13
どこからか子どもたちの笑い声が窓辺に聞こえてくる。隣の家からか? この周辺は、この家以外は街人が住んでいるだけだ。
街人ならば、疫病を恐れて家の外に子どもを出したりしないだろう。この部屋の窓も、外の空気が入り込まないよう、しっかりと閉ざされている。
「どうかされましたか?」
すぐそこの寝台で女の、遠慮がちな声がする。目覚めた女がこちらの様子を窺っていると、とっくに気が付いていた。が、敢えて気が付かないふりをしていた。
「いや……子どもの笑い声というものは、思いのほか大きいのだなと思って。窓辺に立つと、すぐそこに聞こえる」
「隣家の子どもたちの声でしょう。七歳を頭に三人の子どもたち……母親のお腹には四人目がいるそうです」
「そうか。羨ましい事だな」
「羨ましい?」
「うん、子どもの笑い声は気持ちを明るくしてくれる」
「そう……そうですね。けれど育てるのが大変と、隣家の母親はよく愚痴を零しています」
「そうか、まぁ、母親はそうかもしれないね。子供は手が掛かりそうだ」
「父親とて同じですわ。食べさせていくのがやっとだ、と」
「ふむ……」
返す言葉を失って、ビルセゼルトが黙る。街人の中には、貧しさに苦しんでいる者が大勢いるのだ、と言われた気がした。
もう何年も税を取り立てていない。だが、それではまだまだ足りないのだと、責められていると感じずにはいられなかった。
「領内の産業を見直さなくてはならないようだね……さて、そろそろ帰るよ」
チラリと空を見て、何刻だろう、と思いながらビルセゼルトが言った。陽はまだ高いが、不在に気付いた誰かが騒ぎ出す前に戻ったほうがいい。
グラリアンバゼルート、センスアルティム郊外、『朝霧流れる麗しの森』に面した魔導士リリミゾハギの住処に厳重にかけた結界を、ビルセゼルトは通常のものに戻した。
ここにいるはずのない自分がここにいて、何をしているのか?……いずれ誰かに必ず知られる。だから、隠すつもりはない。
けれど、“している詳細〟が『家の外に漏れる』のは流石に憚られる。つい、結界を強化してしまう。
帰るというビルセゼルトを見送るつもりなのだろう。リリミゾハギが急いでガウンを素肌に纏う。その身体が揺れて、ふら付くのをビルセゼルトが慌てて支えた。
「やはり体調が悪そうだ。無理しているのではないか?」
疫病の治療薬はまだ完成していない。根を詰め過ぎて、疲れがたまってるんじゃないかとビルセゼルトがリリミゾハギに尋ねるのは、今日はこれで二度目となる。
一度目は、いつもなら激しく求めてくるものが、反応が薄いと感じて訊いた。その時は『気のせい』と答えられ、それ以上追及できなかった。
ひょっとしたら飽きられたのか、と内心思い、それならそれでいいとビルセゼルトは思っていた。
だか、今度は立ち眩みだ。リリミゾハギとしても気のせいだと誤魔化せない。
「無理をしているわけではないのです」
そう答えながらリリミゾハギの顔は晴れない。
「ならば、何か悩み事や心配事でもあるのか? わたしとのことが誰かに知られたとか?」
「誰かに知られるなんて、そんな事は絶対にありません」
ビルセゼルトと深い仲だと誰かに知られれば、それを理由に二度と会えなくなるかもしれない。『誰に知られても構わない』と考えているビルセゼルトとは違い、リリミゾハギは誰かに知られることを恐れていた。
その反面、火のルートを使い、暖炉から暖炉を移動するのだから、誰にも見られはしない。ビルセゼルトの結界を破れるほどの魔導士はこの界隈にいないし、そもそもわたしの家を覗く物好きなど居はしないとリリミゾハギは高を括っていた。
「では、他に何か? なんでも話しなさい。わたしにできる手助けならなんでもするよ」
穏やかにそう告げるビルセゼルトに、リリミゾハギが目を向ける。なんでもすると言いながら、それは手助け、あくまで他人だ。この人は――この人がわたしを抱くのは愛しているからではない。たぶん同情、そうでなければ惰性。この人の心は、今でもあの人だけのものだと感じずにはいられない。
なんと強欲なのだろう、と自分を呪う。ひと目会えただけで幸せを感じていた。それが、また会いたいとなり、愛がなくてもいい、と思っていたのに、愛が欲しいと望むようになる。
アウトレネルに昏倒薬を使い、ビルセゼルトに媚薬を盛ったあの日、ビルセゼルトはわたしを抱いてくれた。
『苦しませて済まない』と、わたしを抱きしめ耳元で囁いたあの時、ビルセゼルトに媚薬は効いていなかった。一度だけでいいから、と懇願するわたしを憐れんでくれたのだ。
それなのにわたしは、『わたしを抱いたのは薬のせいではなくて、あなたの意思だ』とこの人を引き留め、『あなたが惨めになるだけだ』と諭すこの人を許さなかった。
そしてこの人が言うとおり、身体は満たされても心は満たされない惨めさに、抱かれるたびに苛まれる。
この人がわたしを愛することはない。判っているのにわたしは、更にこの人を鎖で繋ごうとしている……
「ジョゼシラさまは、お子を望んでおられないのですか?」
「うん?」
魔導士のローブを羽織る手を止めて、ビルセゼルトがリリミゾハギを見た。
「……できるなら、妻の話はしたくないな」
「ビルセゼルトさまは子どもがお好きと感じたので……」
「そうだね、だが、欲しいと思ってできるものでもなさそうだ」
「……お子の母親はジョゼシラさまでなくてはなりませんか?」
「アイツじゃなくても、とは?」
リリミゾハギが次に口にする言葉を予感して、ビルセゼルトが表情を硬くした――
公にしないわけにはいかなくなった……だが、どんな形で?
