103話 反転する鏡界
意識が、白い光の中に溶けていく。
その曖昧な境界線の中で、カノアは『虚飾の王』の声を聞いた。
『鏡とは、何だと思う?』
それは問いかけであり、同時に宣告だった。
『人は鏡に「ありのまま」が映ると信じている。だが、それは間違いだ。鏡に映るのは左右が反転した虚像。……手の届かない、向こう側の世界だ』
空間がねじれる感覚。
上下の感覚が消え、重力の向きが変わる。
『私の能力『世界置換』は、幻術ではない。……世界の「座標軸」を入れ替える儀式だ』
ヴァニタスの哄笑が響く。
『鏡の「表《現実》」と「裏《虚構》」を反転させる。つまり、お前たちが今まで「嘘」や「理想」だと思っていたものが、物理的な質量を持った「現実」となり……お前たちが生きてきた「傷だらけの現実」が、泡沫の「夢」へと格下げされる』
概念の逆転。
ヴィオラの『概念置換』が「個人の質」を入れ替えるものなら、ヴァニタスのそれは「世界の定義」そのものを書き換える神の御業。
『さあ、堕ちるがいい。……お前たちが心の奥底で望んでいた、甘くて残酷な「真実」の世界へ』
◇
「……ん」
カノアは目を覚ました。
柔らかい感触。背中に当たるのは、ふかふかのベッドだ。
鼻をくすぐるのは、朝食のスープの温かい匂い。
鉄錆と血の匂いなど、どこにもない。
「……夢か?」
カノアは半身を起こし、目を擦った。
そして、違和感に気づいた。
目隠しをしていない。
なのに、視界が真っ暗ではない。
窓から差し込む陽の光。
木目の天井。
舞い散る埃の粒子。
見えている。
『心眼』による魔力の知覚ではない。
網膜が光を捉え、脳が色彩を認識している、物理的な「視覚」。
「……目が見える?」
カノアは震える手で自分の顔に触れた。
ある。
5年前に抉り取られたはずの眼球が、確かにそこにある。
鏡台の前に立ち、恐る恐る覗き込む。
そこに映っていたのは、両目が開いた自分の顔だった。
左目は緑、右目は赤。
光の加減で色を変える、宝石のような瞳。
『アレキサンドライト』。
「嘘だろ……」
戻ったのか?
いや、ヴィオラを倒して取り返した記憶はない。
最後の戦いの記憶が曖昧だ。
ヴァニタスと戦って、光に飲み込まれて……。
「お、起きたかカノア! いつまで寝てやがる!」
扉が豪快に開かれた。
入ってきたのは、大柄な男だった。
無精髭に、筋肉質な身体。背中には愛用の大剣。
エプロン姿で、お玉を持っている。
「……師匠?」
カノアの声が裏返る。
グレンだ。
死んだはずの師匠が、目の前にいる。
黒騎士の鎧など着ていない。5年前の、あの頃のままの姿で。
「なんだ、寝ぼけてるのか? ほら、さっさと顔を洗ってこい。今日は依頼が入ってるんだぞ」
グレンはニカっと笑い、カノアの頭をガシガシと撫でた。
その掌の熱。
重み。
匂い。
全てがリアルだった。
「……生きてる……」
「当たり前だろ。勝手に殺すなよ」
グレンは呆れたように笑い、部屋を出て行った。
カノアは立ち尽くした。
状況が飲み込めない。
だが、窓の外を見れば、そこには平和な街並みが広がっている。
王都ではない。彼らが昔暮らしていた、辺境の街だ。
傷跡を探す。
黒騎士との戦いで負った胸の傷。……ない。きれいな肌だ。
手を見る。
剣ダコはあるが、激戦の痕跡はない。
(……俺は、夢を見ていたのか?)
目を奪われ、ゴミ捨て場に捨てられ、ルミナたちと旅をしたあの日々が、全て悪い夢だったのか?
本当の俺は、師匠と一緒に、ずっと平和に暮らしていたのか?
――違う。
カノアの『心眼』が、微かな警告を発した。
視力は戻っているが、心眼の感覚も残っている。
その目で世界を見ると、何かがおかしい。
空の色が、鮮やかすぎる。
師匠の笑顔が、眩しすぎる。
そして何より、世界全体に漂う「違和感」。
影がないのだ。
どれだけ光が当たっても、物体の後ろに影が落ちていない。
(……鏡の中だ)
カノアは理解した。
ここは現実じゃない。ヴァニタスが作った『反転した世界』だ。
ここでは、俺の「願望(目が見えること、師匠が生きていること)」が真実として設定されている。
逆に、俺が歩んできた「苦難の現実」は、ここでは嘘(夢)として処理されている。
「……ふざけるな」
カノアは拳を握りしめた。
完璧な幸せ。
誰もが望む、失われたものの帰還。
だが、それはカノアたちが積み上げてきた「痛み」と「絆」を否定するものだ。
「ルミナ、ヒルダ、フィーネ、ザイン……。みんな、どこだ?」
仲間たちの姿はない。
おそらく、彼らもそれぞれの「理想の世界」に隔離されているはずだ。
カノアは部屋にあった修練用の自分の剣を手に取った。
軽い。魂がこもっていない。
だが、今はこれしかない。
「待ってろよ。……こんな甘ったるい夢、すぐに叩き割ってやる」
カノアは部屋を出た。
リビングでは、グレンがスープをよそっている。
その背中を見て、カノアの胸が締め付けられる。
ここにいれば、グレンとずっと一緒にいられる。
その誘惑は、死ぬほど甘い。
だが、カノアは知っている。
本物の師匠は、俺を守って、笑って逝ったことを。
その最期の輝きを、偽物の幸せで塗りつぶすわけにはいかない。
カノアは剣を握りしめ、この完璧すぎる世界への反逆を開始した。




