!」
ヒルダが駆け寄ると、ミリアはハンカチでヒルダの汗を拭ってくれた。
「お疲れ様。……貴女がいると、城のみんなが安心するわ」
「光栄です。……私は、この命ある限り、貴女とこの国をお守りします」
ヒルダは跪き、ミリアの手に口づけた。
幸せだった。
ヴィオラの襲撃などなかった。肉体を奪われることも、心を失うこともなかった。
守りたかった日常が、ここにはある。
だが、ふと自分の手を見た時、ヒルダは首を傾げた。
綺麗すぎる。
剣ダコはあるが、あの灼熱の火山で火傷した痕も、毒の森で負った傷も、何もない。
つるりとした、完璧な肌。
(……私、何か忘れていない?)
重い何かを背負っていた記憶。
自分の弱さを知り、それでも前に進もうと足掻いた、泥臭い日々の記憶。
それがすっぽりと抜け落ちているような、空虚な感覚。
◇
オアシス都市ミラム。
市場は活気に溢れ、人々が笑い合っている。
そこには、シレーヌの支配も、石化の恐怖もない。
「フィーネ! どこ行ってたんだよ!」
「パパ! ママ!」
フィーネが家に帰ると、家族が出迎えてくれた。
両親も、弟たちも、みんな元気だ。
夕食のシチューの匂いが漂ってくる。
「遅いぞ姉ちゃん! 腹減ったよ!」
「ごめんごめん! ちょっと遠くまで走ってきたからさ!」
フィーネは食卓に着き、温かいスープを啜った。
美味しい。
家族と一緒に囲む食卓。
これこそが、彼女がずっと夢見ていた光景だ。
逃げる必要なんてない。隠れる必要もない。
ただ、平凡に笑って暮らせる世界。
「……あれ?」
フィーネはスプーンを止めた。
窓の外。
遠くの空に、虹がかかっているのが見えた。
綺麗な虹。
それを見た瞬間、なぜか胸が締め付けられた。
(……ボク、誰かと約束したような……)
『必ず追いつくから』
誰に?
どこへ?
思い出そうとすると、頭に霧がかかったようにぼんやりする。
◇
そして、北の雪山。
そこは、吹雪のない、穏やかな春の山だった。
小さな山小屋で、ザインは暖炉の火を見ていた。
「お兄ちゃん、お茶が入ったよ」
背後から声がする。
振り返ると、そこには健康そうな頬をした少女――リゼが立っていた。
彼女は微笑み、湯気の立つカップを差し出した。
「ありがとう、リゼ」
ザインはカップを受け取る。
その手には、鞭ダコも、凍傷の痕もない。
ヴィオラの配下として手を汚した記憶も、妹を救えなかった後悔もない。
ただ、病弱だが幸せな妹と共に暮らす、平和な日々。
「……幸せだな」
ザインは呟いた。
これ以上の望みなどない。
妹が生きていて、笑ってくれている。
それだけで、世界は完成しているはずだ。
だが、ザインは無意識に懐を探っていた。
そこにあるはずの「氷色の結晶」がない。
妹の魂が宿った、冷たくて温かい石。
それが失われていることに気づいた時、得体の知れない喪失感が彼を襲った。
(……違う。これは、俺が選んだ未来じゃない)
ザインの狩猟本能が、警鐘を鳴らし始める。
この甘い世界は、何かが決定的に間違っていると。
ヴァニタスの『世界置換』。
それは、ただの幻覚ではない。
彼らが望んだ「もしも」を、現実として再構築した世界。
ここにいれば、誰も傷つかない。誰も失わない。
だが、それは同時に、彼らが積み上げてきた「旅の記憶」と「成長」を、無かったことにする行為でもあった。
甘い毒が、彼らの心を侵食していく。
このままここにいれば、彼らは永遠に幸せな夢の中で、本当の自分を忘れてしまうだろう。
目覚めるためには、自らの手で「幸せ」を否定しなければならない。
誰よりも早く、その違和感に「殺意」を向けたのは、やはりあの少年だった。
◇
「……おい、師匠」
カノアは、台所に立つグレンに声をかけた。
手には、ボロボロの練習用の剣が握られている。
「ん? どうしたカノア。飯ならまだだぞ」
グレンが振り返る。
その笑顔は、あまりにも完璧すぎた。
陰りがない。後悔がない。
俺を守って死んだ、あの壮絶な最期の輝きがない。
「……アンタは、師匠じゃない」
カノアは剣を構えた。
『心眼』が、世界の欺瞞を見抜いていた。
この師匠には、魂の色がない。
ただの「思い出」を貼り付けただけの、空っぽの人形だ。
「俺の知ってる師匠は……もっと不器用で、泥だらけで、最高にかっこいい男だったんだよ!」
カノアが踏み込む。
迷いはない。
偽物の幸せを斬り裂き、痛みに満ちた「現実」を取り戻すために。
反逆の刃が、理想郷を引き裂く。




