2. 旅立ち
意識を取り戻して目を開けたとき、クラレンスは黄金の鎧を身にまとい、赤い剣を手にしたまま、山のふもと―森の外れにある小道の上に立っていた。遥か地平線の向こうでは、夜明けの光が空を染め始めていた。
(まさか……私、本当に〈神意を継ぐ者〉になったの?)
そう思った瞬間、頭の中に皮肉めいた声が響いた。
― なっただぁ? 笑わせるな、未熟な豆粒のくせに。
クラレンスは驚いて周囲を見渡した。
(だ、誰!?)
だが、どこにも人の姿はなかった。
― さっき契約したばかりのことを、もう忘れたわけじゃあるまいな?
昨夜の出来事が頭に蘇る。そして今、語りかけているのが、他ならぬこの〈黄金の鎧そのもの〉であると気づいた。
(な、なんで鎧が喋ってるの!?)
― なんでって、そういうもんだからに決まってんだろ。
(「そういうもん」って……こんなの聞いてないよ! 鎧が喋るなんて……もしかして、これからもこうなの? ずっと頭の中で?)
― 神意を継ぐってのは、つまりそういうことだ。
(でも、鎧が喋るとかの話、一度も聞いたことないけど……)
― 当たり前だ。これは絶対に口にしてはならぬ禁忌。誰にも話したり、教えてはならん。まあ、仮に話そうとしたって、声になって出てきやしないだろうけどな。
クラレンスは混乱した。
頭の中でずっと喋り続ける鎧なんて……。意思を持つ武具の伝説は聞いたことがあるが、まさか〈神意を継ぐ者〉、〈太陽の勇者〉にこんな秘密が隠されていたとは思いもしなかった。
ふと周囲を見渡したクラレンスは、ここが家の下にある村からは少し外れているが、まだそれほど遠くない場所だと気づいた。
(まずはここから離れないと。そろそろ、わたしがいなくなったことに誰かが気づいたかもしれない)
そう思って歩き出そうとして、クラレンスは慌ててしまった。足が、まるで岩をくくりつけたかのように重く、一歩すらまともに動かせなかったのだ。
(うっ……なにこれ!? なんで動かないの!?)
― お前の力量がこの程度なんだから、仕方ないだろうが。
鎧は苛立ったように答えたあと、大きくため息をついた。
― 今まで我とともにした戦士は、みな過酷な修行を積み重ねた、時代最高の猛者であった。まさか、こんな未熟な豆粒が来るとはな……。
あの時、神界に帰っていればよかったのに。最強の戦士とともに神の意志を実践してきたこの我が、今じゃ豆粒の育成係とはな!
(豆粒、豆粒、うるさいな! これからちゃんと育つんだから!)
クラレンスは思わず、むきになって言い返した。
年齢に比して背も体も小柄なのは、彼女にとって、大きなコンプレックスだった。
クラレンスは唇をきゅっと引き結び、歩き始めた。でも、一歩一歩があまりにも重く、ついには再び鎧に問いかけざるを得なかった。
(こんなんじゃ、いつになったら〈混沌の地〉に着くのよ。早く家から遠く離れなきゃいけないのに……)
― お前の器を育てるしかないね。これからは毎日、我の指導のもとでひたすら修行だ。
(分かったよ、修行する。でも今はどうすれば?)
― だから言ったろ? お前の実力が、今はこの程度なんだから、どうにもならんさ。
仕方なくクラレンスは歯を食いしばり、ゆっくりと歩を進めた。どれくらい歩いただろうか。やがて太陽は真上に昇り、影が短くなっていた。
(もう正午……?)
