1.太陽の鎧
幼なじみに求婚されてしまった。プロポーズの言葉は、「僕が一生懸命働いて、君を一生楽に幸せにしてみせる」というものだった。父は喜んで結婚に賛成したが、それはクラレンスが望む生き方ではなかった。彼女は世界へ出て、冒険をし、もっと大きな夢を追いかけたかった。
父が無理に結婚を押しつけるわけではない。だが、クラレンスが夢を追って冒険者になることだけは、決して許そうとしなかった。このまま家にいれば、いずれは夢を諦め、父や祖父、曾祖父たちのように、この地にとどまり、落ち着いて生きていくことになるのは目に見えていた。だからこそ、彼女は家出を決意した。
皆が深い眠りに落ちた深夜、ベッドからそっと起き上がったクラレンスは、静かに扉を開けて廊下を覗いた。闇に包まれた廊下は、しんと静まり返っていた。
そっと扉を閉めると、ベッドの下に隠しておいた服を取り出し、手早く着替えた。そして、寝間着と他の衣類をくるくると巻いてベッドに置き、その上から布団をかけて、あたかも誰かが眠っているように見せかけた。枕の下には、あらかじめ書いておいた手紙を忍ばせた。
窓を開けると、明るい月の光が部屋いっぱいに差し込んできた。晴れ渡った夜空には、満月が一つ、銀色の光で世界を照らしていた。
窓枠に乗ったクラレンスは、リスのように身を躍らせ、向かいの木の枝へと飛び移った。そして慣れた動きで木を伝って静かに地面へと降りた。
家の中は、依然として静寂に包まれていた。裏手に広がる森へ入る前に、クラレンスは両親のいる部屋の窓を一度振り返った。
(ごめんなさい。きっと立派な冒険者になって、自分の力で堂々とした姿を見せてみせます)
心の中でそう誓うと、クラレンスは暗く深い森の中へと足を踏み入れた。
大きく生い茂る木々に覆われた森の中は、月明かりさえまともに差し込まず、薄暗かった。だが、クラレンスは、少しのためらいも見せず、昼間のように慣れた足取りで山道を歩いていった。彼女が足を止めたのは、巨大な一本の大樹の前だった。地面に浮き出た根は、木の幹ほどに太く、その幅は目測すら難しいほどだった。
そこでクラレンスは、木の根の間に隠しておいた荷物を取り出した。家を抜け出すとき、すぐに出発できるよう、あらかじめここに荷物を隠しておいたのだ。亡き実母の形見である剣と、少しばかりの金、着替え、非常食、一冊の分厚い本、そして大切にしている絵が収められた筒が、すべての荷物だった。
荷を背負ったクラレンスは、大樹の根に手を当て、別れの挨拶をした。
「今までありがとう。当分ここには来られないと思う。お父さんとお母さん、弟と妹のこと、よろしくね」
そう言って背を向けようとしたとき、思いがけないことが起こった。
木の根が自らの意思を持つかのように動き、隙間を広げていったのだ。その間からは、かなり大きな入口のようなものが姿を現した。中からは、かすかな光が洩れ出していた。
クラレンスは目を見開いて、その光景を見つめた。
この巨大で神聖な樹は、この山と泉、そしてクラレンスの一族を守ってくれていると信じられてきた。実際、この木は150年ほど前、中央の悪徳貴族が山と泉を奪おうとした暴挙から、クラレンスの祖先を守ってくれたと語り継がれている。木の内部にある秘密の空間に、一族を匿ってくれたという伝承があった。
(まさか家に何か……?)
そんな不安がよぎり、辺りを見回したが、森の中はただ静まり返っているだけだった。
(家に異変があったわけじゃないのに、どうして木がこんなことを……?)
