序章 ── 邪痔蜘蛛島の惨劇 ──
この物語は、全てフィクションである――と、まず断っておく。
だが、もしもあなたが読んでいる今、背後に何か視線を感じたら、それは決して偶然ではないかもしれない。
1999年1月1日、日本の北方沖に存在する、地図にもほとんど記されていない孤島――邪痔蜘蛛島。
その島で、1000人以上の干からびた死体が発見された。
全員の腕には、同じ形の十字架が刻まれており、ポケットや衣服の中からは、奇妙な地図が見つかっていた。
政府は事件を極秘扱いとし、詳細は未だに公開されていない。
この島で何が起こったのか。
その答えを知る者はいない。
本書の主人公、高橋要は、父の遺した手帳と地図を手がかりに、この島の真実を追う。
恐怖と謎が交錯する島で、彼が目撃するのは、人ならざる存在の影と、人間の深い欲望、そして忘れ去られた儀式の痕跡だった。
読者よ。
この先に待つのは、単なる恐怖譚ではない。
死者の残滓、消えない呪い、そして人間の心に潜む闇に触れる、ホラーと推理の交差点である。
あなたがページをめくるたび、島の霧は濃くなる。
そして、物語の最後に、気づくだろう――
恐怖は、物語の中だけに留まらず、読んでいるあなたの心にも、ひそやかに忍び込むのだ、と。
さあ、邪痔蜘蛛島の門を開ける準備はできただろうか。
この島の謎を解く勇気があるなら、先へ進むがよい――。
1999年1月1日、午前5時13分。
日本の北方沖、地図にもほとんど記されていない孤島──邪痔蜘蛛島。
その島で、1000体を超える干からびた死体が発見された。
海上保安庁の報告によると、死体はすべて成人であり、年齢・性別を問わず。
驚くべきことに、全員の左腕には同じ形の焼き印──黒ずんだ十字架が刻まれていた。
さらに奇妙なことに、死体の衣服やポケットからは一枚の古びた地図が見つかった。
地図には、赤い線で島の中心を指し示すように、ただ一言、震える筆跡で書かれていた。
「巣に還れ」
しかし、この事件の詳細は、わずか数日のうちに政府によって封印された。
公式には「未確認感染症による集団変死事件」として処理され、島は立入禁止区域となった。
マスコミも報じることはなく、事件の全貌を知る者はいない。
──そして25年後。
大学で民俗学を専攻する青年、高橋要は、亡き父の遺品の中に、一枚の古い地図を見つける。
それは、あの“邪痔蜘蛛島”で発見されたものとまったく同じ印が押された地図だった。
「父さん……あなたは、あの島に行ったのか?」
島へ向かう決意を固めた要は、知らぬ間に“何か”に呼ばれていた。
その島に、彼自身の“過去”と“運命”が絡みついていることを、まだ知らぬまま──。
高橋要は、父の遺品を整理していた。
小さな段ボールの中に、黄ばんだ新聞の切れ端と一冊の黒い手帳があった。
新聞は1999年1月6日付。見出しは、かすれた文字でこう読めた。
「孤島で多数の白骨死体──政府、詳細を非公開に」
記事の下部には、赤いインクで誰かの手書きのメモがあった。
「地図の“中心”を掘るな。
奴らは眠っている。」
要の指先が震えた。
手帳の最終ページに貼られた写真には、薄暗い浜辺に立つ父の姿と、
その背後に広がる異様な影──まるで人間の形をした“何か”が、数十体、干からびた姿で並んでいた。
数週間後。
大学の研究室で、要は恩師の桐谷教授に地図を見せた。
桐谷は民俗学者で、古い島伝説の研究をしている。
「……邪痔蜘蛛島、か」
教授は眼鏡を外して息を吐いた。
「聞いたことがある。あの島は戦前、“神降ろしの巣”と呼ばれていた。村人たちは“地の底に眠る蜘蛛の神”を信仰していたらしい。」
要は眉をひそめた。
「蜘蛛……?」
「伝承によると、“人が死ねば、その魂は蜘蛛の糸に絡まり、永遠に解けなくなる”という。
だから村では死者を埋めず、干からびるまで祀った。……それが、干からびた死体の理由かもしれん。」
教授は口をつぐんだ。
だが、その目は恐怖と好奇心の狭間で揺れていた。
「要くん、もし本当に行く気なら、忠告しておく。
