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零、白、クロ

作者: 雪村 庵

はじめまして。雪村庵です。

初の作品投稿となります。


この作品は、1年ほど前に書き上げてはいたものの出す場所がなく、お蔵入り一歩手前だったものです。

多少の加筆、修正を加えたものを投稿させて頂きます。


これから読んでくださる皆様がどのような感想を持ってこの作品を読み終えるのか、楽しみでなりません。

皆様が楽しんでくだされば、幸いです。


それでは、どうぞお楽しみください。



 カーテンの閉まった、六畳の光のないこの部屋。ベッドに体を預け、今日も俺は一人で世界から逃げている。昼間に外を出歩かなくなってから、もう随分経った気がする。

 今日も今日とて惰眠を謳歌し、気づけば外は仄暗くなっていた。もうすぐ闇が迎えに来るらしい。

 空腹を感じ、俺はキッチンの棚から適当にカップラーメンを探し出す。そろそろ買いためていた食料も底をつきそうだった。また買いに行かないといけないのか、と俺の心はまた沈んだ。

 今度はいつ買いに行こうか、と考えているうちに三分が経った。猫舌な俺にとってはまだ熱くて食べづらいが、仕方ない。空腹に勝てるものなど、この世界には存在しないだろう。と、脳内で語りながら俺は勢いよく麺を啜った。想像通り、絵に描いたように見事にむせた。

 最低な生活の質に、最低な生き方。自分でも、こんな生活をする子供を両親が望んでいたとは到底思えない。わかっている。

 それでも、天涯孤独になったあの日から、俺はこの世界の全てを諦めた。この世界に命を残しておくこと以外の、全てを。

 もはや今では、それすらも諦めかけているけど。

 食事を終え、惰性で風呂に入り、またベッドへと戻ってきた。今日も、堕落した一日だった。

 そして今日もまた、いつもと同じ自問自答を繰り返す。

 どうして、俺みたいな奴だけが生き延びてしまったんだ。

 俺には、家族がいたはずだ。

 一年前のある春の日。俺は、ずっと行きたかったクラシックコンサートに行くため、一人で一泊二日の旅行に出かけていた。コンサートが終わった次の日、何も知らない俺が家に帰ると、家の前には大量の人、人、人。状況を理解できない俺に、ドラマの世界の人……もとい、警官が話しかけてきた。

「君、この家の子で合ってるよね?」

 訳もわからず頷くと、その警官は俺に事情を話し始めた。今日の朝方、俺の家から返り血を浴びた男が出てきたのを近所の人が見つけ、通報したらしい。まもなく駆けつけた警察に、犯人は逮捕された、と警官は教えてくれた。

 犯人の名前を聞いた。平安時代の貴族のような名前、という印象だったが、俺の知らない名前だった。誰かも知らない人に、俺の家族は殺されたのだ。

 家族がいなくなったあの日、俺の人生は終わったも同然だった。

「とりあえずあの家には住めないから、適当にアパート借りといたよ。そこ住んでくれればいいから」と言われて与えられた家なので、文句は言いたくない。が、このアパートはとても壁が薄い。薄すぎる。隣の部屋の些細な物音さえ、すぐに聞こえる家だ。音に敏感な俺には辛い。が、この家がなければ俺は住む場所すらないので、我慢して住んでいる。一年もすれば、嫌でも慣れるものだった。

考え事をしていると眠れなくなる。隣の家からは何も聞こえない。普段は、深夜になっても何らかの物音がしている部屋なのに、今日は珍しい。何か起きるんじゃないのか。

 ――そのとき。

 バリッという不気味な音が、俺の耳に飛び込んできた。反射的に動けなくなった俺の目の前で、壁を突き破ってきた『それ』は、すぐに姿を消す。が、壁に開いた穴までは消えてくれなかった。

向こう側から視線を感じる。やめろ、俺のテリトリーにこれ以上侵入するな。

そんな俺の気持ちとは裏腹に、隣人はずっとこっちに顔を向けているような気がする。他人からの視線を久しぶりに感じる。どこか懐かしさを感じる反面、落ち着かなくなっているのも事実だった。

 あのさあ、と俺が声を出すより早く、隣人もとい変人が俺に声を投げてきた。悲しいかな、その声は壁に開いた穴のせいで今までよりもはっきりと聞こえてきた。

「わあ、ごめんなさい……寝てたんです。たぶん、ものすごい勢いで激突しただけなんです。ああ、でも壁の穴どうしよう、どうしましょう?」

「本当どうしてくれるんですか、これ。ただでさえ無いも同然な壁なのに。俺たちのプライバシーとかもう皆無」

 皆無、を言う前に壁の向こうの声がまた話し始めた。

「この穴、塞ごうにもうちには壁塞げるものが無いんですよね……」

 そんなことを言われても、うちにもそんなものはない。

「というか、君、名前なんていうの」

 人が話すのに、名前を知らないなんて話しづらいと思った俺の言葉だった。まだ家族が生きていた頃の明るかった俺が、誰かと話すときに絶対に最初にしていたこと。相手の名前を聞くというその癖を、気付かぬうちに俺はごく自然に行っていた。

