8. 沼地の亡霊王(1)
沼地をさまよい始めて13日目の夜。
クラレンス一行は、微高地の乾いた地面を見つけ、今夜はそこで野営しようとしていた。夜明けからしとしとと降っていた雨は、夕方には止んだものの、空にはまだ厚い雲が立ち込めており、月明かりさえもない暗い夜だった。
ラリサは、濡れた服と靴を焚き火で乾かしながら、憂うつなため息をついた。ぬかるんだ沼地を、雨の中歩き回ったせいで、靴も服も泥まみれになり、髪も洗えずにべたついていた。
シャルの鎧はすでに輝きを失い、すっかり汚れてしまっており、ザヴィクに至っては、ぼさぼさの髭とこけた頬で、今にも乞食の鉢でも差し出しそうな惨めな格好だった。
ただ一人、クラレンスだけが、今拭き上げられたばかりかのように、ぴかぴかと清潔そのものだった。
(こっちはこのザマなのに……。ここまで引っ張ってきた本人だけピカピカなんて、不公平だわ)
なんだか理不尽に感じつつ、服についた泥を払い落としていたその時。ふいに、背筋がぞくりとするような悪寒が走った。
その直後、クラレンスが低い声で仲間たちに警告を発した。
「何か……悪しきものがこっちへ向かってきている。気づかれないよう、準備して」
ラリサは緊張して生唾を飲み込み、あわてて靴を履いた。
クラレンスは鎧に尋ねた。
(どんなヤツか分かる?)
— 『沼地の亡霊王』だ。魔獣というよりは、むしろ悪霊に近い存在さ。ふつうは混沌の地の奥でしか現れないが、何かの拍子でここまで流れてきたのだろう。
(そいつが、今までこの沼で人を襲ってきたってこと?)
— ああ。人間を生きたまま飲み込み、その力と魂を吸収して亡霊に変え、自らの力の源としている、そんなヤツだ。
その間にも、漆黒の闇の中から、不吉で不快な気配がじわじわとこちらに近づいていた。やがて、どろどろの黒い塊が、正体不明の巨大な影となって、ザヴィクの背後から襲いかかろうとした。
とたん、淡く金色に輝く結界のようなものが展開され、怪物の動きを防いだ。それと同時に、クラレンスが勢いよく立ち上がり、怪物に向かって真紅の大剣を大きく振り下ろした。いつの間にか、その大剣はまばゆく光を放っていた。
大剣が切り裂いた跡に、黒い泥の塊が乾き、ぱきぱきと音を立てて崩れ落ちる。
敵の正体を目の当たりにしたラリサは、悲鳴を上げそうになるほど驚愕した。それは、恐ろしい気配を放つ黒い不定形の泥の塊で、無数の真っ赤な目玉がぎょろりと光っていたのだった。
「な、なにあれ……!?気持ち悪い!」
ラリサは身震いしながら叫んだ。
クラレンスは黄金の盾を召喚し、ザヴィクとラバの前に展開して守りを固めると、迷うことなく怪物へと突進した。シャルも盾とメイスを構えて、すぐにクラレンスに合流した。
怪物の体から、どす黒い霧のようなものが立ち上り、彼らに覆いかぶさるように迫ってきた。しかし、クラレンスの大剣が燃えるような火花を散らしてその霧を切り裂くと、黒赤い霧は力を失ったように四散した。
「ラリサ!毒の霧だ!加護を頼む!」
クラレンスの声に、ラリサははっと我に返り、仲間に毒耐性・体力強化・精神強化の加護を一気にかけた。
怪物は周囲の泥を吸収して巨大な塊となり、クラレンスを呑み込もうと迫ってきた。だが、クラレンスは一歩も引かず、真紅の大剣でその体を真っ二つに裂いた。
大剣に触れた部分は一瞬で水分を奪われ、ぼろぼろの乾いた土の塊に変わった。そこへシャルがメイスを振り下ろし、乾ききった泥を粉々に砕いた。
自身の攻撃がまるで通じなかったことに動揺したのか、怪物は音もなく後退し、ぬるりと沼地を滑るようにして遠ざかり始めた。
鎧がクラレンスに問いかける。
― 我らとヤツの属性が対極なのは助かるが、正直、お前のレベルではまだ分が悪い。しかも今は夜、ヤツの力が最も強まる時間帯だ。厳しい戦いになるぞ。
どうする? 今は引き下がって、ギルドに報告して出直すか?
