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幼子があどけなく笑う。
「パパ!」
握り締めたチョークで掌が赤く染まっている。テーブルに置かれた石板を見ると、グシャグシャと赤い線が塗りたくられているだけだ。
幼子は赤いチョークを箱に戻すと、暫くその箱の中身を探っていたが、焦げ茶色のチョークを見つけ出すと嬉しそうに、再び石板に塗りつける。そして、
「ママ」
ニッコリ笑うと、自分を膝に乗せている男を見上げた。
見上げられた男は微笑を返し、そっと幼子を抱き締め、頬を摺り寄せた。
「そうだね、パパの髪は赤。チョークの横に掘られているのは『文字』で、『赤』と書かれている。そしてママの髪は栗色。このチョークには『焦げ茶』と書かれているけれど、ママの髪に近い色だね」
「パパの髪、赤! だぁい好き」
幼子は男の膝に立ち、男の首に腕を回して抱き締めてくる。動き回る幼子を注意して抱き止めている男はビルセゼルトだ。
「グリン、汚れた手で触ったら、パパも汚れてしまうわ」
花瓶に花を活けていたリリミゾハギが慌てて幼子を止めようとする。事実、ビルセゼルトのシャツが赤や茶色に染まっている。
「構わない。これくらい、すぐに消せる」
そう言ってビルセゼルトは幼子の手に触れ、その手が触った自分の服を撫でる。どちらからもチョークでついた色が消える。
グラリアンバゼルート・ノンスアルティム、『ペガサスの住処』と呼ばれる森に面した庭を持つ、ビルセゼルト所有の別荘……リリミゾハギと、二年余前に生まれた息子グリンバゼルト(通り名はグリン)が住んでいる。
季節は立秋をとうに過ぎ、残暑もそろそろ影を潜め始めている。吹く風が、時おり涼しさを通り越して冷たくなってきている。
「今日は白いバラなのだね。やはりあなたがこの庭で育てた花?」
ビルセゼルトの問いにリリミゾハギがひっそりと答える。
「はい、あなたがお好きな白バラ……わたしには草花を育てるしか取り柄がありませんから」
「……」
頭にしがみ付いて登ろうとするグリンバゼルトに気を取られたふりをして、リリミゾハギにビルセゼルトは答えなかった。
「ほら、グリン。頭に上ってはだめだよ。肩に座れるかい?」
モゴモゴしているグリンバゼルトの腰を持ってビルセゼルトは自分の肩に座らせる。するとグリンバゼルトが嬉しそうに笑い声をあげた。
「かざぐるま!」
「そう、かたぐるま。でも動いちゃ危ない。それにパパの目を塞ぐのもダメだ」
否定することなく修正する。いずれ自分で自分の間違いに気付く時が来る。今は導くだけでいい。
動くなと言われても、動きたい盛りの子どもがジッとしているはずもない。とうとうビルセゼルトは諦めて、グリンバゼルトを床に降ろす。
「グリン、ここに座って。パパがくれたブドウを食べましょうね」
リリミゾハギがグリンバゼルトに声を掛けた――
一年ほど前に父親が他界し、ビルセゼルトは名実ともに王家の当主となり、グラリアンバゼルート他の領地を受け継いでいる。
そして半年前、東の魔女ソラテシラが引退し、夫ダガンネジブとともに東の魔女の居城から、ノンスアルティム郊外にあるダガンネジブが所有する屋敷に移った。リリミゾハギ母子が住む別荘から、そう遠くない。『ペガサスの住処』にある湖を|見》み》下ろせる、丘の中腹の屋敷だった。
新たな東の魔女の選考は揉めに揉め、結局、ビルセゼルトが推したアウチャネハギと決まった。アウチャネハギはリリミゾハギの妹だったが、魔女としての力はリリミゾハギと違い、突出するものがあった。
王家の森魔導士学校に入学してきて以来、その資質に目を付けた校長ビルセゼルトが、いずれは統括魔女にと手を掛けて育てた魔女だ。
周囲はビルセゼルトが権力に執着し始めたかと勘繰ったが、アウチャネハギの魔女としての才能は認めざるを得ないものがあった。また、アウチャネハギの婚約者がビルセゼルトとは全く流れの違う魔導士だったこともあり、東の統括魔女アウチャネハギは承認された。
北ギルドの長ホヴァセンシルも子を得ている。グリンバゼルトより三月ほど後に生まれたのは女児で、北の魔女ジャグジニア、つまりはホヴァセンシルの妻が溺愛していると、噂が南にまで流れてくる。ホヴァセンシルが呆れるほどらしい。何年も前に流産を経験し、その後なかなか恵まれなかった子宝だ。そうなるのも無理はない。
そして、リリミゾハギには二人目の子が宿っていた。雪が降る頃に生まれるだろう。
グリンバゼルトがブドウを食べるのを見守っているリリミゾハギに、ビルセゼルトが問う。
「体調はどうだ? 悪阻のせいで桃以外は食べたくないと言っていたが、今はどうだ? 食べたいものとかあるのか?」