「私の名前ですか?」当たり前だ。

「私、真白。……真白です」

 名字が聞こえなかったが、下の名前がわかれば問題ない。

「真白、か。一応名乗っておく、俺は神崎零汰だ」

 こうして自分の名前を名乗り、知らない誰かと話すのは久しぶりだった。自分の名前すら忘れかけるほどに、何も話していなかったことに気づき、ぞっとした。

「零汰くん、これどうしましょう……私はこのままでもいいんだけど、零汰くんは嫌でしょう?」

 もうどうでもいい。壁の穴があろうが無かろうが、俺の生活は変わらないはずだ。それよりも、俺は早くこの会話を終わらせてしまいたかった。

「どうでもいいよ。勝手にしてくれ」

 そう言い残し、俺は布団を被って会話を終わらせた。

 真白との会話は、これきりになる――

 はずだった。


 あれから、俺の生活は平穏を取り戻した。ただひとつ、隣人がうるさくなったことを除いては。

「零汰くん、今日のご飯は何?またカップ麺なんて食べたりしてないだろうね。あ、私ご飯これから作るから零汰くんのも作ろうか?今日のメニューはね、」

「俺の飯は今日もカップラーメン。お前に心配されなくても生き延びれるぶんの食事くらいあるから」

 そう、あの日から真白は毎日のように俺に話しかけてくる。それも、俺が突かれると痛い食事の話ばかり。

「え、でもさあ。毎日カップラーメンじゃ飽きるでしょ。やっぱり私ご飯作るよ、何食べたい?和食がいいのね、わかった、魚でも焼こうかな」

「俺、何も言ってないだろ」

「ね、ご飯。カップラーメンばかりはダメだから。私のご飯美味しいよ?食べなきゃ損すると思うんだけど」

「だから、関係ないだろって」

 でもとだっての繰り返しだ。このままでは埒があかない。

 このままでは俺の時間が奪われる一方だ。

「お前、まだ調理に取りかかってすらないんだろ。早くしないと日が変わるぞ」

 えっ、と真白が小さな悲鳴を上げたので、「じゃあ俺はこれで。美味しいご飯になるといいですね」と声を投げて壁際から離れた。

 俺の生活は、誰にも邪魔されずに死ぬまで続くと思っていた。それなのに、真白がその生活に入り込んできたせいで大きく変わってしまった。本音を言えば、こんな環境今すぐにでも捨てて違う場所へ引っ越したかった。が、何度も言うように俺はこの家を与えてもらった身だ。少しでもわがままを言おうものなら俺は明日からホームレスだろう。

 それでも、真白という変わった隣人のおかげで俺は少し前よりも人間らしい生活をしているように思えた。今はこの世界に居ない家族も、少しは安心してくれているだろうか。

 そんなことを考えていると、もう深夜にもかかわらず眠れなくなってしまった。ベッドに寝転んでいても寝返りを打つだけなので、食料調達も兼ねて外へ出ることにした。

 数か月ぶりに家のドアを開けると、夏だと思っていた世界の風はもう冷たかった。適当に選んだが、パーカーを羽織っていて正解だった。

 近所の二十四時間営業のスーパーへ行き、いつものように保存の利きそうな食べ物、すなわちカップラーメンを片っ端からかごに入れ、ついでに今まで手に取ったことの無かった缶詰と、フリーズドライの味噌汁、電子レンジで温めて食べる米を大量にかごに入れた。

 レジで会計を済ませ、大量のレジ袋に詰め込んだ食べ物と一緒に家へ帰る。買い物に出るといつも、食べ物を買い溜めして、少しずつ消費する。なぜ今まで買ったことのない缶詰や味噌汁、米まで買ってしまったのかはわからなかったが、なんとなく買ってみるか、と手に取った俺がいた。

 家に着くと、荷物を置いてすぐにベッドに向かった。意識を手放すまでに、そう時間はかからなかった。

「……い……ん。れい……ん、零汰くん!」

 真白の声で目が覚めた。気づけば俺は全身にびっしょりと汗をかいていた。

「真白、俺何かしてたか」

「いや、隣の部屋からすごい唸り声したから……」

 うなされていた理由はわからない――いや、思い出せるが言葉にしたくない。

 死んだ家族のことが夢に出てきたのを、俺ははっきりとわかっていた。久しぶりにこんな夢を見た。声が上手く出せず、息がしにくい。全身が焼けるように痛い。なんで俺だけ生き残ったんだ、どうして俺が取り残されたんだ、どうして、どうして……

「ちょっと零汰くん、しっかりして!落ち着いて、ねえ、お願いだから……」

 どんどん弱くなっていく真白の声で、我に返った。凝り固まっていた全身が再び動き出す。

 長い夜だった。形容しがたい後味の悪さが俺を襲う。

「零汰くん、もう大丈夫だよね?」

 壁越しに聞こえる真白の声が、今の俺には痛かった。

「大丈夫、心配するな。もういいから俺に構うな」

 どうして、といつもよりも弱々しくなった真白の声に、

「放っといてくれ」

とだけ伝え、俺は壁の穴に布団を押しつけ、まだ溢れて止まらなくなりそうな言葉を塞き止めた。その後、隣から鼻を啜り上げる音が聞こえたことは、知らないふりをした。

 今日も、眠る気になれなかった。どうしても、眠りたくなかった。

 昨日も外へ出たのに、また外出をしようと思った。

 こうして、久しぶりの二日連続の外出となった。今日は食料の買いだめともいかず、散歩しながら近所のコンビニを探すことにした。

 十数分歩き、やっと見つけたコンビニで、特に意味も無く煙草を買った。現在、満十九歳。ギリギリ未成年だが、アルバイトと思われる若い店員は俺の見た目から成人だと思ったらしい。年齢確認はされなかった。

 無駄に高い煙草を買って、俺は帰路についた。もうさすがに誰も起きていないだろう、アパートの階段をゆっくりと上がった。

 ドアを開け、家へ入る。興味本位で買ってみたが、煙が出ることくらいは知っていた。ベランダの柵に寄りかかり、さっき煙草と一緒に買ったライターを使って火を点ける。初めて吸う煙草は苦くて、正直美味しくなかった。