(今ここで逃がしたら、私たちの前には、もう二度と姿を現さないかもしれない。そうなれば、また誰かが犠牲になる。今、ここで仕留める!手を貸して!)
不思議なことに、鎧はすぐに応じた。
― よし、ならば行くぞ。
「ヤツを倒す!行こう!」
クラレンスが叫び、先頭に立って駆け出した。シャルとザヴィクも、決意に満ちた表情でその後に続いた。
月明かりすらない漆黒の沼地を、クラレンスがまっすぐに走っていく。その手の大剣は炎をまとうように輝き、鎧からも淡い光が漂っていた。闇を裂いて進むクラレンスだけが、あたかも光そのものであるかのようだった。
その後ろをシャルが追い、さらにラリサも覚悟を決めてその後を追った。ザヴィクはラリサの背後に位置取り、構えたクロスボウで周囲を警戒している。黄金の盾は、ラリサとザヴィクを守るかのように一緒に動いていた。
クラレンスが通った場所だけ、なぜか泥が乾いて足を取られずに進める状態だった。それでも、闇と静寂に支配されたこの沼地は、それだけで恐怖の空間だった。
ラリサは思わず振り返った。焚き火のそば、ラバがぽつんと一頭取り残されていた。クラレンスが張った薄い黄金の結界が、ぼんやりと光を放っている。怯えたラバの瞳に映る不安が、まるで自分の心そのもののように感じられ、ラリサは唇を噛み締めた。
「ご心配には及びません。クラレンス様が、必ず奴を討たれます」
ザヴィクが落ち着いた声で言った。
一切の疑念も動揺も見せぬその態度を見て、ラリサは気を引き締めた。
(今はこうしている場合じゃない。クラレンスを、みんなを助けなくちゃ!)
そこから、怪物とクラレンスの追撃戦が始まった。怪物はクラレンスを避けながら沼地の中を転々と移動し、隙を見ては逆襲してきた。
ある瞬間、沼の怪物は突如として、地面を這う巨大な巨人の姿に変わり、クラレンスへと襲いかかった。クラレンスは一歩も引かず、紅い大剣で巨人の上半身を真っ二つに切り裂いた。乾いた泥が崩れると、すかさずシャルがメイスを振るって砕き散らす。
その後も、沼の怪物は、巨大なウナギのような姿となり、尾でクラレンスを締め上げて呑み込もうとしたり、あらゆるものを吸い込む強力な沼を作り出して、クラレンスを引きずり込もうとした。
それもクラレンスには通じなかった。クラレンスが力強く地を踏み鳴らすと、彼の足元を中心に地面が固まり、沼地は一瞬で堅固な地盤へと変化したのだ。
激しい追跡の末、沼地の亡霊王は不気味な岩の洞窟へとずるりと滑り込み、姿を隠した。
後方からシャルとクラレンスを追いながら、体力回復・強化・毒の浄化などで支援していたラリサは、大きく開かれた洞窟の入り口を見た瞬間、直感した。
(罠だわ……!)
戦いに詳しくないラリサの目から見ても、それは明らかな罠だった。閉ざされた空間で、自由自在に姿を変える怪物と対峙するというのは、あまりにも不利すぎる。
「クラレンス、そこは罠よ……!」
大声で引き止めようとしたが、ラリサの言葉が終わるより早く、クラレンスはすでに洞窟の中へと入ってしまっていた。
「分かっている。でも、ヤツを仕留めるには行くしかない」
そう言って、シャルもクラレンスの後を追った。
(分かってて、なんで行くのよ……!)
心の中でそう叫びつつ、ラリサもザヴィクとともに、結局洞窟の中へと足を踏み入れるしかなかった。