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側にいる僕は何も言わない

作者: 雅樂 多祢

 偉人と言われる人たちの思考回路は時として一般人に理解されないという。それを彼らは気にしていたりするのだろうか。いや、多分していない。そんな労力があれば次のなすべき事をやっていたに違いない。桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長も奴隷解放の父と呼ばれたリンカーンも、テスラコイルを発明したニコラテスラですらきっと。彼らはの行動は常に洗練されている。どこまでも愚直に、己を信じて。まさしく彼女のように。


 いやそれはちがうか。以前の彼女はそうだった。


 夕日の差し込む音楽室。揺れる長い影は荒れ狂う波のよう。激しい旋律は戸を開けた僕の足を縫い付けるのには、あまりにも十分すぎた。鍵盤に乗せられた怒りと激しい悲しみ。今の彼女にあの洗練された姿を見ることはもう、叶わない。

 

 狂ったように叩き付けられた鍵盤、鳴り響く不協和音。弾くのを止めた彼女はいつしか、顔を覆っていた。

「ダメよ、全くダメ。これじゃいけないの。こんなのじゃダメなのよ。なのに――――」


「なのにどうして動いてくれないのよ!!」

再び叩き付けようとしたその手を僕は後ろから掴んだ。鍛え抜かれた大きい手。しかしあの頃のような強さはそこにはなく、離したらひとりでに折れてしまうような、そんなもろさがあった。

彼女は何も言わなくなった。僕は何も言わなかった。音楽室に静かな嗚咽が溶けていった。


彼女はピアノの天才だった。周囲からそう認識されていたし、彼女自身もそうであろうとしていた。数々の賞を取っても彼女は気にもしない。そんなものは一流のピアニストになるための足がかりでしか無かった。そう、彼女はピアニストとしてあまりにも洗練されていた。


それが痛かった。


事故による利き手の損傷。今は包帯こそとれてはいるが、残った後遺症が彼女の精神を蝕んだ。想い通りに動かない、それはどうしようもない焦りうんだ。精彩を欠いた旋律、それは弾いてる側から自分を苦しめた。

一度乱れた歯車がかみ合うことは無い。より一層酷い歪みを作って、崩れゆくだけ。

彼女は悩み悩み、荒れに荒れ、そして――――壊れた。すべてはピアノに特化しすぎた故に。あまりにも完璧すぎた故に。


暗くなった帰路を、僕たちはともにゆく。かける言葉は、何もなかった。気にするなとか、どうにかなるさとか、そんな言葉はただの気休めでしかないって知っていたから。

僕は何も言わない。ただ側にいるだけ。今の苦しみを乗り越えて、より一回り大きくなった彼女にまた会える、その日まで。


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