 でも、慣れれば問題ないだろう。構わず煙草を吸い続けた。そのとき、

「あれあれ、零汰くん。未成年じゃないんですか?」

と最近よく聞く声。数時間前に、俺が突き放した声がいつもよりもクリアに耳へと飛び込んできた。

「お前には関係ないだろ……ってか、俺が未成年ってなんで知ってるんだよ。話したことなかっただろ」

「えっと、まあ……零汰くん、これが女の勘ってやつだよ。聞いてなくてもわかるものなんだよ」

 少々違う気もするが、そこよりも気にするべきところは決まっていた。

「俺、今日言ったよな。放っとけって。」

 また真白を突き放すような物言いをした。あの事件以来俺は人に干渉されることを好まなくなっていたので、真白にいろいろと詮索されるのもあまり好きではなかった。

「一応『隣人』だしね、あんなに辛そうな姿見て気にかけない方が無理あると思わない?」

 そこを突かれると何も言い返せない。俺は咥えていた煙草を離し、煙をゆっくりと吐き出してから、

「あんまり痛いとこ突かないでくれよな」

と、言い返しておいた。

 それにしても、と真白は話し続ける。なんだよ、と言い返す俺に、

「零汰くん、横顔綺麗だね。私、街中でこの顔見かけたら一目惚れしそうだよ。初めて君の顔見た」

 その一言で気が付いた。俺たちは今まで、お互いの声は聴いていた。が、実は二人とも顔を合わせたことがなかった。真白だけが一方的に俺の顔知っているのも気に食わないが、褒められてちょっと気分がいいから許してやろうと思う。

「……ありがとう」

 照れてるの、と聞いてくる真白の声もまた、さっきまでとは声色が全く違った。褒められたり、素直に感謝されたりで動揺してるのはお互い様だ。

 人生初の煙草が短くなったので、俺は火を消した。事件の関係で未だに警官が家に来ることがあるので、迂闊に吸殻を部屋の中に置いておけない。部屋ににおいがつくのも嫌だし、どうせこの先も煙草を吸うならここだろう。無造作に置いてあった小さなバケツに水を張って、その中に吸殻を入れた。そして、

「俺もう戻るから。あんまり長居してそのまま寝たりするなよ、風邪ひくから」

と真白がいるであろう方向へ向かって声を飛ばした。そして、そっと大きな窓を開け、部屋へ入った。窓を閉める前に、おやすみ、と付け加えて。

 真白がおやすみを返してくれたことに気付くと同時に、そっと動かしているはずの窓がガタンと音を立てて閉まった。


 それから数日後、雲はあるものの晴れた日のことだった。朝起きると、珍しく真白の方から壁の穴を塞ごうとしているような物の置き方をされていた。今まではこんなことなかったのに、珍しいこともあるな。明日は雪でも降るかな。

 そう思っていたが、真白の家には誰か訪問者がいるようだった。いつもとは少し違う雰囲気を薄い壁越しに感じた。

 思い立って数日ぶりに郵便受けを確認すると、珍しく封筒が入っていた。送り主を見ると、事件以来俺がお世話になっている警官の名前が刻まれていた。

 部屋に戻り、中身を確認する。封筒の中にはシンプルな便箋が入っていて、俺の家族を殺した犯人に無期懲役が求刑されたという内容のものだった。本当はきちんと話すべきだけど、忙しくて来られないという警官の謝罪も添えられていた。テレビを見ない俺にとって、事件の行く末を確認できるのは警官からの手紙だけだった。あまり報告されて嬉しいものではないが、情報を得られるのはありがたくもあった。

 隣からは、相変わらず訪問者がいる気配を感じる。本当はよくないことだとわかっているが、そっと壁に耳を当ててみた。悪趣味だ、と自分でも思った。

「……で、どうしますか?お父様の裁判。」

「私は、別に控訴なんてしなくてもいいんじゃないかって思ってます」

 どうやら、裁判の話をしているらしい。そういえば、親が逮捕されたとかなんとか言っていたことを思い出した。同時期に判決の話されるなんて、偶然にも程がある。

 そう思いながら、俺は話の続きを聞いていた。

「でも、仮にも父親ですよ?少しでも刑期が短くなれば、また一緒に暮らせるかもしれないのに」

「いや、いいんです。私だけがいい思いしちゃだめでしょう。父の罪で、悲しい思いをしている人がいるのに」

 いったいどんな罪を犯したんだよ、真白の父親は。

「だからいいんです。控訴なんてしなくて。私は父のその刑、受け入れますよ」

 真白も真白だ。犯罪者だとしても父親は父親だ。大切にすればいいのに、そんな俺の思考はおそらく弁護士であろう訪問者の特におかしいところもない一言で完全に停止する。

「じゃあ、それでいいんですね。」

 三条さん。

 聞き覚えがある、どころの話ではなかった。

 俺は、家族を殺した犯人の名前を聞いた時のことを思い出していた。


 ――君の家族を殺したのは、三条匡由という男だ。聞いたことあるか?