あの島では、生者が死者に絡め取られる。
そして、帰ってきた者はいない。」
要はそれでも、島へ渡る決意を固めた。
父の死の真相を知るために。
そして、地図の“赤い印”が何を意味するのか確かめるために。
同行者は二人。
桐谷教授の助手・成瀬あかり、
そして地元の漁師で案内役を務める山城武。
出航の朝、港には濃い霧が立ち込めていた。
まるで海そのものが何かを隠しているようだった。
「天気、急に悪くなりそうだな……」と山城が言う。
要は黙ってうなずいた。
波の音の向こうで、かすかに低い唸り声のようなものが聞こえた。
それが風なのか、あるいは……人の声なのか、誰にもわからなかった。
舟が島の岸に近づくと、霧の中から巨大な鳥居が現れた。
鳥居の柱には、無数の十字架の焼き印が刻まれている。
どれも人の手で押されたものではない。
木の表面が、まるで内側から焼けただれたように黒く泡立っていた。
「……なんだ、これ……」
あかりが息を呑む。
要は鳥居を見上げた。
そこに彫られた古い文字が、かろうじて読めた。
「地の底、糸の底、眠りの巣」
その瞬間、風が止んだ。
海が一瞬、静止したかのように波を失った。
次に響いたのは──人の笑い声。
岸の奥、森の闇の中から、
誰かが、くぐもった声で笑っている。
要はその音の方へ振り返った。
そこには誰もいなかった。
だが、砂の上には三人のものではない、第四の足跡が続いていた。
霧の中、三人は慎重に足を進めた。
砂浜を抜けると、島の中心へ向かう赤い印の道が見えた。
道の両脇には、かつての建物の土台らしき石が散乱している。
その石の上には、奇妙な彫刻──蜘蛛のような抽象的な模様と、十字架の痕跡──が無数に刻まれていた。
「あれ……見てください」
あかりが足元を指さす。
砂の上には、干からびた手の跡のような痕が、道に沿って続いていた。
人間の大きさではない。いや、形も人間のそれではない。
要は背筋に寒気を感じながら、地図の赤い印と照らし合わせた。
「この先……中心かもしれない」
森の奥へ踏み込むと、異様な静けさが三人を包んだ。
鳥の声も虫の音もなく、風すら消えたかのようだった。
地面には落ち葉がほとんど無く、土だけが湿ったように光っている。
要が手帳の写真を思い出す。
写真の中でも、同じ場所に同じような湿った土が写っていた。
その時、かすかな声が聞こえた。
「……来たな……」
三人は一斉に立ち止まった。
声は森の奥深くから、しかし近くで囁かれたように聞こえる。
「誰だ?」要が叫ぶが、返事はない。
ただ、足元に目を落とすと、乾いた土の中から小さな骨の破片が顔を出していた。
あかりが震える手で拾い上げた。
「……これは……」
それは、完全に人間の小指の骨だった。
そしてその指先には、微かに十字架の跡が残っていた。
突然、森の奥から低いうめき声が響く。
要たちは本能的に身を低くして、音の方向を探った。
木々の間から、ゆらゆらと人影が現れた。
しかし、形は不自然だった。
体の輪郭は人間だが、肌は干からび、黒くひび割れている。
腕は異常に長く、指先には鋭い爪のようなものがついていた。
まるで、写真で見た父の背後の影と同じ姿だった。
「あれ……生きてるのか……?」あかりが声を震わせる。
だが要には違和感があった。
動きがぎこちなく、滑らかではない。
呼吸音も聞こえない。
それは、死者の残滓──干からびた死体が何らかの力で動いているように見えた。
要は地図を握りしめた。
「……中心まで行くしかない。答えはそこにある」
しかし、森は次第に不気味な音に包まれた。
干からびた人影の群れが、ゆっくりと三人に向かって近づいてくる。
桐谷教授は低くつぶやく。
「奴らは……死者に絡め取られる……伝承は、嘘ではない……」
森の奥、霧が最も濃くなる場所に、三人はたどり着いた。
地図の赤い印の中心――そこには古びた石造りの祭壇があった。
祭壇の表面には、無数の十字架と蜘蛛の紋様が刻まれ、血の跡のような赤茶色の染みが残っている。
周囲には、干からびた人影が無数に、まるで柱のように立っていた。