グリンバゼルトの口元を拭いたり食べこぼしを始末したりと世話を焼きながら、リリミゾハギが答える。
「いいえ、何を食べても美味しくて、少し太ってしまいました。癒術魔導士から、太り過ぎに注意するよう言われるくらいに」
幸せそうな笑みを浮かべてリリミゾハギが答える。そしてその微笑のまま、
「ジョゼシラさまに、お子はまだできないのですか?」
ビルセゼルトに問う。
慈愛に満ちた母の笑顔に見えていたリリミゾハギの笑みが急に、勝ち誇った女の笑みに変わって見えて、ビルセゼルトは思わず顔を背けた。
リリミゾハギをノンスアルティムの別荘に入れる話をして以来、ジョゼシラとはしっくりいっていない。それまでは呼ばれなくても自分から足を運んだ南の魔女の居城に、呼ばれなくては行かなくなっていた。そしてグリンバゼルトが生まれてからは、ジョゼシラのビルセゼルト呼出しも次第に減っていった。
ビルセゼルトは『自分にはジョゼシラを求める資格がない』と引け目を感じ、ジョゼシラには『子と父親を取り合うことになってしまう』と、遠慮があった。
互いに相手の思惑に気が付けないまま、逢瀬は間遠となるばかりだ。
ジョゼシラのもとを訪れない代わり、と言うのもなんだが、ビルセゼルトの足はノンスアルティムの別荘に向かう事が多くなった。特にグリンバゼルトが生まれてからというもの、時間ができれば顔を見に行くようになっている。
自然、リリミゾハギのもとで夜を過ごすことも多くなった。リリミゾハギに二人目ができ、ジョゼシラには妊娠の兆候すらなくても当然だ。
「いや……まだだ」
そう答えながらビルセゼルトは別のことを考えていた……来年の夏至には、ジョゼシラも子を産み落とす。
四年前、星見魔導士が予言した神秘王の誕生は来年の夏至。神秘王はビルセゼルトとジョゼシラの間に生まれるはずだ。
だが、現在の冷えた関係のまま、子を授かることなどあるはずもない。修復する妙案もなく、時間は過ぎていく。星見魔導士が読み違えたか? だが、あのデリアカルネが読み違えるか?
「パパ!」
ブドウを堪能し終えたグリンバゼルトが膝にしがみ付いてくる。いつの間に本棚から取り出したのか、手には一冊の本を持っている。
「よぉし、おいで」
本を受け取り、グリンバゼルトを膝に乗せ、グリンバゼルトからよく見えるように表紙をめくる。
「お魚!」
描かれた魚の絵を指さしてグリンバゼルトがニッコリ笑う。黄金の魚の物語が書かれたその絵本がグリンバゼルトは何故か大好きで、ビルセゼルトはこの屋敷に来るたび相手をさせられる。
「そうだね、お魚だ。そしてこっちは月」
書かれた物語を読み聞かせることは今のところない。絵を見て楽しむだけだ。
「違う! お月さま!」
「つっ……そうだね、お月さまだ」
思わず苦笑する――どれほどグリンバゼルトに癒されていたことだろう。ビルセゼルトにとってグリンバゼルトだけが、何も考えずに一緒にいられる存在だった。
そろそろ帰ろうとビルセゼルトが思い始めた頃、屋敷で雇用した魔女が慌てて部屋に飛び込んできた。
「南の魔女さまのお使いが大至急、ビルセゼルトさまにお会いしたいとお出でです」
「すぐにお通ししなさい」
ビルセゼルトより先にリリミゾハギが答えている。ビルセゼルトがリリミゾハギに遠慮するのを見越したのだ。
「ジョゼシラさまにおかれましては、昨日よりご気分優れず、ビルセゼルトさまに早急のご帰城を願いたい」
用件を聞いてビルセゼルトの顔色が変わる。
詳しく聞くと、居室から一切出てこない上、食事を摂っている様子もない。どうしたのか尋ねても、扉の向こうから『なんでもない』と返事があるだけで、要領を得ない。しかも今朝、『身体が燃えるようだ』とポツリと漏らしたらしい。
「発熱しているのか?」
「それが、『そうではない』と仰るのです。が、癒術魔導士さえお部屋に入れて貰えず、城中の者が心配して様子を窺うのですが……さっぱり判りません」
ふん、とビルセゼルトが鼻を鳴らす。
「あの魔女の結界を破れる者などそうはいない。判った、すぐに戻る。先に戻ってわたしが帰るとジョゼシラに伝えてくれ」
慌ただしさに怯えたグリンバゼルトがリリミゾハギにしがみ付いている。それを見て、ビルセゼルトは近寄ると膝を折り、視線を合わせて話しかける。
「また、近いうちに来るからね。ママの言うことをよく聞いて、いい子にしているんだよ」
「パパ……行っちゃイヤ」
グッとビルセゼルトの胸が詰まる。だが、それを表情に出すことなく、グリンバゼルトの頭を撫で、リリミゾハギに
「頼んだよ」
と、だけ言うと、火のルートのある部屋へと消えた。