 ――いや、ないです。三条なんて人、俺知らないです。

 ――そうか、わかった。ありがとう。


 嘘だと、思いたかった。

 真白が、俺の家族を殺した犯人の子なのか。

 これは、夢じゃないのか。

 真白の苗字は、三条なのか。

 俺の頭にたくさんの疑問が渦を巻いている間に、訪問者は帰ったらしい。さっきまでの雰囲気は消え、日常が帰ってこようとしていた。

 知ってしまったからには、もう逃れられない。

 意を決し、真白に声をかける。

「なあ、真白」

 何もなかったかのように、いつもと同じ真白の声が返ってくる。

「真白、お前の苗字はなんだ、」

 お前、名前、なんていうんだ。

 一瞬、声しか知らない真白が固まった気がした。それから、ゆっくりと動き始めた彼女は答える。

「私は、三条真白。」

「あなたの家族を殺した犯人、三条匡由の、娘」

 ――聞いて、しまった。

「なあ、真白、」

「ごめんね、零汰くん」

「……なんで謝ってるんだよ」

「ずっとだましてて、ごめん」

「騙してたって、なんで」

「零汰くんの家族が殺されたことも、その犯人が私のお父さんだってことも知ってた。それでいて、何も知らないふりしてたの」


 俺の家族を殺した犯人が、真白の親。

 真白に罪はないのに。

 俺は、どうして。

 悲しいとさえ、思っているんだろう。


 理由は、わかっていた。わかっている、つもりにはなっている。

「私、本当はずっと言おうと思ってたの」

 俺は、真白の何を知っていたんだろう。

「でも、せっかく仲良くなれたのに、その関係と生活を壊したくなかった」

 俺は、真白とそんなにいい関係だったんだろうか。

「騙してて、本当にごめんなさい。」

 そんなこと、俺は思ってないのに。

「一回でいいから、ちゃんと顔見て話したかった。少しの時間でいいから、外、出られない?」

 それは、真白からの初めてのわがままとも取れるお願いだった。

「……出ないわけないだろ」

 そう言って、俺は静かに窓を開けてベランダに出た。

 久しぶりに外へ出てきた。空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そして、煙草を咥え、そっと火を点けた。そして、また体を柵に預けた。

「やっぱり、零汰くんの横顔は綺麗だね。何回見ても飽きないや」

 その声のする方を向いてみると、夜が似合うロングヘアの女の子が微笑みながらこっちを見ていた。俺が彼女の顔を見るのは、初めてだった。真白という名前に負けない、色白で純粋そうなその立ち姿に、俺は思わず声を出せなくなった。

「なに、零汰くんもしかして私に惚れちゃった?」

「そんなことねえよ」

「私に惚れても無駄だよ」

「なに、彼氏でもいるの?いつも引きこもってるくせに」

「いるよ……とでも言うと思った?」

 そりゃあ少なくとも俺の想像より可愛いから、なんて口が裂けても言わない。

「ねえ零汰くん」

「なんだよ」

「一瞬でいいからさ、こっちに身乗り出してくれない?」

「何のために……ってか危なくないか、それ」

 いいから早く、と急かす真白に逆らうことのできない俺は、やっぱり彼女には甘いんだと思う。最近、真白以外の人と話してなんていないけど。

 気づいたら、吸っていた煙草は短くなっていた。こちらを見る真白にかっこ悪いところを見せたくなくて、少し雑に火を消した。

 なんだよ、と口を開こうとした、その一瞬の事だった。

 近づいてきた真白が、そっと俺に触れる。

 彼女のあまりの近さにクラクラして動けなくなった俺の首を捕らえた真白が、ぐっと俺を引き寄せる。

 真白の赤くなった顔が近づく。

 ――一瞬で、優しくて、でも少し乱暴で。

「ったく……真白、お前、」

 俺の反応など知らんぷりで、真白はひらりと体を翻して部屋へ戻ろうとする。

 待てよ、と呼び止めた俺に、彼女は一言。

「じゃあね」

 そのまま、俺の目の届かない部屋の中へと戻っていってしまった。

 ――どうして、真白はあんなことを。

 火照った自分の頬に、手を当ててみる。暗闇でもわかるんじゃないかと思うほどに赤くなっているだろう。今までに無いほどに、顔が熱くなっていた。

 糸が切れたように、膝から力が抜けていく。その場に力なく座り込み、ついさっきの真白のことを思い出していた。

 だけど、考えても、あいつが何を考えていたのかはわからなかった。ポケットから滑り落ちた煙草の箱を拾い上げ、もう一度煙草に火を点けた。

 短くなっていく煙草を口元から離し、星のない暗闇を見つめる。

 火がついたままの煙草の先端から揺れ続ける煙と、吐き出した白い息が、静かに混ざって空へと消えていった。

 次の日、俺は真白に昨夜のことの話をしていいのか迷い、思い切って俺から真白に声をかけようと思った。

「真白、話があるんだけど。」

 返事がない。こんな明るい時間に真白がどこかへ出かけているとも思えない。かと言って、まだ寝ているような時間でもない

「真白、聞いてんのか。お前、一人だけ逃げてんじゃねえよ。俺の言い分も聞いてくれって」

 しかし、依然として返事はない。

 何かがおかしいと思いつつ、俺は呼びかけるのをやめた。どうせ、夜になれば彼女は自分から俺に話しかけてくるだろう。少なくとも、今まではいつもそうだった。

 だけど、いつまで経っても、真白が俺に声をかけてくることはなかった。

 毎日呼びかけているが、一度も返事がない。さすがに心配になってきた。

 俺は、いつぶりかわからないくらい久しぶりに、太陽が空にあるうちに家の外へ出た。

 俺の部屋の真下、一階の角部屋のベルを鳴らす。程なくして、俺が訪ねた人――このアパートの大家さんが中から返事をした。

「はい、どちらさま?」

「二階の神崎です」

 俺が名乗った瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。

「神崎くん、どうしたのよ。今まで、こんな時間に外には出てこなかったじゃない」

 その通りだ。俺自身、最後に日中に外出したのがいつなのか思い出せないのだ。大家さんがわからなくても当然である。

「ちょっと、どうしても聞きたいことがあるんですけど」

「なに、どうしたの」

「真白が……三条さんが、何日か前から声かけても返事しないんです。あいつ、今まで毎日のように俺に話しかけてきたのに……」

 俺の話を聞いた大家さんが、目を閉じて小さく頷く。

「神崎くん、よく聞いて。真白ちゃん、おとといここを出て行ったのよ」

 真白がここを出て行った?

