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ドラゴンのヴァオヴァブからビルセゼルトに連絡があった。大量の茹で卵を用意してビルセゼルトが駆けつけたのは言うまでもない。
「爪の垢よりも、爪本体のほうがいいんじゃない?」
「ドラゴンが爪切りするとは聞いた事がないが?」
ビルセゼルトの言葉にヴァオヴァブが豪快に笑う。
「そりゃあそうさ、爪は勝手に削れるから、切る必要はないさ。人間はいろいろと面倒だね」
「うん……」
「その、身体の表面を覆う布切れ、身体も洗うのに、その布も洗う。我々ドラゴンには考えられないよ。実に不効率だね」
「ドラゴンと違って人間は温度変化に弱いからね」
「その布っ切れ、他人に身体を見せないためなんだろ? 仲間にさえ、自分を隠さなきゃならないんだね。秘密主義って面倒だ」
ヴァオヴァブが言っているのが、身体以外をも指しているようにビルセゼルトには聞こえ、答えを選べずに黙ってしまう。ヴァオヴァブの大きな瞳がギョロリと動いて、そんなビルセゼルトを面白そうに見る。
「まぁさ、爪の表面を少しくらい削るなら問題ないかな、って思ったのさ」
ヴァオヴァブが続ける。
「俺の爪にヤスリを掛けて、出た粉を持ってお帰り、ビリー。それで効果があるようなら、ドラゴンみんなに声をかけて協力させる。ヤスリを持たせて魔導士たちを派遣しな。あ、その時は全員に行き渡る量の茹で卵を頼むよ」
袋に詰めて持ち帰ったドラゴンの爪の削り粉をビルセゼルトは、リリミゾハギの住処がある街の魔導師アウトレネルに依頼して届けさせている。火のルートを使えば、ギルド本拠・支部間は一瞬だ。受け取ったリリミゾハギは即刻、試作品を作り始めたらしい。
「今まで使われたことのない材料だ。まずは爪の削り粉の成分を調べると言っていたよ」
アウトレネルの報告に、ビルセゼルトは、『そうか』とだけ答えている。
爪の削り粉を受け取ったリリミゾハギは成分分析の結果、爪の垢とほぼ同じ結果を得ている。しかし、ある種のたんぱく質が爪の垢よりも突出して多いと突き止めた。
そこでまず、爪の垢と同じ方法を採ってみたが効果は爪の垢と大して変わらず、がっかりするとともに、二つの塗り薬の違いを調べた。それとともに、再度、爪の垢で作った練り薬を入念に調べた。
リリミゾハギが提供した最初の塗り薬は他の薬学者や癒術魔導士により量産され、広く患者に処方可能となり、日々の死者数は減っている。が、減っただけで、感染からの生還は未だない――
その日、リリミゾハギは自分の住処の裏手の森に入り、薬草を採取していた。
煌めく木漏れ日の中、一種一種、手を翳し、【正体を表せ】と唱えていく。もしや、まだ薬草と認識されていない中に、薬効を持つ物が隠れているかもしれない。森に入れば必ず毎回、目に着いた植物を調べるのが習慣になっていた。
だが、今日は違った。件の練り薬に使う薬草、それを重点的に探していた。もう一種類、新たに加えたい薬草があった。
猛毒と言われるトリカブト、できればその花粉が欲しい。だが、今の季節では花はおろか蕾さえ見つけられない。それでも、苗が見つけられれば、魔導術を駆使して成長を促し、花を付けさせることができるかもしれない。
はたして、そんな魔導術が自分に扱えるだろうか? 魔導士としての自分に自信のないリリミゾハギだった。もしだめでも、なんとかするしかない。恥を忍んで他の魔導士に頼み込むことさえ、リリミゾハギは考えていた。
気配を感じてリリミゾハギが視線を向ける。新緑の光を受けた朧な人影が、すーーっと実体を伴っていく。
「やぁ」
燃えるような赤い髪の男が親し気に声をかけてくる。が、なぜか急に顔を顰めて下を見る。
「湿地だとは思わなかった……」
ゆっくりと近づいて来るビルセゼルトの足元は、ぬかるみに汚されて泥だらけになっていく。
「家を訪ねたのだけれど、留守で……近くにいるかなと気配を探したら、この辺りと判ったから飛んできた。良く知りもしない森に、無闇に入るものではないね」
と笑顔を見せる。
「ビルセゼルトさま……」
泣き出しそうなリリミゾハギに、ビルセゼルトが笑顔のまま答える。
「あなたが気にすることじゃない、これくらいの汚れ、すぐに綺麗にできるよ」
リリミゾハギの目の前で、草地に辿り着いたビルセゼルトの、泥だらけの足元から汚れが見る見る消えていく。
そうでしょうとも、リリミゾハギは言葉にせずにそう思う。そんな汚れなど、あなたにとってどうと言うこともない代物。このわたしの存在と同じように――
どこかですれ違っても、わたしに『やぁ』と声をかけてくれることなどないと思っていたのに、どうしてこんな森の中に急に現れ、なんでそんな簡単に笑顔を見せるのですか?
