100話 虹彩の歌
ルミナの唇から、最初の一音が零れ落ちた瞬間。
世界から「重力」という概念が消失したかのようだった。
――アァァァァァ……。
それは、春の朝靄のように柔らかく、星の瞬きのように繊細な旋律。
だが、その歌声には、世界中のありとあらゆる「色」が溶け込んでいた。
燃えるような赤、澄み渡る青、萌え出る緑、包み込む白。
それらが混ざり合い、光のプリズムとなって乱反射し、薄暗い『鏡の間』を極彩色の宇宙へと変えていく。
「……あ……ぁ……」
ヴィオラが、呆然と口を開けた。
彼女を覆い尽くしていた醜悪な肉塊が、光の粒子に触れた端から、雪のように静かに崩れ落ちていく。
痛みはない。
焼けるような熱さも、凍える冷たさもない。
ただ、懐かしい子守唄を聞いた時のような、抗いがたい「安らぎ」が、彼女の暴走する心を鎮めていく。
「なによ、これ……。温かい……?」
彼女の頬を、光の粒が撫でる。
それは、かつて彼女が何よりも欲しがり、けれど誰からも与えられなかった「優しさ」の具現化だった。
ルミナは歌う。
両手で包み込んだ『共鳴石』は、今や小さな太陽のように輝き、七色の光帯を放っている。
彼女の魂が、喜びで震えていた。
カノアと出会えたこと。
ヒルダと笑い合えたこと。
フィーネに触れられたこと。
その全ての記憶が、宝石のような輝きを帯びて歌声に乗る。
――『聖詠・虹彩』。
それは魔法ではない。
「世界はこんなにも美しい」という、真実の啓示。
空間が震えた。
ヴィオラが纏っていた「最強の防御」や「無敵の再生力」といった、嘘で塗り固められた概念が、ガラス細工のようにヒビ割れていく。
偽りの美しさが剥がれ落ち、その下にある「本物」が露わになる。
「嫌ぁぁっ! 見ないで! 剥がさないでぇぇぇッ!」
ヴィオラが泣き叫ぶ。
肉塊の鎧が消滅し、中から現れたのは、ボロボロの服を着た、痩せこけた少女の姿だった。
醜い顔。荒れた肌。
彼女が最も憎み、捨て去ったはずの「自分自身」。
「これが私……? こんな惨めな姿が、私の真実だというの!?」
少女は床にうずくまり、顔を覆った。
絶望。
だが、その絶望さえも、虹色の光は優しく包み込んだ。
「……綺麗だよ」
光の中で、カノアの声がした。
彼は剣を下げ、少女を見下ろしていた。
その『心眼』は、少女の外見ではなく、その奥底で震える魂の核を見ていた。
「泥だらけでも、傷だらけでも。……必死に生きて、誰かに愛されたいと願ったその色は、ちっとも醜くない」
「……うそ……」
「嘘じゃない。俺の目は、真実しか映さない」
カノアは一歩、前に出た。
その手にある『黒鉄』が、ルミナの歌声と共鳴し、透明な輝きを放ち始める。
切っ先が震える。
それは殺意ではない。
絡まった糸を解き、迷える魂を解放するための、祈りの振動。
「終わらせよう、ヴィオラ。……アンタを縛り付けている、その『奪ったもの』たちを」
カノアの『心眼』には視えていた。
少女の背中から伸びる、無数のどす黒い「因果の糸」。
それらは空間を超えて、奪われた持ち主たちの魂と繋がっている。
ルミナの美しさ、リゼの声、そしてカノアの瞳。
それらが鎖となって、彼女を「魔女」という役割に縛り付けていたのだ。
「……お願い。楽にして」
少女が、涙に濡れた瞳でカノアを見上げた。
初めて見せた、素直な表情。
もう、戦う意志はなかった。
ただ、この長く苦しい悪夢から覚めたがっていた。
「ああ」
カノアは剣を構えた。
ルミナの歌が、クライマックスへと昇り詰める。
虹色の光が収束し、カノアの剣に宿る。
世界中の色が、この一振りに集約されていく。
「因果一刀ッ!!」
一閃。
音はなかった。
ただ、世界を分かつような清冽な光のラインが、少女の身体を通り抜けた。
肉を斬ったのではない。
彼女に絡みついていた、無数の因果の糸だけを、断ち切ったのだ。
パァァァァンッ……!