「あの……彼女、そんなこと一言も言ってなかったんですけど」

 あの夜だって、真白はいつも通り――だったか?

 俺の気が動転して気づいていなかったが、そういえば真白はあの日「またね」とは言わなかった。今まで一度も使ったことのなかった、じゃあね、という言葉を残しただけだったのだ。

「真白ちゃんから預かってるものあるから、取ってくる。ちょっと待ってて」

 そう言い残して、大家さんは一度部屋へと戻っていった。わりとすぐ戻ってきたと思う。その時間が、長かったのか短かったのかもよくわからないほどに頭が働かなかった。

「はい、これ真白ちゃんから。」

 そう言って手渡されたのは、彼女のように白い封筒だった。なんでも「神崎くんがいつか絶対に取りに来るから、その時まで大家さんに預けておきます。よろしくお願いします」と言って大家さんに渡したらしい。まったく、ポストに入れてくれればいいものを。どこまでも面倒な方を選ぶ女だ、と思った。

 それすら、どうしようもなく愛しくなった。

 ありがとうございます、と告げて俺は自分の部屋へと戻った。そして、さっき大家さんから受け取った封筒を、中身を切らないようにどんな郵便物よりも丁寧に開けた。

 初めて見る真白の字を、俺はゆっくりと読んでいった。

 零汰くんへ、というお決まりのフレーズから始まったそれは、真白の今までの行動や彼女が俺の事をどう思っていたか、など、とにかく長かった。

 便箋三枚分の真白の言葉の最後には、こんなことが書いてあった。


 いろいろ書いたけど、私は零汰くんが本当に好きだったんだ。恋愛とかそういうのも含めて、神崎零汰という人間が好きだった。

 たぶん、壁を突き破ったあの日から、私は零汰くんにとって私はすごくめんどくさい存在だったと思う。それでもちゃんと相手してくれてありがとう。すごく嬉しかった。

 一応、引っ越した先の電話番号書いておきます。遠い親戚のところにいるから、生活とかは気にしないでね。それでは。


 何も言わずに俺の隣からいなくなったくせに「引っ越した先の電話番号書いておきます」って、見つけてほしいのか気づかれたくないのか。本当に、よくわからない人だ。

 あいにく俺の家には通信をできるものがない。固定電話も、あまりに俺が使わなさすぎて埃を被ってしまっていた。

 仕方なく、まだ外は明るいが、俺は公衆電話を探した。十円玉を、大量に持って。

 だけど、探しても探してもまったく公衆電話は見つからない。すれ違う人は皆、スマホを見ながら歩いていた。

 これが時代の流れか、と年齢に合わないことを思いながら、公衆電話を探し続けた。

「やっと見つけた……」

 結局、公衆電話を見つけるまでに二時間半かかった。空はもう赤くなり始めていた。

 最初の十円玉を入れ、真白が書いている電話番号を押した。間違わないように、ゆっくりと。震える手で、受話器を耳に当て、寂しげに響く呼び出し音を聞いていた。

 もうそろそろ諦めて切ろうかな、と思ったところで、ガチャリと音がした。

『はい、九条です』

 この一族は揃いに揃って平安貴族みたいな苗字なのか。

「あの、俺、じゃなくて僕、神崎っていいます。神崎零汰。」

『カンザキ……知らない名前ね、間違い電話ではないでしょうか』

「いや、そちらに用があるんです。真白さんいますよね、三条真白。」

 受話器の向こうで、空気が変わるのを感じた。

『真白に何の用で?あの子の父親の事なら……』

「違います、真白本人に話があるんです」

 そこに、受話器の向こうから俺の聞き慣れた声がした。久しぶりに聞く、真白の声だった。

 おばさんどうしたの、と言う真白に九条さんが「カンザキって男の子があなたに用があるって……」と言い終わらないうちに、真白は受話器を奪い取ったのだろう。半端ではないノイズらしき音の後に、真白の声がした。

『零汰くん、本当にかけてきてくれたんだ。ありがとう』

「それより、なんで何も言わずにいきなり出て行ったんだよ。しかも大家さんに手紙まで預けて。俺の家のポストに入れればよかったんじゃ……」

『それじゃすぐに私が引っ越したってわかるじゃん』

「どっちにしろわかってるんだから同じだろ」

 まあね、と笑いながら答える真白は、何も変わっていなかった。

『ところで零汰くん、今どこで電話してるの』

 公衆電話、と答えると「場所を教えてよ、場所を」と突っ込まれた。

「で、それ聞いてどうするの」

『決まってるじゃん。今からそこに行くんだよ』

「……は?」

 今からここに来る?こんなに少ない情報で、ここに来ることができるのか?

