17. 思いがけない試練
薬草採集と狩りを兼ねて4日間過ごしたクラレンス一行は、この日を休息日にしていた。夜がまだ明けきらない早朝、クラレンスは鎧にせっつかれて、いやいやながら目を覚ました。
(あとちょっとだけ、寝ちゃダメ?せっかくの休みなんだし……)
無理だとわかっていながらも、あまりの眠さに甘えてみたが、案の定、返ってきたのは罵声だった。
― 毎日鍛えても足りないくらいなのに、数日ごときで怠けようって。さっさと動かんか!
結局、クラレンスは半ば強制的に起き上がらされ、部屋を出た。夢うつつのまま歩いていたクラレンスは、いつもの用心深さを忘れ、無意識に階段の中央を踏んでしまった。数歩も進まないうちに、バキッという嫌な音がして、体が下へと落ちた。
崩れる音と何かが割れるような大きな衝撃音に驚いた人々が部屋から飛び出してくると、2階から1階へと繋がっていた階段は無残に崩れ落ちており、その下には黄金の騎士が尻もちをついていた。
「ご無事ですか!?」
ザヴィクが下を覗き込み、心配そうに声をかけた。
「え、ええ……大丈夫です」
クラレンスはぼんやりと答えた。眠気は完全に吹き飛んだが、それ以上に呆然とした気持ちが込み上げてきた。
「な、なにこれ……?」
目をこすりながら出てきたラリサが、口をぽかんと開けた。階段が全部壊れているだけでなく、クラレンスが落ちた床までもが崩れていたのだ。
「これ……どうやって降りればいいの?」
シャルは、ほとんど原形を留めていない階段を呆然と見上げた。
*** ***
「はあ……大損だよ。宿が古かったのもあったのに、修理代から一銭もまけてくれなかったし。今回の出費はかなり痛いから、しばらくは緊縮財政でいくしかないね……」
ラリサは決意に満ちた表情でそう言った。
階段と床の修理費で、かなりの出費が発生した。2階の客たちはロープでの昇り降りを強いられることになり、クラレンス一行は宿を移るしかなかった。クラレンスがロープでの昇り降りが難しかったのもあるが、それ以上に、本人が恥ずかしさのあまり、もうその宿に居続けることができなかったのだ。
新しく移った宿は、街の貧民が暮らすボロボロの建物の一階にある部屋だった。ただ寝るだけの場所で、最も安価な宿だった。
ラバと荷物を運び終え、クラレンスとシャルを宿に残して、ラリサとザヴィクが食料の買い出しに出かけた。早朝からの騒ぎと宿探しで大忙しだった彼らにとって、これがその日の初めての食事だった。
空腹の中、目の前の食事をじっと見つめていたシャルがラリサに尋ねた。
「これ……なんていう料理?」
「たぶん、シチュー……じゃないかな?」
ラリサの答えにはどこか自信がなかった。
ザヴィクが補足した。
「いろいろ入っていると思っていただければ、いいかと。前の日の残り物とか、その日の材料を適当に煮込んだ……そういう感じのものですね」
「一番安いやつを買ってきただけよ。しばらくは節約しないとね」
ラリサが木製スプーンを手渡すと、シャルはスプーンで一口すくい、そっと匂いを嗅いでからおそるおそる尋ねた。
「……食べても大丈夫、なの?」
この正体不明の料理からは、何とも形容しがたい妙な匂いが漂っていた。
「当たり前でしょ?売ってるんだから、食べられるってことよ」
ラリサはきっぱり言って、たっぷりと口に運んだ。
「思ったより悪くないよ。食べてみて。美味しくはないけど、まずくもないって感じ?」
ラリサに続いて、今回の騒動の元凶であるクラレンスが黙々と食べ始め、ザヴィクに釣られてシャルも口をつけた。何の料理かも、何が入っているかも分からない混ぜ物のような食事は、いろんな材料がとにかく入っている雑炊のようで、ラリサの言う通り美味しくも不味くもない、何とも微妙な味だった。
4人は黙々と食事を済ませ、その日は宿で静かに過ごすことにした。早朝から騒動続きで皆疲れ切っていたのだ。
だが、そのささやかな平穏は長く続かなかった。全員、食あたりを起こしてしまったのである。
クラレンスは腹が絞られるような激痛に襲われ、慌ててトイレに駆け込んだ。普段は鎧を脱げないため、生理現象は鎧が処理してくれていたのだが、今回は様子が違った。
下痢は別だ、と鎧が強く抗議してきたのだ。
― 汚っったねぇな!さっさとトイレ入って片付けろっての!