光が弾けた。
少女の身体から、奪われていた「概念」たちが次々と解き放たれていく。
美しい輝きを持った光の玉たちが、鳥籠から放たれた小鳥のように、部屋中を乱舞する。
「あ……あぁ……」
少女の身体が、透き通っていく。
重荷を下ろしたように、その表情は安らかだった。
「……暖かい。……私、こんなに軽かったのね……」
彼女は光の中に手を伸ばした。
そこには、誰もいなかったはずの場所に、幻影が見えた気がした。
自分を迎えに来てくれた、優しかった両親の姿か、あるいは――。
「……さようなら。綺麗な人たち」
少女はカノアたちに微笑みかけ、そして光の粒子となって霧散した。
魔女ヴィオラ。
美しさに焦がれ、世界を呪った孤独な魂は、虹色の歌に抱かれて、静かに還っていった。
◇
部屋には、静寂と、キラキラと舞い落ちる光の粉だけが残っていた。
解放された概念たちが、それぞれの持ち主の元へと帰ろうとしている。
その中の一つ。
氷色に輝く小さな光が、ふわりと舞い降り、部屋の隅で倒れていたザインの元へと向かった。
「……リゼ」
ザインは震える手で、その光を受け止めた。
光は彼の手のひらに触れると、温かな熱を残して、懐の中にある「結晶」へと吸い込まれていった。
結晶が、ドクンと脈打つ。
声帯。
奪われていた妹の「声」が、ついに魂の元へと戻ったのだ。
「……よかったな、ザイン」
カノアが声をかける。
「ああ……ああ……」
ザインは結晶を強く握りしめ、顔を伏せたまま、小さく何度も頷いた。
その肩が震えているのを、誰も笑わなかった。
そして。
宙に浮いていた二つの「緑色の光」が、カノアの元へと近づいてきた。
『アレキサンドライトの瞳』。
5年前、カノアから奪われた光。
「……カノア」
ルミナが息を呑む。
カノアは、目の前の光を見つめた。
手を伸ばせば、届く距離。
これを受け取れば、視力は戻る。
師匠が見ろと言った「誰も見たことのない景色」を、この目で見ることもできるかもしれない。
だが。
「……悪い。お前たちの席、もう埋まっちまったんだ」
カノアは、寂しげに笑って手を下ろした。
光たちが、困ったように明滅する。
「俺は、この『心眼』で見ていくよ。……目に見えるものよりも、もっと大切なものを見つけたから」
カノアはルミナを見た。ヒルダを見た。フィーネを見た。
彼女たちの魂の色。
どんな宝石よりも鮮やかで、温かい色。
それを感じるだけで、カノアの世界は十分に満たされていた。
拒絶された光は、少し残念そうに揺らめいた後、パチンと弾けて消滅した。
物理的な視力との決別。
それは、カノアが過去を乗り越え、今の自分を完全に肯定した証だった。
「……行こう」
カノアは剣を納めた。
戦いは終わった。
ヴィオラは消え、奪われたものは還った。
王都を覆っていた紫の靄も晴れ、窓の外からは、朝の光が差し込んでいる。
だが、その時。
ドロリ。
部屋の奥。
ヴィオラが消えたはずの玉座に、黒い「染み」が広がっているのを、カノアの『心眼』が捉えた。
消滅したはずの悪意。
いや、ヴィオラを利用していた、もっと根源的な「何か」の気配。
『……見事だ』
鏡の奥から、拍手の音が聞こえた。
乾いた、冷たい音。
『だが、幕を下ろすにはまだ早い。……宴は、これからが本番なのだから』
黒い染みが立ち上がり、人の形を成していく。
それは、カノアたちにとって未知の、そして最大の絶望の形をしていた。
ハッピーエンドの余韻を引き裂くように、真の悪夢が目を覚ます。