 近くに公園あるでしょ?そこで待っててね、という言葉を残し、真白は電話を切った。

 近くに公園なんて……あった。俺もこのあたりの土地勘がないわけじゃないけど、こんなところに公衆電話や公園があるなんて知らなかった。

 しばらく、公園のベンチで待っていた。すると突然、後ろから目隠しをされた。

「誰だと思う?」

 こんなことをするのは一人しかいない。

「真白だろ、わかってるよ」

 正解、と楽しそうに言いながら俺の顔から手を離した彼女は、俺が知っている姿よりも少し大人びて見えた。薄い黄色のブラウスにダッフルコート、ひざ上の赤いスカートから伸びる今にも折れそうな細い脚は、俺の知っている真白の姿とは違った。

「久しぶりだね、零汰くん」

「なんか、久しぶりだな」

「あの日以来じゃない?顔合わせるの。」

「そうかもな」

 あの日、というとベランダで話した日だろう。そもそも、俺はあの日初めて真白の姿を見たわけだけど。

「なあ、真白」

 どうしたの、と聞く彼女に、俺はあの時聞けなかったことを聞いてみた。

「なんであの日、あんなことしたんだ?」

 しばらくの沈黙が訪れた。

 俯いた真白が、顔を上げた。

 彼女の綺麗な目から、一粒、二粒と涙が落ちる。俺何か悪いこと言ったかな、と謝ろうとしたそのとき、真白が沈黙を破った。

「あの日が、零汰くんに会える最後の日だって思ってたの」

「ならなんで、手紙に電話番号書いたりしたんだよ」

「書くだけなら自由だと思ったから。零汰くんの事だから、きっと私のところに電話なんてかけてこないだろうと思ってた」

 俺の事をどう思うかは自由だが、電話もかけないやつだと思われていたとは。

 ごめんね、と言いながらさらに真白は続けた。

「ああやってでも、無理にでも私は零汰くんの記憶の中に残りたかった。ほら、私のお父さん、犯罪者だから。もう、まともな恋なんてできないと思った。だったら、おそらく最後の好きな人の記憶にくらい、残っていたかった。だから零汰くんの事なんて考えずに行動してしまった。ごめんね、嫌な思いさせて」

「誰が嫌だったなんて言ったんだよ」

 発言した俺自身が驚くほど、無意識に反論していた。真白もまた、少し潤んだ目を丸くしている。

「たしかにびっくりしたけど、誰も嫌だったなんて言ってないだろ。勝手に決めつけるな」

「でも、私が何したかくらいわかってるんだよね?さすがの鈍感な零汰くんでも」

 鈍感な、は余計だ。

 俺は気づいたら、真白の顔をぐっと自分の方へ寄せていた。あの日の彼女のように。

「どうしようもなく好きになってたんだよ、真白のことが」

 真白の目が、さらに丸くなった。

「……零汰くん、それ本当?」

「こんなところで嘘つくほど性格悪くない」

 そうだった。俺は真白が好きだったんだ。

 だから、腹は立ってたけどずっと相手してた。買ったことのなかった食べ物を買ってみた。すぐに塞げそうな壁の穴を塞がずにいた。真白の父親が俺の家族を殺した犯人だって知ったとき、悲しくもなった。真白が引っ越したって知って、今までなら避けていた日中の街を歩き回った。

 全部、真白のためじゃなく、俺のためだったんだ。

「ちょ、ちょっと、泣くなんて零汰くんらしくないって」

 泣いていることにすら気づいていなかった。焦る真白を前に、やっぱりかっこ悪いところなんて見せたくなくて、俺は少し乱暴に流れて止まらない涙を拭いた。

 俺らしさなんて知らないよ、と思いながら真白を見る。彼女の方が、ずっと『真白らしくない』姿に見えた。涙で顔はぐしゃぐしゃだし、せっかくきちんとした格好で来てたのにその服も涙を拭いているせいで濡れている。

「せっかく可愛い恰好してきたのにその顔じゃ台無しですよ、お嬢さん」

 少しふざけた口調でそう言ってみる。

 お嬢さんなんて呼ばれる身分じゃないから、と返された。それもその通りだった。

 ねえ、零汰くん、と真白が俺に話しかける。なんだよ、と真白の方を見ると、さっきまでの泣き顔とは違う、優しい目をした真白が俺を見ていた。

 風に揺られる長い髪が、俺があのベランダで見た、真白の姿に重なった。

「零汰くんも知ってる通り、私の父親はあなたの家族を殺した。だから、私が零汰くんにこれ以上近づく権利はないと思うんだ。だから、会うのは今日で最後にしようと思う。」

 今までありがとう、と真白が言おうとする。

 勝手に一人で終わらせようとしてんじゃねえよ。

 真白が何か言おうとするのを遮り、少し強引にその口を塞ぐ。いつかの、真白のように。

 俺がそっと顔を離すと、ゆでだこみたいに顔を真っ赤にしている真白と目が合った。

「……さっきの私の話、聞いてた?」

「聞いてなきゃこんなことしねえよ」

 真白の親がどうであろうと、真白は真白だ。俺の家族を殺したのが真白の親だろうと、俺にはもう関係がなかった。

 ――なあ、父さん、母さん、姉ちゃんも。

 ――今の俺が信じられるの、もうこの子しかいない気がするんだ。

 ――だから、

 ――俺が選んだ子だから、犯人の子だからなんて言わずに認めて。

 

 気づけば、空はすっかり藍色に染まっていた。

「零汰くん、そろそろ帰らなきゃいけないんだけど……」

 真白が俺にそう言う。その声は、少し寂しそうに聞こえた。

 そうか、と俺は真白に手を差し出す。その手を差し出した方を見てみると、真白がきょとんとした顔で俺を見ていた。

「帰るんだろ?」

「帰るけど、なんで」

 そう聞きながらも真白の声は少し嬉しそうだった。

「女の子一人で帰らせるわけないだろ」

 俺が差し出したままの手に、真白がそっと手を重ねる。華奢で柔らかい、俺のものとは全く違うその手を、壊してしまわないように、優しく握って、俺たちは真白の新しい家へと向かって歩き始めた。


