3.連れ
ただ前へ進むことだけを考えて、一歩、また一歩と踏み出していった果てに、日暮れには村を離れ、小さな森へと続く道に入っていた。
ふと、後ろから名前を呼ぶ声が聞こえた。
「クラレンスお嬢様?」
クラレンスは驚いてぱっと振り返った。
年配の男がラバを一頭連れて立っていた。執事のザヴィクだった。
「やはり、クラレンスお嬢様でいらっしゃいますね?」
ザヴィクは震える声でそう言うと、近づいてきた。
「じいが……どうしてここに?」
男の声でクラレンスがそう言うと、ザヴィクは一瞬立ち止まった。
「お嬢様、そのお声は……?」
「しばらくは、この鎧の力を借りて、声や話し方を変えます。本来の声では、この姿と釣り合いが取れませんから」
クラレンス自身も、声だけでなく、言葉遣いや話す内容までも変わってしまうことに戸惑っていた。
(なにこれ? なんで勝手にしゃべって……)
― 最低限の品格維持のためだ。お前のままにしておけば、中身の足りない未熟な豆粒だと、即座に見抜かれる。
クラレンスは呆れかえって、しばらく言葉を失った。これでは、自分が鎧を着ているのではなく、鎧の中に閉じ込められているようなものではないか。
意外で信じがたいことに、ザヴィクはすぐに納得した様子で、皺だらけの顔いっぱいに微笑みを浮かべた。
「なるほど……聖なる鎧のご加護なのですね」
半ば諦めの気持ちで、クラレンスはザヴィクに問いかけた。
「どうして私だと分かったのですか?」
「歩き方がまるで……お嬢様が初めて歩き始めた頃と、そっくりだったのです」
クラレンスは再び絶句し、鎧は楽しげに笑った。
― どうりでよたよた歩いてると思ったら、赤子のよちよち歩きだったとはな?
ザヴィクは感極まった様子で、涙ぐみながらクラレンスの前にひざまずいた。
「この目で太陽の勇者様を拝見できるとは……なんという光栄でしょうか! 一時でも神聖なる血筋を疑った不敬を、どうかお許しくださいませ!」
クラレンスは慌ててザヴィクを止めようとしたが、心とは裏腹に、別の言葉が口をついて出た。
「お立ちください。忠実なる者として誓約を守り、代々我が家に仕えてくれたその忠誠、常に感謝しております」
(なにそれ? なんでこんなに気取ってるの?)
― この話し方のどこがいけない? 神意を継ぐ者になろうとする者が、その口調と風貌でどうする。品格はどこへやった?
(品格ねえ……私には暴言ばっかり吐いておいて、外では上品ぶって。これぞ偽善じゃない?)
― なに? 偽善だと? この豆粒が……
クラレンスがそんな内なる闘いを繰り広げていることなど露知らず、ザヴィクは感激の涙をぬぐった。
「そのようなお言葉をいただけるとは、恐れ入ります……」
クラレンスの抗議など意に介さず、鎧主導の気取った振る舞いはなおも続いていた。
「もし、私をお探しになったのでしたら……申し訳ありませんが、今は屋敷へ戻るつもりはありません。
当初の計画通り〈混沌の地〉へ向かい、修行を積んで自らの運命を切り開こうと思っています」
「実は、そのようにおっしゃるのではないかと思いまして。準備を整えて参りました。旦那様にも、お手紙を残してきてございます」
ザヴィクは荷を積んだラバを指さした。
「どうか、お供させてください。若い頃、しばし〈混沌の地〉で冒険者として活動していたこともありますので、微力ながらお役に立てるかと思います」
その言葉を聞いた瞬間、クラレンスは思わず、ザヴィクの手をぎゅっと握りしめていた。この口の悪い鎧に振り回されながら、孤独な旅になることを覚悟していたところだったので、ザヴィクが共にいてくれるというのは、あまりにも心強く、嬉しかった。
「ありがとうございます。……お父さんは、大丈夫でしょうか? きっと驚かれたでしょうね」
「はい、いささか取り乱されたようでした。ですが、奥様が一生懸命おなだめになっておられましたので、じきに落ち着かれるでしょう」
心配性で気弱な父が倒れてしまったのではと、内心案じていたが、少し安心できた。
「〈混沌の地〉へ向かうには、まずは境界都市に行かねばなりませんが。この重い鎧を着たままでずっと歩かれるのは、お辛いのでは……」
ザヴィクは言葉を濁しながら、自分が連れてきたラバを見やり、それからクラレンスの足元に目をやった。乾いた地面にもかかわらず、クラレンス―正確には、鎧の足跡が深く刻まれており、その重量を物語っていた。
不安を覚えたのか、ラバのロシもぱちくりと大きな目を動かして様子を伺っている。
クラレンスの目にも、今の自分がこのラバに乗ったら、立つどころか、すぐに腰が砕けてしまいそうに映った。
「大丈夫です。これも修行の一環ですから。じいはロシに乗ってください。ご年配ですし、無理はなさらないで」
「は、はい。どうしても辛くなったら、そうさせていただきます」
そのときから、ザヴィクはクラレンスの歩調に合わせてラバを操り、並んで歩き始めた。
― ふむ、最初の仲間ができたか。次は〈天秤の守護者〉に出会う番だな。
〈天秤の守護者〉とは、〈神意を継ぐ者〉を助ける協力者であり、歴代の太陽の勇者には必ず〈天秤の守護者〉が仲間にいた。だが、その存在もこの鎧の正体と同じく外部には秘されており、クラレンスの一族の中だけに伝わる伝承だった。
(〈天秤の守護者〉って、どんな人なの? あらかじめ決まってるわけ?)
