99.ハンメルンの町~1~
「ひどい有様だな、これは……」
ハンメルンの町に入った瞬間、僕の口から出た言葉は閑散とした町中に虚しく響き渡った。
まず、周囲を見渡す限り人が見当たらない。人が減っているにしても、子供どころか老人すら姿を消したかのようにその場にはいなかった。
街の関所なんてものも無人で機能していないし、驚くことに町中に小動物の死体が転がっている。誰も掃除しようとは思わないのか。
「なに、これ……」
鼻を抑えるジャスミンがその言葉と一緒に顔を歪めた。
たしかに、生き物の死骸が放置されていればこんな臭いにもなる。どうやら診療所の薬品の臭いで僕は鼻が馬鹿になっていたようで、この刺激臭はまだ耐えられそうだった。
「ネズミの死骸だな……。誰もこれを処理しようと思わなかったのか?」
道を埋め尽くすほどではないが、歩いていると茶色い道に、黒い点がよく目立つ。点にはさらに小さな点が幾つも群がり、その腐った肉を蝕んでいた。
思っていた十倍ぐらいにはこの町は町として機能していない。
「ひとまず、宿をとるぞ。まあ町の様子がこれじゃあ期待はできないが」
そう言って僕は歩く足を速めた。屋外よりもまだ屋内に身を置いている方が呼吸がしやすいだろう。
こんなところにいては、呼吸をするだけで吐き気を催しかねない。ジャスミンの方はかなり堪えているようだった。
「大丈夫か?」
少し後ろを歩くジャスミンに振り返る。
口を両手で抑え、コクコクと首を縦に振っている。遠目から、冷や汗のようなものも見受けられる。
いつの間にかジャスミンの足は動くのをやめ、その場に立ち止まっていた。
――無理をさせるのもよくないか。
珍しく僕の良心がこの少女に対して向けられた。
僕はジャスミンのもとまで近づくと、うずくまるジャスミンの前で背を向けてしゃがみ込んだ。
「ほら、負ぶってやるから、さっさと宿に向かうぞ」
「……ごめん、ありがとう」
ジャスミンが僕の肩に腕を回したのを確認すると、そのまま立ち……上がる。
「大丈夫?」
「僕だって男だ。このぐらい、なんとも……」
大丈夫だ。ギリギリ僕の力で背負いきれている。何かに躓かない限り、転んだりすることはない、はずだ。
「鼻と口、押えておけよ。あと、目も瞑っとけ」
「……分かった」
人を一人背負って走れるほど、僕は体力に自信があるわけではない。なるべく早歩きを心掛けながら、ネーヴェ王国で買っておいた地図を片手に宿がある場所へ向かう。
しかし、街がここまで荒廃しているとなると、宿が存在するかどうかも怪しい。
ただそれでも、野宿することを考えれば一縷の望みをかけて、地図が教える場所に向かう方がまだいいだろう。
それにしても、本当に人が住んでいるのか。いや、人が住めるのか、こんなところに。
恐らく、僕たちは今商店街的なところにいるはずなのだが、昼間だというのにどの店にも客もいなければ店主も見当たらない。極めつけに空っぽの商品棚。
死んだ町、という表現が適切だ。本当にこんな町で宿をやっている場所があるのか。
「……ここか」
僕の右手に立つ木造の、大きめの建物の前で足を止める。ありがたいことに分かりやすく玄関扉の上に『ここは宿泊施設です』とご丁寧に書いてあるのが目に飛び込んだのだ。
ただ、その様子はこの町に完全に溶け込んでいて、開け放たれた窓からは元は白かったであろう黄色いカーテンがその身をはためかせている。木製の建物そのものも所々が腐って、朽木のようになっている。
大きさだけ見れば、それはそれはなかなかにご立派な建物なのだが、どうにも清潔感に欠けているし、何よりも人の気配がない。まるで廃墟のようだ。幽霊か何か出てきてもおかしくない雰囲気だ。
「本当にここで合ってるのか……?」
一人、そう呟くと荷物を持っていない左手を、その若干錆びた玄関扉の取っ手に伸ばす。
キィッ、と嫌な音を立てながら、扉が重たそうに開く。
少し扉が開いたところで、「ごめんください」という言葉を抑えて中の様子を窺う。
もし誰もいない中に「ごめんください」なんて言って入ったら、虚しいだろう。
顔だけを中に入れて、そのくらい建物の中を観察する。
