9. 沼地の亡霊王(2)
洞窟の中は暗く、ぬるぬると滑り、湿っていて、不快な臭いで満ちていた。水、土、草、動物の死骸―あらゆるものが腐敗し混ざり合い、有毒なガスさえ漂うその空気は、〈毒耐性の加護〉がなければ気を失ってしまうほどだった。
ラリサは心配の目で、クラレンスとシャルを見つめた。いまだ機敏に動くクラレンスとは対照的に、シャルは明らかに疲弊していた。先までとは比べて、動きが目に見えて鈍くなっていた。
泥の塊がいくつもの腕となり、シャルの体のあちこちを掴んでいた。クラレンスが身を翻し、シャルに絡みついた泥を剣で叩き払い、シャルもまた必死にその泥を引き剥がしていた。
ラリサは聖騎士の精神を鼓舞するための詠唱を始めた。
それは身体的‧精神的能力を極限まで引き出す代わりに、肉体に多大な負荷をかける術であり、切迫した状況でなければ、控えるべきものだった。
だが、ラリサの口から紡がれる言葉は、彼女の知るはずの詠唱とは少し違っていた。違和感を覚えながらも、言葉は止まらずに口をついて出た。まるで、自分の意志とは関係なく、何かが語らせているような、そんな不思議な感覚がした。
「起ち上がれ、忠信なる者よ!
ここに神の御心あり!
汝が剣は悪を罰し、正義を執行する神の道具なり、
汝が盾は苦しむ善き者らの堅き守りとなるべし。
目の前の邪悪なる敵を滅し、神の御意を果たすのだ!」
ラリサの詠唱を耳にしたシャルの様子が変わった。つい先ほどまで動くのもやっとだった彼女が、どこにそんな力が残っていたのか、轟くような咆哮と共に怪物へと突撃した。
「ここに神の御心あらん! 我が剣は、神の御言葉を執行する光の道具なり!」
シャルだけではない。ザヴィクもまたその影響を受けたようで、疲労や体力の限界を振り払ったかのように立ち上がり、クラレンスとシャルをより積極的に援護し始めた。
その時、洞窟全体に荒々しくも陰鬱な声が轟いた。
「目覚めよ、我が眷属どもよ……!
汝らの無念を、苦痛を、怒りを、あの者らに余すことなく返してやるがよい……!
果てなき絶望と過酷なる死の輪廻をもって、その息の根を止めるのだ!」
直後、洞窟がぐらぐらと揺れ、地面や壁、天井から黒い泥がぶくぶくと沸き上がった。四方から苦悶の呻き声と悲鳴が響き渡り、黒泥はどろどろと蠢いて人の形を成していった。
「う、うううう……」
「苦しい……」
「寒い……」
それは泥の亡霊であった。彼らは両手を前に伸ばし、もがきながら群れを成して、クラレンスとシャルに向かって、ゆっくりと進んでいった。
ラリサは大声でクラレンスとシャルに警告した。
「気をつけて! 後ろに化け物がいるわ!」
ザヴィクが急いで泥の怪物らに向けてクロスボウを放った。しかし、数があまりにも多く、矢が命中しても、泥の亡霊たちはすぐに再び集まり、再生してしまった。
(どうしよう……何か助ける手段は……?)
このままでは、クラレンスとシャルは、前後から敵に挟まれてしまう。こういう時、神官にできる最善の術は、浄化によって魂を癒すこと。
でも、ラリサは今まで一度もその術を使ったことがなかった。自分にそれができるかどうかも分からなかった。だが、このまま仲間を危険に晒すわけにはいかない。
ラリサは決意を固め、頭に浮かぶままの聖句を、口に出して唱え始めた。
「光なき闇に囚われ、さまよう哀れなる魂よ。
我がもとへ来たれ。
我、汝らを然るべき場所へと導かん。
苦悩と悲嘆、絶望と嘆きの枷より解き放たれ、
安息の住まいへと至れ。
女神エオネスの慈愛の光、汝らを光の道へと導かん……」
この祈りが本当に正しいものなのか、記憶にあるものなのか、それともただ自然に頭に浮かんだものなのか―ラリサには、それすら判別がつかなかった。彼女は、両腕を前に差し出し、大きな声で怨霊に向かって詠唱を続けた。
ラリサの頭上に、うっすらと黄金の天秤が現れ、彼女の体から光があふれ出す。それは周囲へと広がり、やがて光の防壁となって彼女を包み込んだ。
泥の亡霊たちは、ラリサの声に呼応するように、一斉に身体を向け、今度はラリサへと足を引きずるようにして近づき始めた。どろどろとした泥を滴らせ崩れかけたその形は、人の姿をしていながらも溶けたように歪み、かろうじて見開かれた蒼白の目だけが不気味に光っていた。
(ひぃっ……なにこれ、怖い……来ないで、来ないで……)
心の中では恐怖に震え、叫びたい衝動に駆られながらも、一方で毅然とした態度で怨霊に正面から立ち向かう自分がいた。それは、二つの異なる自我がぶつかり合っているような、奇異で不慣れな感覚だった。
徐々にラリサの心から恐れが消えていき、代わりに使命感と確信が胸の奥底から湧き上がってきた。女は微動だにしない確かな姿勢で、祈りの言葉を紡ぎ続けた。
「……寒い、寒いよ……」
「痛い……助けて、お願い……」
痛みに満ちた呻きと悲鳴を上げつつ、もがくように、ラリサへと近づいてくる泥の亡霊たち。彼らがラリサを包む光の障壁に触れた瞬間、泥は乾き始め、ぽろぽろと崩れ落ちていった。
乾いた泥が土埃となって舞うなか、ラリサに次々と近づいた者たちは、ほとんど彼女の体に手が届きそうなほどの距離まで来ると、ある者は仄かに光を帯びた人の姿へと、またある者は人の形を保ちながらも、黒き闇に蝕まれた部分を残す姿へと変化していった。その闇に侵された痕は、炭のようにぽろぽろと崩れて足元に落ちていった。
「……温かい……」
「ありがとう……」
「……感謝します……」
か細くつぶやくその声を残し、彼らは光の粒に包まれ、空へと吸い込まれるようにして消えていった。