 九条家につくと、俺は手を離して帰ろうとした。しかし真白が俺の手を離そうとしない。

 そのまま、彼女はドアを開けて「ただいま!」と元気よく家の中へと声を放った。

「おかえりなさい……って、真白、後ろの男の子誰よ」

と、電話に出てくれた人が真白に尋ねる。

「この人は神崎零汰くん。私がこの世界で一番好きな人」

 よくもこんな場所で言えるなそれ。聞いてるこっちが恥ずかしくなるわ。

 わかりやすく顔を赤くする俺を見て、九条さんは何も言わずに微笑んでいた。余計に恥ずかしい。すると、

「あなたが電話をくれた神崎くん?」

と、突然俺に話を振ってきた。

 そうですけど、と答えると九条さんは真白と手を繋いでない方の手を取って、俺の腕がちぎれそうな勢いでぶんぶんと振る。少し痛い。

「真白、電話切るなりすぐ服着替えて家飛び出していったから、どんな子なのかと思ってたの。ほら、上がっていって。一緒にご飯食べましょうよ」

 そして、本当に晩ご飯を頂いて、俺は帰路についた。

 ここからアパートまでは、実はそんなに遠くないことも分かった。九条さんが「送ってあげるよ」と言うのを押し切って、俺は一人で帰ることにした。

 それにしても、やっと真白に会えた。俺、今日が一番幸せかもしれない。もしかしてこれフラグってやつなんじゃないのか?このまま俺事故にでも遭って死ぬんじゃ――


 刹那、激しい衝撃に襲われた。

 肌に当たる生温い『何か』が、気持ち悪い。

 あ、俺本当にここで死ぬのか?


 そこから先の記憶は、ない。





















 ……ここは?

 目に飛び込む白い光に気づき、そっと目を開ける。家ではない、どこかにいた。

「零汰くん!」

 聞き慣れた声が耳に入る。

 真白、と声をかけようとして、やっと自分の体がいつもと違うことに気づく。腕には包帯が巻かれ、全身が痛い。俺はいったい何をしていたんだろう・・・・・・

「零汰くん、無事でよかった」

 ――無事で?

「神崎さんが目を覚ましました」

 真白から「目を覚ました」と言われ、俺を見た看護師が、電話のようなものを使って話していた。

 まもなくやってきた医者に、名前、生年月日、今日の日付に至るまで、細かく質問された。その全てに正確に答えきった俺は、医者の質問攻めから解放された。

「なあ、真白。俺、どうなったんだっけ?」

「零汰くん、うちから帰る途中に事故に遭ったんだよ。信号無視した車にはねられたの」

 そうだったのか。どおりで全身痛いわけだ。

「で、隊員さんが零汰くんの持ち物探したら、うちの電話番号が書かれた紙を持ってたから、うちに電話かかってきたんだ」

 よく見れば、真白の向こう側に九条さんもいた。

「……ご迷惑おかけしました」

「いいんだ、零汰くんが無事なら」

 そう言って、真白は近くにあった椅子に座った。俺はさっきの言葉を九条さんに向けて言ったつもりだったのだが。

 真白たちが帰ったのは、それから少し経ってからだった。今日一日で最近の俺の生活の三年分くらいのいろんなことが起きた。

 大家さんの所を訪ね、日中に真白を探しに外出して、必死で公衆電話を探した。やっと見つけた公衆電話で、真白を見つけ出した。真白は、家からすぐに飛び出して俺のもとへ来てくれた。やっと彼女に直接触れられた。

 九条家で、美味しいご飯をごちそうになった。そしてその帰り道で、俺は事故に遭った。

 いろいろと起こりすぎじゃないのか、とツッコミを入れる。誰も反応してくれる人がいないから、自分で渇いた笑いをこぼした。

 それから、疲れ切った体を休めるため、そっと目を閉じた。

零汰くん、と声をかけてくる人は、今日もいなかった。

 次の日には、真白から連絡を受けた大家さんが俺の所へお見舞いに来た。

「真白ちゃんが半端じゃなく焦って来たから私まで焦ったのよ、無事でよかった」

 寿命縮んじゃったじゃない、と笑いながら話す大家さんは、いつもと変わらなかった。病院という閉鎖空間では、このようにいつもと変わらない振る舞いをしてくれる人が必要だ、と思えた。

 また様子見に来るね、と大家さんが帰っていったのと入れ替わるようにして、真白がやってきた。

「零汰くん、ちゃんとご飯食べてる?今もカップラーメン食べてたり」

「いや、ここ病院だから。さすがに健康的な食事いただいてます」

「なら、いいんだけど」

 真白は病院をなんだと思っているのか。

 今日はあまり時間ないんだ、と真白は十分くらいですぐに帰って行った。

 予定あるなら、別に来なくたってよかったのに。

 そんなことを思いながらも、真白の訪問を思いの外喜んでいる自分もいた。

 幸い事故の規模のわりには怪我が軽く、治りも他の人よりも早かった俺は、予定よりも早く退院できることになった。大量の荷物をまとめ、俺はタクシーの前に松葉杖をついて立っていた。

