表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/120

103話 反転する鏡界


 意識が、白い光の中に溶けていく。


 その曖昧な境界線の中で、カノアは『虚飾の王(ヴァニタス)』の声を聞いた。


『鏡とは、何だと思う?』


 それは問いかけであり、同時に宣告だった。


『人は鏡に「ありのまま」が映ると信じている。だが、それは間違いだ。鏡に映るのは左右が反転した虚像。……手の届かない、向こう側の世界だ』


 空間がねじれる感覚。

 上下の感覚が消え、重力の向きが変わる。


『私の能力『世界置換ワールド・シフト』は、幻術ではない。……世界の「座標軸」を入れ替える儀式だ』


 ヴァニタスの哄笑が響く。


『鏡の「表《現実》」と「裏《虚構》」を反転させる。つまり、お前たちが今まで「嘘」や「理想」だと思っていたものが、物理的な質量を持った「現実」となり……お前たちが生きてきた「傷だらけの現実」が、泡沫の「夢」へと格下げされる』


 概念の逆転。

 ヴィオラの『概念置換』が「個人の質」を入れ替えるものなら、ヴァニタスのそれは「世界の定義」そのものを書き換える神の御業。


『さあ、堕ちるがいい。……お前たちが心の奥底で望んでいた、甘くて残酷な「真実」の世界へ』


          ◇


「……ん」


 カノアは目を覚ました。

 柔らかい感触。背中に当たるのは、ふかふかのベッドだ。


 鼻をくすぐるのは、朝食のスープの温かい匂い。

 鉄錆と血の匂いなど、どこにもない。


「……夢か?」


 カノアは半身を起こし、目を擦った。

 そして、違和感に気づいた。

 目隠しをしていない。

 なのに、視界が真っ暗ではない。


 窓から差し込む陽の光。

 木目の天井。

 舞い散る埃の粒子。


 見えている。

 『心眼エイドス』による魔力の知覚ではない。

 網膜が光を捉え、脳が色彩を認識している、物理的な「視覚」。


「……目が見える?」


 カノアは震える手で自分の顔に触れた。

 ある。

 5年前に抉り取られたはずの眼球が、確かにそこにある。


 鏡台の前に立ち、恐る恐る覗き込む。

 そこに映っていたのは、両目が開いた自分の顔だった。


 左目は緑、右目は赤。

 光の加減で色を変える、宝石のような瞳。

 『アレキサンドライト』。


「嘘だろ……」


 戻ったのか?

 いや、ヴィオラを倒して取り返した記憶はない。

 最後の戦いの記憶が曖昧だ。

 ヴァニタスと戦って、光に飲み込まれて……。


「お、起きたかカノア! いつまで寝てやがる!」


 扉が豪快に開かれた。

 入ってきたのは、大柄な男だった。

 無精髭に、筋肉質な身体。背中には愛用の大剣。

 エプロン姿で、お玉を持っている。


「……師匠?」


 カノアの声が裏返る。

 グレンだ。

 死んだはずの師匠が、目の前にいる。

 黒騎士の鎧など着ていない。5年前の、あの頃のままの姿で。


「なんだ、寝ぼけてるのか? ほら、さっさと顔を洗ってこい。今日は依頼が入ってるんだぞ」


 グレンはニカっと笑い、カノアの頭をガシガシと撫でた。

 その掌の熱。

 重み。

 匂い。

 全てがリアルだった。


「……生きてる……」


「当たり前だろ。勝手に殺すなよ」


 グレンは呆れたように笑い、部屋を出て行った。

 カノアは立ち尽くした。


 状況が飲み込めない。

 だが、窓の外を見れば、そこには平和な街並みが広がっている。

 王都ではない。彼らが昔暮らしていた、辺境の街だ。


 傷跡を探す。

 黒騎士との戦いで負った胸の傷。……ない。きれいな肌だ。


 手を見る。

 剣ダコはあるが、激戦の痕跡はない。


(……俺は、夢を見ていたのか?)


 目を奪われ、ゴミ捨て場に捨てられ、ルミナたちと旅をしたあの日々が、全て悪い夢だったのか?

 本当の俺は、師匠と一緒に、ずっと平和に暮らしていたのか?


 ――違う。


 カノアの『心眼』が、微かな警告を発した。

 視力は戻っているが、心眼の感覚も残っている。

 その目で世界を見ると、何かがおかしい。


 空の色が、鮮やかすぎる。

 師匠の笑顔が、眩しすぎる。


 そして何より、世界全体に漂う「違和感」。

 影がないのだ。

 どれだけ光が当たっても、物体の後ろに影が落ちていない。


(……鏡の中だ)


 カノアは理解した。

 ここは現実じゃない。ヴァニタスが作った『反転した世界』だ。


 ここでは、俺の「願望(目が見えること、師匠が生きていること)」が真実として設定されている。


 逆に、俺が歩んできた「苦難の現実」は、ここでは嘘(夢)として処理されている。


「……ふざけるな」


 カノアは拳を握りしめた。

 完璧な幸せ。

 誰もが望む、失われたものの帰還。

 だが、それはカノアたちが積み上げてきた「痛み」と「絆」を否定するものだ。


「ルミナ、ヒルダ、フィーネ、ザイン……。みんな、どこだ?」


 仲間たちの姿はない。

 おそらく、彼らもそれぞれの「理想の世界」に隔離されているはずだ。


 カノアは部屋にあった修練用の自分の剣を手に取った。

 軽い。魂がこもっていない。

 だが、今はこれしかない。


「待ってろよ。……こんな甘ったるい夢、すぐに叩き割ってやる」


 カノアは部屋を出た。

 リビングでは、グレンがスープをよそっている。


 その背中を見て、カノアの胸が締め付けられる。

 ここにいれば、グレンとずっと一緒にいられる。

 その誘惑は、死ぬほど甘い。


 だが、カノアは知っている。

 本物の師匠は、俺を守って、笑って逝ったことを。

 その最期の輝きを、偽物の幸せで塗りつぶすわけにはいかない。


 カノアは剣を握りしめ、この完璧すぎる世界への反逆を開始した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