17. 堂々たるご相伴(しょうばん)
焦るあまり欄干を飛び越えてきたクレランスは、鎧の怒号があまりにもうるさくて、耳がキーンとなりそうだった。
― いま何しやがる!? すぐに出ていけ!
しかし、クレランスは鎧の声を無視して、給仕が持ってきた椅子に腰を下ろした。続けて手を伸ばして肉を取ろうとすると、鎧があわてて叫んだ。
― おい、せめて手を洗え!
隣にはちょうど、水を張った洗面鉢を持った給仕が立っていた。
クレランスは手を洗い、別の給仕が差し出した布で丁寧に拭いた。
狼狽した鎧がさらに叫ぶ。
― 今のは取り消しだ! 食っていいとは言ってねぇ! さっさと出ろ、このバカ!
「いただきます」
クレランスは、骨を持ち手代わりにして、大きな肉の塊を手に取った。それは、これまでに味わったことのない美味しさだった。炭火の香ばしさがほんのりと香り、柔らかくて肉汁が口いっぱいに広がる。嫌な臭みやクセなどまるでなく、純粋な旨味と肉の風味が渾然一体となっていた。名前も知らぬ香辛料が、食欲を一層かき立てた。
(……おいしい!)
― なにやってんだよ! 立てってば〜〜〜!
喉が潰れそうなほどの大声でがなり立てる鎧の声にも耳を貸さず、クレランスはあっという間に1つ目を平らげ、続けて2つ目に取りかかった。
その様子を、カイエンとハミツは少し呆れたように、しかし興味深そうに眺めていた。
2つ目の肉にかじりついていたクレランスは、ふと食べる手を止めて顔を上げ、通りの向こうを見た。向かいの建物の陰に、慌てて身を隠す影があった。ラリサだった。クレランスを心配して、こっそりついてきていたのだ。
2つ目の肉を食べ終え、しばし迷った後、クレランスはアレンに尋ねた。
「ごちそうさまでした。……このお肉、ひとつだけ持っていってもいいですか?」
「いくらでも食べていいよ。もうちょっとここで食べていかないかい?」
「友達がいるので」
アレンは、今は誰も見えない通りの向こうをちらりと見て、穏やかに微笑んだ。
「そうか。それならね」
「ありがとうございます」
クレランスは一番大きな肉の塊を手に取ると、欄干をひょいと飛び越えて地面に降りた。そして素早く道を渡って、向かいの建物の陰へと向かった。
「ラリサ、これ、食べて」
建物の裏に身を隠していたラリサは、思わず驚いた顔をした。
「私に?」
「うん。そうするつもりでもらってきた」
断るには、あまりにも食欲をそそる香りだった。ラリサは思わず手を伸ばして受け取ると、大きく一口かじった。香りどおり、涙が出そうなほど美味しかった。
そのとき、クレランスの後ろから誰かが来るのが見えたラリサは、慌てて再び建物の裏へと身を隠した。何しろ、自分はエオネスの神官。こんな姿を人に見られるわけにはいかない。
クレランスの背後に現れたアレンの手には、大きなバスケットが抱えられていた。
「お友達がいるなら、これを持っていきなさい」
思いがけない好意に、クレランスはぱっと明るく微笑み、ぺこりと頭を下げてバスケットを受け取った。
「ありがとうございます」
清潔な布がかけられたそのバスケットの中には、骨付きの焼き肉がぎっしりと詰まっていた。普通の人なら、両手でも持つのがやっとの重さだが、クレランスにとってはまったく重くなかった。ザヴィクとシャル、それにラリサに美味しいものを食べさせてあげたい―そう思うと、心が弾んだ。
クレランスは、肉のバスケットを片手に、軽やかな足取りで宿へと向かった。建物の陰にいたラリサも、アレンたちに気づかれないように遠回りして、クレランスのあとをついていった。
その後ろ姿を見ていたアレンの隣に立ったカイエンが、感心したように呟いた。
「変わった子だな。さっきの動きもそうだったけど、あんな重そうなのを片手で持つとは」
「本当に、妙な子だ」
「それにしても、見ず知らずの子にずいぶん親切にしたね。どうした風の吹き回し?」
カイエンが不思議そうに訊いた。
アレン―いや、レオンは決してケチな性格ではないが、かといって誰にでも施しをするような人物でもなかった。
「うーん、可愛い、から?」
「……可愛い、って?」
アレンはにっこりと微笑むと、テラスに戻って、クレランスがしたように欄干に手をかけ、ひょいと飛び越えた。
正直、自分でもなぜそうしたのか、はっきりした理由はわからない。ただ、バスケットを渡したときに見せた、あの晴れやかな笑顔を思い出すと、何だか心が温かくなった。 胸のあたりにじんわりと温もりが広がっていく気がした。
彼のあとを追って席に戻ったカイエンは、ぽつりと呟いた。
「まだ年端もいかない子なのに、ずいぶん深刻な顔をしてたな。まるで仇敵にでも出くわしたみたいだった」
ハミツがさらりと答えた。
「さあな。私の目には、ただ体力が限界で、しんどかっただけって感じだったけどな。目は澄んでいたよ」
*** ***
宿に戻ったクレランスとラリサは、ザヴィクとシャルを部屋に呼び寄せた。バスケットいっぱいに詰められた肉を見たザヴィクは、目を丸くした。
「クレランス様、これは……」
料理の見た目と香りからして、相当高級な一品に違いなかった。
クレランスは、無邪気な笑顔で言った。
「心配しないで。堂々といただいてきたの」
「堂々と……いただいてきたと?」
ますます理解できない表情になるザヴィクに、ラリサも笑顔で口を添えた。
「そうです。クレランスは、ちゃんと堂々といただいてきたんですよ」
鎧がまたしても怒鳴り声を上げた。
― 堂々ともらう、だと!? 新手の物乞いか!
「これ、とっても美味しいんですよ。さあ、召し上がってください!」
ラリサは肉をひとつ取ってザヴィクに渡し、シャルにも差し出した。
「わあっ、これ、本当に美味しい!」
シャルが感嘆の声を上げ、彼女の仮面が笑顔の表情に変わっていた。ザヴィクも一口食べて驚いたように言った。
「焼いたお肉が、どうしてこんなに柔らかいのでしょう?」
シャルが説明した。
「こういうのは、まずタレに漬け込んで下味をつけてから、軽く蒸して、それから上質な炭を使って、時間をかけてじっくり焼くのです。手間も時間もかかりますが、その分、やわらかくて美味しくなります」
「なるほど、勉強になります。クレランス様も、どうぞ召し上がってください」
クレランスは、ザヴィクとシャル、それにラリサが楽しそうに肉を食べている姿を満足そうに見つめていた。彼らが美味しそうに食べているだけで、胸がいっぱいになった。
騒がしく小言を言っていた鎧も、ついには観念したようにため息をついて、ぼそっと呟いた。
― 変わったやつめ……
クレランスは、あの男―アレンの顔を思い浮かべた。
初めて会ったときは、冷たくて傲慢な印象を受けたが、今日見た彼は、それだけではないように感じられた。香ばしい匂いに惹かれたのも事実であり、どうしても食べたかったのも確かだ。でも、ああいう形でご馳走になったのに、なぜか恥ずかしいとは思わない。
(灰色の瞳に、緑が混じっていた……笑った顔は……)
ふと、レオン大王のことが頭をよぎった。