クラレンスはふと足を止め、自分が歩いてきた距離を振り返った。
そのあまりの短さに、思わず大きなため息をついた。と、そのとき。見慣れた顔ぶれがこちらに駆けてくるのが見え、クラレンスは緊張して息を呑んだ。
家の手伝いをしてくれている村の青年2人だった。彼らはクラレンスの前に立ち止まり、息を整えながら声をかけてきた。
「お尋ねします、騎士様。この辺りで子供が一人、通っていくのを見かけませんでしたか?」
「背はこれくらい、やせ型で、目が大きくて可愛らしい顔立ちの子です。年の頃は13、4といったところで……」
彼らの様子から、自分が気づかれていないことを悟ったクラレンスは、声を落ち着かせて口を開いた。
「そのような子供は見かけなかった」
自分の声に、クラレンスは思わず言葉を止めた。それは若い男の落ち着いた声だったのだ。二人が怪訝そうにこちらを見る中、クラレンスはなんとか続けた。
「……可愛らしい娘が、あちらの方へ駆けていったような気はするがな」
そう言って、わざと反対方向を指差した。
青年たちは首を傾げた。
「可愛らしい娘、ですか……?」
やがて彼らは、顔を見合わせてつぶやきあった。
「じゃあ、クラレンスお嬢さんじゃないな」
「こっちじゃないみたいだ。ほかを探そう」
そう言って、クラレンスに一礼し、彼女が指し示したのとは逆方向へと走り去っていった。
クラレンスは呆然と、その背中を見送った。
鎧が愉快そうに笑い出した。
― ぷはっ、『可愛らしい娘』? お前が? はははっ、これは傑作だな! 今のお前を見て、誰が女の子だなんて思うかっての。あ〜腹痛ぇ。
プライドを傷つけられたクラレンスは言い返したかったが、何も言えず、ただ唇を噛みしめた。
18歳の誕生日を過ぎているにもかかわらず、クラレンスは同世代に比べて、背も体つきも小さく、よく13、4歳に見られることが多かった。体型も子供の頃からあまり変わっておらず、女性らしさとは縁遠かった。
クラレンスの父は、成長が少し遅いだけだと彼女を慰めてくれた。だが、弟と妹と比べてみても、自分だけが年齢のわりに小さく、成長が遅れていることは否定できない事実だった。
クラレンス自身も、18歳の誕生日を過ぎた頃から、これでもう成長しないのではないか、という不安を抱き始めていた。
そんな彼女に、鎧が少し口調を和らげて言った。
― お前が本当に〈神意を継ぐ者〉として成長できれば、今よりは大人びた姿を手に入れられるかもな。ま、たゆまぬ修行が前提だが。
(ほんとに? どれくらい修行すれば、そうなれるの?)
― さあね、それはお前次第ってとこかな。
その答えは、どこかあやふやだったが、クラレンスには希望が生まれた。
(うん。がんばって修行するよ)
決意を新たに歩き出そうとしたクラレンスは、ふと自分の声が男のものに変わっていたことを思い出した。
(そういえば、私の声って……どうなってるの?)
― 我を着たまま、お前の本来の声で話したら、どうなると思う?即座に軽く見られて、「あの鎧よこせ」っていう奴らが後を絶たないだろう。
今のお前の腕じゃ、そこらの野盗が2、3人現れただけでおしまいだ。
クラレンスは自分の鎧を見下ろした。
眩い黄金と清らかな銀が交じり合う、美しく輝く鎧。燃え立つ炎のように鮮烈な赤を放つ巨大な剣。手に装着されたガントレットの一つを見ても、その緻密で美しい造形は、武具に詳しくないクラレンスの目にも、一目で価値あるものと分かるほどだった。
こんな神具を、体の小さな少女が持っていると知られたら―その後に何が起こるかなど、考えるまでもない。剣の手ほどきは受けているが、正式な実戦も、命を懸けた戦いも、今まで一度も経験していない。
クラレンスは、今の自分には、この家宝である鎧を守る力などないことを、思い知らされた。
自分の意志で、この運命を切り開こうと家を飛び出した。父も祖父も、先祖たちが代々探し求めてきた太陽の鎧。それをこんな形で失うわけにはいかない。
(私が選んだ道だ。この運命、私のものとして形にしなきゃ)
クラレンスは覚悟を決め、再び歩き出した。とにかく今は、少しずつでも前に進まなければならない。
近くの村に差しかかると、ゆっくりと歩くクラレンスの様子を見て、「どこか悪いのか?」と心配する人々もいた。クラレンスはただ「修行中です」とだけ答えて歩き続けた。疲れや空腹があってもおかしくない状況なのに、なぜか不思議とそのようなことは感じなかった。