迷いの中でビルセゼルトが魔導士ギルドの執務室に戻ると、知られたくなかった不在が、一番知られたくなかったアウトレネルに知られた後だった。ギルドにも魔導士学校にも告げず所在不明となる事を先日指摘されたばかりだ。
アウトレネルはソファーに座って待っていた。ギルドの執務室は、業務を滞らせないためにビルセゼルトの不在時も出入り可能となっている。
「ギルドにも魔導士学校にもいない。南の魔女の居城のルート番に訊いても知らないという――ビリー、よくない噂を聞いた」
「……噂など、もともとよくない物ばかりだ。誰になんと聞いた?」
「センスアルティムの街人がリリミゾハギを心配して、街の魔導士に相談した。いるはずなのに住処の内部からの応答がないとね。で、街の魔導士を任されているワームテロンが様子を見に行ったら強力な結界が張られていて、中の様子は判らなかった」
「研究が盗まれるのを恐れたんじゃないのか?」
「リリムが張れるような結界じゃない、ワームテロンが覗けなかったんだぞ。ワームテロンが覗けない結界を張れる魔導士は限られている」
「ふむ……」
隠せるものではない……ビルセゼルトは考えを切りかえる。このタイミングでアウトレネルに知られたのは、むしろ良かったのかもしれない。
「その結界を張ったのはわたしだ」
「ビリー!」
「レーネ、おまえの住処の近く、ノンスアルティムにわたしの別荘があるのは知っているな?」
「それがどうした? そんな事より、なんでそんな結界を張った? リリムに男ができて、睦みあうために張られた結界だと、もっぱらの噂になっている。しかも相手はビリー、おまえだと。多忙を抜け出して睦みあうほど、おまえはリリムに夢中だって噂になっている」
「うーーん、やはり噂は噂に過ぎないな。夢中になどなっていない。が、大まか当たっている」
「ビリー?」
アウトレネルがポカンとビルセゼルトを見る。
「ビリー……冗談を言っているのか?」
「冗談? わたしが冗談でこんな事を言うと思うか?」
「そうだな、こんな冗談が言えるおまえじゃない。おまえは堅苦しいほど生真面目なのを俺は知っている。その生真面目なおまえが女を作るなんて俺には信じられない」
ビルセゼルトを呆然と見詰めながら、アウトレネルはたった今、テーブルに現れたティーカップに手を伸ばす。ビルセゼルトが適温に調整していることに気づかないまま、ごくごくと飲み干した。
「他の男なら、こんなに驚かない。おまえは金を持っているし、力も持っている。そんな魔導士や魔女が、配偶者以外の相手を持つことは珍しいことじゃない。でもビリー、おまえは違う。中途半端なことをするヤツじゃない」
「ほう、レーネ、おまえはわたしを情けないヤツだと言った。その通り、情けないことになっただけだ」
ここで、アウトレネルがフフンと鼻を鳴らした。
「なるほど。自分でも後ろめたいのだな。だから『情けない』なんて言葉が出てくるんだ――それで? どう後ろめたいんだ?」
「どう、って……うん、何が後ろめたいんだろう?」
「おぉーーい、ビリー、しっかりしろ」
アウトレネルが頭を抱える。
暫く互い押し黙り、目を合わせられずにいた。沈黙を破ったのはアウトレネルだ。大きくため息をつき、ビルセゼルトに尋ねた。
「そうなってから、どれくらい経つんだ?」
「そろそろ半年近くになるか……」
「……そんなに?」
アウトレネルが更に顔色を変える。
「それで、おまえはリリムを愛しているのか?」
その問いに、ビルセゼルトは答えない。
「……愛してもいないのに半年か。屋敷に迎えるつもりもないのだろう?」
屋敷に迎えるとは自分の屋敷に住まわせ、愛人関係にあると公にするという事だ。
対等の力を持つ者同士の取り合わせなら、共同の屋敷を持つこともある。婚姻の誓いを立てた配偶者と同等に扱うと、世間に宣言したことになる。
だったら、とアウトレネルが続ける。
「さっさと別れちまえ。なんだったら、俺が話を着けてやってもいい。まったく、気を付けろって言ったのに、なんで一人で会いに行った?」
「ふむ……おまえの心配はありがたいが、あいにく別れるわけにはいかない」
「なに言ってる? 自分でも判っているだろう。深い関係になった事を、今さらあれこれ言ったところでどうにもならない。だが、半年も屋敷に迎えていないのだから、いずれ捨てるつもりなんだろう? だったら早いほうがいい……頼むから、薬が完成したら別れるなんて言い出すなよ」
「いや、ノンスアルティムの別荘に迎え入れる」
「ノンスアルティムの? えっ? いや、待て、ビリー……今、愛していないと、認めたばかりじゃないか」
「うん……」
ビルセゼルトは手にしていたティーカップを静かにソーサーに置いた。
「リリムの腹には、わたしの子が宿っている」