しかし、それらは微かに揺れ、三人の視線を追うように動く。
「……これが……中心……」
要は息を呑んだ。
祭壇の上には、一冊の黒い手帳と、干からびた父の腕が置かれていた。
手帳は、父が最後に残したものに間違いなかった。
あかりが恐る恐る手帳を拾い上げると、ページの間から一枚の紙が落ちた。
それは、島の古文書のような、奇妙な文字と蜘蛛の紋章が描かれた紙だった。
中央には、赤いインクでこう書かれていた。
「十字架を刻めば魂は繋がる。
糸の中心にて、すべては解かれる。」
要は震える手で父の腕を見つめた。
焼き印の十字架が、祭壇の紋様とぴったり重なる。
「父さん……これが……」
桐谷教授が低くつぶやく。
「この島では、死者の魂を蜘蛛の巣のように繋ぎ、永遠に封じる儀式が行われていた。
父さんは……それを解こうとしたのかもしれない」
その瞬間、祭壇の周囲の干からびた死者たちが、ゆっくりと一斉に動き始めた。
目はなく、口は裂けていないのに、何か低い声でささやく。
「……帰れ……帰れ……」
三人は身動きが取れなくなった。
あかりが必死に手帳をめくり、文字を読み解こうとする。
「……これは……呪文か……儀式の手順……!」
要は思い切って父の腕を祭壇に置き、手帳の指示に従い十字架の位置を確認した。
その瞬間、祭壇の周囲の空気が震え、死者たちの動きが一瞬止まった。
しかし、次の瞬間、低いうめき声はより近く、濃く、島全体に響き渡る。
「……父さんは、これを完成させる前に……」要は言葉を途切らせた。
教授が続ける。
「……だから1000人以上の死体が……永遠に島に留まっている……」
あかりが顔を青ざめさせて言う。
「……私たちも、ここで……」
要は決意を固めた。
「……ここで終わらせる。父さんが残した手がかりを全部使って、これを解く」
三人は手帳の手順に従い、祭壇の十字架と蜘蛛の紋様を辿り、
干からびた死者たちの“糸”を解き放つ儀式を始める。
しかし、儀式が進むにつれて、島の空気は重く、腐ったような匂いに変わる。
霧の中から、死者たちのうめき声は次第に一つの声にまとまり、三人を強く引き寄せようとした。
要は恐怖と戦いながら、父の意志を信じて手順を続ける。
祭壇の中心に十字架を置き、呪文を唱えた瞬間、死者たちの姿が一斉に崩れ落ち、霧と共に消えていった。
静寂が訪れた。
島にはもう、干からびた死者も、低いうめき声も、何も残っていなかった。
要は祭壇の上に残った手帳を見下ろした。
そこには、父の最後の文字があった。
「すべては終わった。だが、見届ける者が必要だった……」
要は深く息を吐き、島を振り返った。
遠くの霧の向こうに、ほんの一瞬だけ、父の笑顔のような影が浮かんだ気がした。
三人は震える足で祭壇を後にし、霧の海岸へと向かう。
島は依然として不気味だが、死者の呪縛は解かれたのだ。
そして要は確信する。
「父さんの真実も、島の謎も……僕たちで終わらせる」
森の奥からは、何かが這うような音、金属を引きずるような音、低い笑い声が重なり、霧がさらに濃くなる。
要は、これまで経験したことのない恐怖に押しつぶされそうになりながらも、地図の赤い印を目指して歩き続ける。
だが、道は次第に入り組み、三人の位置感覚は狂い始めた。
見上げると、木々の枝には無数の十字架が絡まる蜘蛛の巣のような模様が輝いている。
まるで島全体が、死者の意志で生きているかのようだった。
祭壇の呪縛が解かれ、霧の中に静寂が戻った。
要、あかり、桐谷教授の三人は、互いに震える手を取り合いながら、海岸へ向かって歩き出した。
足元には干からびた死者の残骸はなく、ただ湿った砂と、微かに漂う腐敗の匂いだけが残っていた。
「……本当に、終わったんだな……」
教授は肩で息をしながら言った。
要は頷いたが、胸の奥にはまだざわつきが残っていた。
島の中心部で見た光景、父の遺した手帳、そして幽かに見えた影――すべてが、心の奥で問いかけてくる。
波の音が近づくと、遠くの霧の中から舟が見えた。
山城が駆け寄り、三人を船へ導く。