視界のすぐ左に受付台のようなものが見受けられる。右に目を向ければソファや小さめのテーブルも置いてある。
扉の上に掲げられていた通り、宿泊施設であることには間違いがなさそうだった。
ただ、中は明かりの一つもついていない。
「誰かいるのか?」
その声に、ビクリと体を震わせる。
中からだ。中に人がいたのだ。
「あの、ここに泊まりたいんですけど……」
どこにいるかも分からない声の主に向かって言う。しかし返ってきた反応は声ではなく明かりだった。
暗かった室内が徐々に橙色の暖かい色に染まる。よく見ると部屋の壁の燭台に火を灯して回っている男性が一人。
「まさか、人が来るなんてね……」
最後の燭台に火を灯すと、男性はこちらを見てからひと言、そう呟く。
「あなたが、この宿の?」
玄関扉から中に入りながら尋ねる。
「ああ、私がこの宿を営んでいる、ブレンだ。歓迎するよ」
ブレンと名乗った男はにっこりと笑う。その笑顔から、このブレンという男性が心の底から歓迎していることを、僕は感じ取った。
細い体を動かしながら、ブレンは受付台のもとへ向かう。
「君たち、二人だけかい?」
どこからか紙とペン、おそらくは受付台の引き出しから取り出すと、ブレンは僕たちにそう尋ねてきた。
「ええ、まあ」
「旅行?」
「まあ、そんなところです」
「何泊する予定だい?」
「二泊ほど」
サラサラと筆を走らせるブレンの様子を眺めながら、僕はそんな質疑応答を繰り返した。
「あの」
突然、僕に背負われているジャスミンが口を開いた。
「お前、もう平気なのか?」
「うん、多分大丈夫」
顔色は未だに悪いが、さっきよりは幾分かよくなっている。本人もしゃべるぐらいには回復しているようだし、この後部屋で休ませればすっかり元気になるだろう。
「それで、あの、ブレンさんにお伺いしたいんですけど」
「なにかな、お嬢さん?」
筆を握る手を止めると、ブレンは顔をあげてジャスミンに目を向ける。
「この町、どうなっているんですか? 人がいないし、町中にはネズミの死骸が転がっているし、普通では、ないと思うんです」
普通、というのは僕やジャスミンから見た場合だ。果たしてこの惨状が本当に普通ではないのかは分からないが、少なくとも、僕もジャスミンと同意見だった。
――傍から見れば、この町は普通ではない。
「一年ほど前に、大規模な誘拐事件がありましてな。その時に、こんな危ない町に住んでいられるかと、若いモンはみんなこの町を出て行ったのです。結果が今のハンメルンです」
町から人が逃げ出すほどの誘拐事件、一体どれだけの人間が誘拐されたのか。そもそも、誘拐事件なんてものがあることに驚いた。
ネーヴェ王国は国土がそれほど広くない上に、警吏隊も、軍もかなり実力を持っている。加えてあの魔女二人の関所がある。
国外にも国内にも誘拐したって逃げ場はない。
そんな国で育ったからこそ、僕は誘拐事件があるという事実に驚いた。
「どれほどの人数が誘拐されたんんだ?」
「二十人、です。みんな子どもでした。その中に私の娘も……」
これは、聞くべきではないことを聞いてしまった。
二十人。このハンメルンは大きな町ではない。そんな町で二十人も子どもが誘拐されたとなると、自身の身の危険も感じるだろう。
それで人が減ってしまったわけだ。
「犯人は捕まってないの?」
僕の体を全身を使って揺するジャスミンがそう尋ねる。その挙動が、「降ろせ」と言っていることは何となく分かった。
ジャスミンの両足が床につくように、丁寧に背中から降ろす。
「誰が犯人なのかは分かっているのですが、残念ながらまだ捕まっていないのです」
「顔が分かっているのに、捕まえられないのか?」
そう尋ねると、ブレンは少しだけ眉をひそめてから、
「続きは、あなた方をお部屋にご案内してからにしましょう。私にとって最後の客なのです。しっかりもてなして締めくくりたい」
そう言って、受付台のすぐ横の階段を登っていく。
「さあ、こちらです。どうぞ私について来てください」
促された僕たちは、顔を見合わせてから、足早にブレンの後を追った。