 医者に「ありがとうございました」と伝え、タクシーに乗り込む。行き先を伝え、車独特の振動に揺られた。

 目的地にはわりとすぐに到着した。

 俺の家だった場所だ。

 俺が家族と住んでいたその場所は、今となっては廃墟のようだ。中へ入ってみたい気持ちはあるが、さすがにその勇気は俺にはなかった。

「君は……誰だ?」

 そんな、低くて暗い声が聞こえた。

 その声が向けられた先が俺だと理解するには、少々時間がかかった。声のする方をむくと、俺の知らない男がいた。

「俺の身分なんて知っても意味なんてないでしょう。だいたい俺が誰かを知って何になるんですか」

「僕は君のことをよく知らないが、君は僕のことを知ってるはずだ」

 いや、知らないんですが。という言葉を飲み込み、俺は冷静に振る舞った。

「……神崎、零汰」

 やっぱりそうか、と言った男の正体が、俺にはまだわからなかった。

「僕は三条匡由。君の家族を殺した犯人だ」

「判決出たんじゃなかったんですか」

「ああ、僕はこのまま一生刑務所の中だ。その前に、最後に外の世界を見ておこうと思ってね。まさか君に会えると思ってなかったよ、神崎くん」

 自分が殺した相手の遺族を探していたなんて、なんて悪趣味なやつなんだろう。

「どうして俺を探してたんだよ」

「決まってるじゃないか。一人残されてしまった可哀想な君を、家族のもとへ送ってあげようと思ったからだよ」

 ――このままでは俺の身が危ない。

 そんなことより、と俺は三条に向けた言葉を吐き出した。

「お前はどうして俺の家族を殺したんだ?」

 俺が、あの日からずっと気になっていたこと。

 どうして、俺の家族は殺されなきゃならなかったのか。

 決まってるじゃないか、と三条は笑いながら答えた。

「お金に困っていたんだよ。僕にだって家族がいるのに、会社をクビになってしまったんだ。明日の食事すらまともに食べられるかわからない僕がお金を得る方法なんて、犯罪に手を染めるしかないじゃないか」

「……ってめえ!」

 俺は三条に殴りかかろうとした。しかし、まだ完治していないこの体の動きは、想像よりも遅かった。三条に俺の拳はいとも簡単に捕まえられた。

「こら、そんな動きしちゃ駄目じゃないか。また病院に戻りたいのかい?」

 一度止められたくらいで怯んでしまう俺が情けなかった。それに、こいつに逆らうとどうなるかわからない。

 だけど、俺は諦めてはいけないと思った。家族の、敵を取らなければ。

「ふざけんなよ……俺の家族が殺された理由が金?そんな話許せるかよ!」 

 住宅街の真ん中で、大声で叫ぶ。もしかしたら、通報されるかもしれない。

「逆らうんじゃない、君も殺されたいのか」

 その声は至って冷静だが、三条の手には確かに刃物が握られていた。

「そんなことしたらお前ももう一回裁判沙汰だぜ」

 知らねえよ、と三条が呟く。

 そのまま、刃物を俺に向けてこちらへ勢いよくやってくる。今度こそ死ぬ――

 と思ったそのときだった。

「お父さん何してるの!」

 その声の主は、真白だった。

「真白……どうしてここに……」

 三条は完全に気が動転していた。何しろ、ここには来るはずのない娘がいるのだから。

「これ以上何を傷つける気なのよ、私からこれ以上大事なものを奪わないでよ!」

「真白はこの男が大事なのか?」

 大事だよ、と答えた真白の目は本気だった。

「もう私から何も奪わないで。もう私の……私たちの前に来ないで」

 三条は、「真白までふざけるなよ」と言いながら去って行った。

 ごめんね、と言いながら真白は俺に近づいてきた。「まだ怪我完全には治ってないのにね」と、俺の心配までしながら。

 俺のために来てくれた。自分の親を捨てるような発言をしてまで、俺を助けてくれた。

「俺のために、って言ったら少し図々しいけど……ありがとう」

「どうしたの、いつになく素直だね」

「何を言う、俺はいつも素直だよ」

 それにしても、どうして真白は俺の居場所がわかったのか。

「前にも言ったでしょ、これが女の勘ってやつだよ」

 違う気がするんだけどな、それ。

「ねえ、零汰くん」

「なんだよ」

 零汰くんも、うちで住まない?

 どうして、と言う俺に、真白は、

「おばさんが零汰くんのことすごく気に入ってるの。で、私が零汰くんの今の生活のことや、家族のことを話したの。そしたら、『あの子もうちに連れてきなさい!』って、話聞いてくれないの。だから、零汰くんも」

 ――私と、もう一回人生を始めない?

 真白らしくない、少し気取った言葉だった。

「人生を、やり直す?」

 そう、と言った彼女は、どこか誇らしげに空を見ていた。

「私は、犯罪者の子。零汰くんは、被害者の子。二人とも、普通じゃない身の上なの。だから、二人で、もう一回最初から始めよう?生活も、恋愛も、何もかも」

 恋愛、の部分が少し強調されていたのはきっと気のせいじゃないだろう。

「……そうだな」

「いいと思わない?二人で、リスタートするの」


 一人では、何も始まらなかった。今まで通り、生産性のない堕落した毎日を、死ぬまで送っていただけだろう。

 でも、真白が壁を突き破ってくれた。それは部屋の壁でもあったし、俺の心の壁でもあった。 あの部屋で、いろんなことがあった。幾度となく食事の心配をされた。俺の異変に気づいてくれた。俺のことを褒めてくれた。

 真白の親のことを知った。俺の答えは、もう決まっていた。

 

 あの日、俺はマイナス地点に立たされた。

 やっとゼロまで戻れた先に、


 まだ真っ白な未来が、広がっていた。

 

 そこには、満面の笑みを浮かべた真白が立っていた。

 



この度は『零、白、クロ』を読んでくださり、ありがとうございます。

作品、どうでしたかね。


まだこのサイトの仕組みなどがよくわかっていませんが、もしできるのであれば、感想等教えていただけるとありがたいです。よろしくお願いします。


マイペースに、投稿していこうと思っています。お付き合いいただけると幸いです。

また次回の作品でお会いできることを願って。


それでは、また。


雪村 庵

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