「薬草の採取? なんだったらリストを出してくれれば手配するよ」
「いえ……研究者が自分の研究の内容を、そう簡単に他者に教えたりしないと、ご存知でしょう?」
どうして? リリミゾハギはビルセゼルトに訊きたかった。練り薬の処方を教えるまでは、何度も会いに来てくれた。なのに教えてからは、あなたが来ることはなくなった。
宿舎を引き払い、魔導士学校の住処に、あなたが本来いるべき場所に戻ったのは知っている。そちらでの仕事が忙しいのも知っている。
ドラゴンの爪の削り粉……アウトレネルが一人で訪れて持ってきたあの粉、あの時、あなたにも来て欲しかった。アウトレネルが家の前で訪れを告げた時、てっきりあなたも一緒にいると思ったわたしが、どれほど寂しい思いをしたか、あなたに判りますか?
「そうだね、研究者なら、誰でも秘密にするものだ。配慮が足りなかった。気を悪くしないで欲しいし、何か手助け出来ることがあれば遠慮なく申し出て欲しいのだよ」
「今日はアウトレネルさまとご一緒ではないのですね」
「うん、すぐに帰らなくてはならなくてね。進捗具合も気になったし、遠慮がちなあなたが何か言いだせずに居はしないかと気になったんで、時間が少しだけ取れたから来たんだよ。だからすぐ帰る。それなのに、忙しいレーネを呼び出すのも気の毒だ」
「相変わらず、お優しい……」
その優しさが、時に誰かを傷付けると、あなたはご存知ですか?
「優しくなどないよ。わたしは怖がっているだけなのだと思う。他者から非難されるのを恐れているだけだ」
思わずリリミゾハギがビルセゼルトを見る。その気配にビルセゼルトもゆっくりとリリミゾハギを見る。
「誰がビルセゼルトさまを非難などするのでしょう?」
リリミゾハギの問いにビルセゼルトが苦笑する。
「いろんな人に非難されるよ。たとえばアウトレネル、妻のジョゼシラ。まぁ、今となっては面と向かって言ってくるのはその二人だけか……が、影では言いたい放題言っているヤツはたくさんいるだろうね。時どき、魔導士学校の教授、わたしにとっても恩師にあたる何人かは助言を今でもくれることがある。有難い事だ……って、これは非難じゃなかった」
屈託なく笑うビルセゼルトに、リリミゾハギは複雑な思いを抱く。
「ジョゼシラさまが非難? ビルセゼルトさまを?」
「あぁ、あいつは昔から手厳しい。今でもよく、情けないと言われる」
「……ジョゼシラさまは、ビルセゼルトさまを愛しておられるのでしょうか?」
いつか感じたあの疑問、愛を分かち合う相手なら癒すのも勤めではないか、なぜジョゼシラはそうしないのか? それが思わずリリミゾハギの口を突いて出た。
「うん?」
「し、失礼を申しました」
慌てて謝るが、ビルセゼルトがリリミゾハギの無礼を気にしている様子はない。
「そうだねぇ。愛していると言ってくれるが、たまに会った時だけだ。会いたいと言ってくるから会いに行く。力が不足してくると会いたがる。アイツが南の統括魔女になってから、ずっとそんな感じだ」
南の統括魔女であるジョゼシラは南の魔女の居城に住む。そして魔導士学校の校長ビルセゼルトは魔導士学校の教師棟に住処を持っている。それぞれの職務が、二人が二人きりで時を過ごすことをなかなか許さない。
「確かなことは、だ」
ビルセゼルトが少しお道化て言った。照れたのかもしれない。
「妻を愛している――僕の心は妻への想いで満たされて、その愛は日々に大きく膨らんでいく。抑えようもなくなって、溢れてしまいそうだ」