岸を離れると、島は再び霧に包まれ、最後までその全貌を見せなかった。
舟の中で、あかりが手帳を開き、祭壇での記録を見返した。
そこには、父が試みた「死者の封印解除」の手順と、島の伝承の詳細が残されていた。
「父さん……あなたは、島の秘密を守るために、命を賭けたんだ……」
要は静かに手帳を閉じた。
そして心の中で、父への感謝と、島で目の当たりにした恐怖への決別を誓った。
数日後、三人はそれぞれの日常に戻った。
しかし、要の心には、あの島の記憶と父の意志が深く刻まれていた。
桐谷教授は大学で講義を再開し、あかりは研究室で資料の整理を続けた。
要は父の研究を引き継ぐ決意を固め、島の謎を後世に伝える覚悟を胸に抱いた。
だが、夜、ふと目を覚ますと、要は夢の中で再び霧の海岸に立っていた。
波音の向こうで、干からびた死者たちが揺らめき、微かに笑っているように見えた。
そして、耳元に囁き声が響いた。
「見届けてくれて、ありがとう……」
要は目を開け、深く息を吐いた。
島の呪いは解かれた――だが、記憶と恐怖は永遠に残る。
邪痔蜘蛛島の謎は、ひとまず終わった。
しかし、真の恐怖は、人間の心に深く刻まれたまま、静かに潜んでいるのだった。
エピローグ
春の風が大学キャンパスをそよいでいた。
要は講義の合間に、父の手帳を開き直していた。
あの日、島で目の当たりにした光景が、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
しかし、手帳には確かに、死者を封じ、呪いを解くための手順と島の秘密が記されていた。
父の意志は、彼自身が引き継ぐべき使命となったのだ。
あかりは研究室で、島の古文書や祭壇の痕跡を整理していた。
教授は学会で、邪痔蜘蛛島の伝承と民俗信仰について発表し、表向きには「古い民間信仰の研究」として片付けた。
だが、三人の心には、島で感じた異様な空気と干からびた死者の影が、深く刻まれたままだった。
ある夜、要は自室で窓の外の霧を眺めていた。
ふと、耳元にかすかな声が響く。
「……まだ、見ていてくれるのだね……」
要は息を止め、部屋の影に目を凝らす。
だが、そこには誰もいない。
窓の外の霧も、静かに揺れているだけだった。
彼は手帳を胸に抱き、静かに囁く。
「……もう、大丈夫だ。父さんの想いも、島の秘密も、僕たちが守る」
しかし、微かなざわめきは、どこからか絶え間なく続いていた。
島で解かれた呪いは消えたかもしれない。
だが、人の心の奥底に潜む恐怖と、記憶の糸は、決して消えることはない。
夜空の星を見上げる要の目に、かすかに霧がかかる。
その中に、干からびた死者たちの影が、一瞬だけ揺らめいたような気がした。
邪痔蜘蛛島の謎は終わった。
だが、その恐怖は、人知れず、静かに生き続けている――。
こうして『邪痔蜘蛛島の謎』は幕を閉じる。
物語の中で描かれた島、干からびた死者、そして父の遺した手帳――すべてはフィクションである。
だが、読者の心に残る霧の匂い、低いうめき声、揺らめく影の感覚は、決して虚構だけではないかもしれない。
物語を通して描かれたのは、恐怖の対象だけではない。
人間の記憶に刻まれた罪と後悔、愛する者への想い、そして真実を追い求める勇気。
恐怖とは、単に驚かせるだけのものではなく、人の心の奥底を照らす光のようなものである──そう感じてもらえたなら、この物語の意義は達せられたと言える。
高橋要と仲間たちが島で見たもの、解いた謎、体験した恐怖は、読者の想像の中でも生き続ける。
そして、この島の霧と影は、ページを閉じた後も、あなたの心の片隅で、ひそやかに揺れ動いているだろう。
最後にひとつだけ。
夜、ふと窓の外の霧に目を凝らしてほしい。
もしかすると、島の記憶が、あなたを静かに見守っているかもしれない。
そして――もし今、この文章を読んでいるあなたの背後で、低いうめき声が聞こえたなら、
それは決して想像ではない。
物語の余韻はここで終わる。
だが、邪痔蜘蛛島の恐怖は、心の奥底に、永遠に残る──。