― そういうわけではない。太陽の勇者が出会う人々の中に、素質と資質を持つ者がいて、その者が自らの使命を受け入れ、神に誓うことで〈天秤の守護者〉となるのだ。出会えば、たぶんわかるさ。
(出会えば、わかるって……)
クラレンスは疲れた身体を引きずりながらも、これから出会う〈天秤の守護者〉がどんな人物か、いろいろと想像をめぐらせていた。
(最後の〈天秤の守護者〉ダミエルは、強力な魔法使いであり人形使いでもあったらしいし……。私はどんな人に出会うことになるんだろう?)
クラレンスとザヴィクは、夕暮れまで歩き続け、完全に暗くなる前に野営の準備に取りかかった。ザヴィクが荷物から簡易テントを取り出して設営する間、クラレンスはあたりを見回し、焚き火用の乾いた枝を集めようとした。だが、歩くだけでも大変なのに、腰をかがめて枝を拾うという動作は、彼女にとってさらなる試練だった。
(うああ〜、つらっ! こんなんでいつになったら、薪が集まるの? ちょっとだけ鎧を脱いじゃダメ?)
― 今のお前の能力では、我を「着ている」だけで精一杯だ。好き勝手に脱いだり着たりできるものではない。
(えっ、脱げないって? じゃあ、日常生活はどうするの?)
クラレンスは屋敷で見た、歴代の太陽の勇者たちの絵を思い出した。今の自分のように、全身を黄金の鎧で包んだ姿もあったが、鎧を着ずに太陽の剣を持った姿も確かにあった。
中には、鎧どころか短いズボンだけの、ほとんど裸同然の戦士の絵まであった。その絵を見て「ご先祖様って、お金がなくて服が買えなかったの?」と言ったら、父に軽く頭を小突かれたことも思い出した。
― まったく、いちいち説明しないといけないのか、この豆粒は……
鎧はぶつぶつ文句を言いながらも説明を始めた。
― 我は人間が考えるような「着たり脱いだりできる鎧」ではない。
神聖なる権能の顕現であり、〈神意を継ぐ者〉と融合した存在だ。
鎧を着ていない姿というのも、実際には「脱いだ」わけではなく、我が内に潜んでいるだけの状態なのだ。ただし、その境地に達するには、言った通り、お前の力が十分に強くならねばならない。
(今なんとかできないの? ほんとに動きづらいんだけど)
― それは我が決めることではない。お前の意思と能力の問題だ。
クラレンスは、なんとか鎧を脱いで本来の姿に戻ろうと、力を込めてみたが、結果としてひどい頭痛と筋肉痛が増しただけで、何の変化も起きなかった。
クラレンスが鎧の中でもがいている間に、ザヴィクはテントを張り、乾いた木を集めて火を起こし、水まで沸かしていた。
「さあ、召し上がってください」
ザヴィクは温かいお茶と一緒に、パンにチーズと肉の切れ端を挟んだものを差し出した。
クラレンスは焚き火の前に座り、差し出された食事を受け取って、顔の仮面をどうするかと迷った。そのとき、鎧が勝手に仮面の口元に食べ物を近づけた。
不思議なことに、それでちゃんと口の中に食べ物が入ってきた。それまで自覚していなかった空腹が、一気に押し寄せる。急に腹ペコになったクラレンスは、あっという間にパンを二つ平らげ、お茶を飲み干した。
すると今度は、極度の疲労感が一気に押し寄せ、クラレンスは鎧を着たまま、座った姿勢のまま、深い眠りに落ちていった。