第三章:戦乱の悩み ── 荒野にこぼれる嘆き
戦国の世。日本の山裾にそびえる城郭では、遠くから激しい砲声や鬨の声が聞こえてくる。幾度となく繰り返されてきた大名同士の覇権争いが、今また激化しているのだ。実家と婚家が再び刃を交えるかもしれない――そんな噂が城内に広まり始めたとき、人々の胸には重苦しい空気が立ちこめた。戦の気配が近づくにつれ、心の奥底にわだかまる不安は、いっそう大きくなると感じられた。
この城に嫁いでいる女性は、もともと敵対関係にあった家の姫だった。政略結婚によって両家は一時的に手を結び、彼女は新たな婚家へと身を置くことになった。城の者たちは表向き『奥方様』と呼んで丁重に扱っているが、胸の奥では彼女をどこか警戒している気配がうかがえる。戦が起こったなら、自分は果たして『嫁』として遇されるのか、それとも『人質』のような立場として扱われるのか――そんな恐怖が、夜ごと彼女を眠り疲れにしていた。
ある晩、彼女は奥まった部屋で一人、そっと膝を抱えて俯いた。
「もし実家と婚家が再び戦になれば、私はいったいどうすればいいのでしょう……」
かすれた声は震えていた。誰にも本音を打ち明けられず、気丈に振る舞わねばと自分に言い聞かせても、心の底から拭えない不安が襲ってくるのだ。
俺は“悩みのゴミ箱”。彼女が声に出せない思いを、静かに受け止めている。彼女は幼いころから嫁ぐまでの間、あれほど慕ってきた実家を裏切るつもりなどなかった。しかし、婚家の家族を敵視することもできなかった。そんな彼女の戸惑いや怯えは、眠りを妨げる闇のように重くのしかかり、俺の中へと静かに流れ込んでくる。
一方、城下をさらに下った先にある山あいの農村では、戦の噂が別の形で人々を苦しめていた。作物を育てようにも、収穫した米や野菜の多くを兵糧として徴発されるかもしれない。領主が勝てば少しは暮らしが楽になるのか、それともまた別の戦が起きるだけなのか――農民たちははっきりした情報を得られず、夜ごと胸を痛めていた。
その村に暮らす若い男は、夜明け前から鍬を握りしめ、固い土を耕している。額に浮かぶ汗が首筋を伝って落ちていくが、必死に働いても先行きへの不安は拭えない。戦が始まれば、せっかく耕した田畑が踏み荒らされ、家族の食べるものすら奪われる可能性があるからだ。
「おらがどんだけ働いても、戦になっちまえば、全部台無しになってしまうんだべか……」
男は鍬を土に突き刺したまま、山裾に見える城をぼんやりと眺めていた。自分たちの苦労など、城にいる武士たちが気にかけているのかどうか――そう思うと虚しくなり、深いため息が溢れてきた。
俺は“悩みのゴミ箱”。彼の胸の内から立ちのぼる嘆きも、確かに受け止めている。戦が起こるかどうかを決めるのは、いつも遠い場所にいる権力者たちだ。農民はただ従うしかなく、それに逆らえば一家が路頭に迷うことは明らかだった。それでも、畑を捨てて逃げる選択肢など容易にはとれない。生活の糧を失うことは、家族の生命に直結するからだ。
俺の内側に、二人の声が交互に響いていた――どちらも、同じ戦の影に揺れていた。武家の女性は城で夜を迎えるたび、自分の存在意義を問い続けている。農村の男は土の中に汗を流しながらも、『どこまで頑張ればいいのか』と虚ろな視線を送っている。二人は互いを知らないが、同じ戦乱の足音が、彼らの心を追い詰めているのだ。
やがて噂は現実のものとなった。実家と婚家が再び刃を交える可能性が高いと、城の武士たちが慌ただしく準備を始めた。女性は奥の間に呼び出され、義父や義兄と会う機会が増えていく。彼女の意向を探るためなのか、あるいは『人質』としての立ち位置を強調するためなのか――いずれにしても、城の者たちの目はどこか冷たい気配を帯びていた。彼女は胸を痛めながら、毎夜、『私にはどうすることもできない』と俺に向かって泣きそうな声を落としていた。
農村では、近隣の家々に兵糧徴発の知らせが届き、人々の間に動揺が広がっていた。戦支度のため、かなりの量を求められる可能性があるようで、あちこちで怯えた声が上がる。若い男は一瞬逃げ出したい思いに駆られたが、高齢の両親を抱える身では勝手に動くわけにもいかなかった。結局、『この土地で踏ん張るしかない』と、誰にも言えない不安を俺に向かって吐き出し続けていた。
俺はただ静かに彼らの嘆きや恐怖を受け止める。どれだけ時代が移ろい、どれほど人々の暮らしが変化しても、戦乱がある限り、こうした苦悩は消えないのかもしれない。武家の姫も農民の男も、心の在り方はまるで違って見えるが、『平和であってほしい』という願いだけは同じなのだろう。
戦が本格的に始まれば、彼らの悩みはさらに深まっていくのだと感じている。婚家と実家が刃を交えるとき、女性はどちらの家を守りたいのだろう。農夫はどのようにして、家族を飢えから救おうとするのだろうか。ただ彼らの声を聞き続け、いずれ訪れる運命を見届けることしかできない。
けれど、悩みがあるからこそ、彼らは立ち止まらずに考え、行動しようとするのかもしれない。婚家の奥で固い決意を胸に秘める女性と、土の感触を頼りに明日を信じようとする農民――その声なき声が、また少しずつ俺の中に積もっていく。
『俺は“悩みのゴミ箱”。戦乱が呼び起こす人々の苦悩を受け止めながら、微かな“揺らぎ”が深まっていく――』