呆然と立ち尽くすクラレンスに、木の根がまるで「さあ、入っておいで」とでも言うかのように、ちょこんちょこんと動いた。
「……入れってこと?」
木の根だけでなく、樹全体がさらさらと葉を揺らし、まるで応えるようだった。
クラレンスは半信半疑のまま、根の間にできた空間の中へと足を踏み入れた。彼女が中に入ると、木の根は音もなく動いて、何事もなかったかのように閉じられた。
木の内部には、まばゆい光に包まれた広々とした空間が広がっていた。そしてその中心には、輝く鎧を纏った存在が立っていた。全身を黄金の鎧で覆い、兜をかぶり、顔には仮面をつけている。その両手は、逆三角形の形をした真紅の大剣を地面につけた状態で、しっかりと握っていた。
「まさか……黄金の鎧……?」
クラレンスは目を見開いてその姿を見つめた。
幼い頃から父によって幾度となく聞かされてきた、一族に伝わる秘められた伝説。クラレンスの家に代々受け継がれてきたという秘宝─それに選ばれし者は〈神意を継ぐ者〉として、その代の家長となる。
兜に刻まれた太陽神パラギスの紋章、そして大剣の刀身に流れる陽光のような模様のため、人々はそれを〈太陽の勇者〉と呼んだ。
だが、最後に太陽の勇者が世に現れたのは、ほぼ400年前のこと。クラレンスの父をはじめ、一族の者たちは、代々これを探し求めてきたが、誰一人として見つけられなかった。
「お父さんは……これが神木のもっと上の方にあると信じてたのに」
クラレンスがそう呟いたそのとき、どこからか中性的な声が響いた。
― はぁ……なんだ? この豆粒は……。
まさかと思い、鎧の騎士を見やると、ちょうど騎士も彼女の方へと顔を向けた。再び、声が空間に響き渡る。
― 神聖なる血を引く者、我らが主の後裔、クラレンスよ。
いま、汝の前にはふたつの道がある。
ひとつは、いまの求婚を受け入れて結婚する道。そうすれば、汝は安らかで穏やかな人生を送り、静かにその生涯を終えるであろう。
もうひとつは、神の意志を継ぐ運命を受け入れる道。それは栄光の光の道であると同時に、困難と苦難に満ちた道でもある。汝は生涯にわたり、絶え間ない修練と数多の試練に立ち向かうことになる。
だがその果てに、汝は尊敬と哀惜の中で、平穏なる終焉を迎えるであろう。
汝はいずれの道を選ぶのか?
クラレンスは、迷うことなく答えた。
「神の意志に従います」
鎧の騎士が言った。
― 慎重に考えよ。神の意志を継ぐという誓いは、最も重き誓約である。人と人との間で交わす軽い約束のように考えてはならぬ。この誓いを破る時には、相応の重き代償を払うことになる。
クラレンスは、その言葉の意味をよく知っていた。
約400前の先祖、最後の太陽の勇者は、自らこの誓いを破り、その生涯において、それにふさわしい報いとも言える出来事を経験したと伝えられている。
その後、この聖なる武具が姿を現さなくなったのは、彼が誓いを破ったことへの神の怒りかもしれないとも言われていた。それほどまでに、この選択は重大な意味を持つものだった。
しかしクラレンスは、すでに最初の運命を拒んでいた。彼女が今日家を出たのは、安穏な人生を捨て、自らの意志で運命を切り開くためだった。
クラレンスは改めて、毅然とした口調で答えた。
「答えは変わりません。神の意志を継ぎ、従います」
だが、鎧の騎士はそれを喜ぶことなく、わずかにうつむき、小さく嘆くように呟いた。
― 神よ……なぜ、我らにこのような試練を……。
しばしの沈黙の後、顔を上げた鎧の騎士が言った。
― よかろう。そなたは今より、〈神意を継ぐ者〉となった。
その言葉が終わると同時に、鎧は瞬く間に解体され、光の粒となってクラレンスの方へと舞い、生きているかのように自らの意志で彼女の体に装着されていった。
その瞬間、クラレンスの脳内に無数の記憶と経験が一斉に流れ込んだ。目まぐるしく移り変わる幻影の中で、最後に彼女が見たのは─眩しい光の中で、あたたかく微笑む、神聖で美しい一人の女性の顔だった。