だが、便所の扉を開けたクラレンスは、足を踏み入れることをためらった。地面に掘られた穴の上に、粗末な板が何枚か渡してあるだけの便所だったのだ。見るからに脆そうなその板は、踏んだらそのまま崩れて穴に落ちそうだった。
(……これ、落ちたら、どうなるの?)
鎧が怒鳴り声をあげた。
― おいコラ、まさか我をクソ溜めに突き落とす気か!? さっさと尻に力入れろ!
(えっ、なに言ってんの?)
― 重さを軽くする唯一の方法だよ、ったく!
(お腹痛すぎて、無理なんだけど……)
そう言いかけたところで、クラレンスはもう我慢できなくなり、思わずトイレに飛び込んだ。
バキィッ――! 板が割れそうな音が響いた。このまま汚物の中へ落ちるのかと思ったその瞬間―クラレンスの体はしゃがんだ姿勢のまま宙に浮いていた。激怒した鎧が絶叫する。
― うわああ!汚えっ!このクソ豆! マジで正気か!? 我をクソまみれにする気か!? ガキの世話もウンザリなのに、下痢の尻拭きまでやらせるつもり!? 尻に! 力を入れろってんの!
(知らない、もう! お腹痛いのぉぉ〜!)
腹痛と下痢、全身の筋肉痛に加え、頭の中で怒鳴り散らす鎧の声。クラレンスはパニックを起こし、叫びながら泣き出してしまった。もちろん、その声が鎧の外に漏れることはなかったが。
鎧を着たまましゃがみ、空中に浮いた状態で過ごすという奇妙な時間がしばらく続いた。
コツコツコツ。慌てたようなノックの音に、クラレンスは我に返った。
「……クラレンス……もう……我慢できないよぉ……」
シャルのうめき混じりの声が聞こえてきた。泣き顔の仮面をかぶったシャルが便所の扉をつかみ、傍らでラリサが彼女の身体を支えながら回復術をかけていた。ラリサ自身も万全ではなかったが、シャルがその場で粗相をしないよう、必死に支えていた。
クラレンスがトイレから出ると、シャルが慌てて中へ飛び込んだ。
ラリサは自分にも回復術をかけながら、ぐったりとしていた。
「ラリサ、大丈夫……?」
ラリサは青ざめた顔で首を横に振った。
「……とりあえず、爆発寸前ってやつを……どうにか抑えてるだけ」
「ジイは?」
「わかんない。どっか別のトイレに駆け込んだんじゃないかな」
クラレンスはふらふらと部屋に戻り、片隅に倒れ込んだ。
それからというもの、4人はトイレと部屋をひたすら往復することになった。ラリサは腹痛にうめきながらも、どうにか身体を起こし、水を沸かして薬草を煎じ、回復術師らしく仲間の看病に励んだ。
ろくに食べてもいないのに、それから夜通しトイレを行き来していた4人は、夜明け頃になって、ようやく少しまとまった睡眠を取ることができた。そして翌日の午後になって、全員が目を覚ました。
シャルはまだ体調が優れず、くすんだ色の仮面をつけたまま、硬くて古びたベッドに横になって起き上がれずにいた。ザヴィクも「大丈夫だ」と口では言うものの、痩せこけた顔で体を丸めて寝転んでいた。
「ザヴィクおじさんの言うことを聞けばよかったです。私が無理にあれを買おうって言い張ったせいで、みんながこんな目に……本当に、ごめんなさい」
一番安い食べ物を押し通した張本人であるラリサは、ザヴィクの看病をしながら申し訳なさそうに言った。
「売り物として並んでいた以上、食べられないものではないでしょう。私たちが慣れていなかっただけですよ」
ラリサは深くため息をついた。
「自分では贅沢に育ったつもりはなかったんですけど……意外と、ぬくぬく育ったのですね」
クラレンスといえば、なんとか起き上がって座ってはいたが、便所に行くたびに中で体を浮かせる羽目になっていたせいで、すっかり体力を消耗し、ぐったりしていた。
その日の午後、どこで聞きつけたのか、初心者の冒険者や子どもたちが一人、また一人と宿を訪れた。家で煮たおかゆを持ってきてくれた者もいれば、パンや野菜、蒸したジャガイモを差し入れてくれた子どももいた。中には、お金を出し合って買ったのだと言って、卵を数個届けてくれる者たちもいた。
「騎士さま、早く元気になってください!」
「たいしたものじゃないけど、受け取ってください」
人々の励ましと優しさは、クラレンスにとって何よりの力となった。
「ありがとう。すぐに元気になるよ」
口先だけではなく、不思議と体の内側から、ぽかぽかとした温かさが広がっていくような気がした。