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赤い夜に、魔女は泣く  作者: 与瀬啓一
第7章~ハンメルンの町~
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98.真実かもしれない何か

 曇天でぐったりとした昼下がりに、薬品の匂いが漂うヴァイヤー診療所では、その天気も言葉を失うぐらいに、コレットは受付台に体を任せるように項垂れていた。


「コレット、元気出しなさいよ。あなたがそんなだと、やってきた患者さんも気が滅入っちゃうわよ」


 室内に設けられた長椅子に腰かけるツルカはそんなコレットの様子を見て、一つため息をついた。


「……今日は天気が良くないので患者さんは来ませーん」


「あなたねぇ……」


 別段、コレットの体調は悪いわけではない。天気が悪いと頭痛に苛まれたり、吐き気を催したり、傷口が疼いたり、そういう体質ではない。


 コレットがぐったりしている理由はもっと別の所にあった。


「エルを送り出したのはあなたでしょう? 私も初めはびっくりしたけど、送り出したものはしょうがないじゃない。私たちはいつも通り過ごして、彼らの帰りを待ちましょう?」


「そう、ですけど……」


 確かに、エルとジャスミンをコレットは送り出した。笑顔で「いってらっしゃい」と伝えた。そのつもりだった。


 しかし実際、いつもある憎たらしくも愛おしい声が聞こえてこないとなると、こんなにも寂しいものなのか。


「それにしても、よくゼラティーゼ王国に送り出せたわね。あの国を治めているのはあなたから視力を奪ったテレーズなのよ? 危険だと思わなかったの?」


 少し厳しい口調でツルカが言う。


「あの時は勢い余って言っちゃったというか、ローイラの花が欲しいし、ジャスミンちゃんの力にもなりたかったし……」


「要は考えてなかったってことよね」


 それを言われてしまっては、コレットは何も反論できなかった。


 全く考えていなかったわけではないのだ。ただ、ジャスミンの目的を考えると、危険が付き纏うのはどこに行こうと同じだ。それほどの覚悟があるとコレットは判断した。


 なら今更、どこに行くかなんてことは重要ではないと思ったのだ。


「とりあえず、二人の身に何か危険が無いか監視はしておくわ。だからそのあたりは安心して……」


 ツルカがそこまで言ったときだった。


 軽やかな鈴の音と共に少し軋む音を立てながら診療所の扉が開いた。




§




 マイクロフトと会ってから三日が過ぎた。その間ジークハルトはトカリナ・リャファセバルの誘拐事件についての情報を集めていた。


 とは言っても、事件そのものは極秘書類に記されるようなものだ。だから誘拐事件については直接的に聞いて回ることはしなかった。


 代わりにこう聞いて回っていた。「ウィケヴントの毒事件の犯人を知っているのか」、と。


 この質問に意味がないかもしれないことは重々理解している。誘拐犯がウィケヴントの毒事件のどさくさに紛れてトカリナを誘拐した線は捨てきれない。しかし、どさくさにまぎれた程度で誘拐した犯人が、なぜ未だに逃げおおせているのか。


 ジークハルトはそのとき、ウィケヴントの毒事件とトカリナ・リャファセバル誘拐事件が無関係ではないと、直感的に悟ったのだ。


 だからもしかしたらウィケヴントの毒事件について聞いて回っていれば何かしら情報が得られるのでは、と考えていたわけだが、完全に無駄骨で終わってしまった。


 というのも、誘拐事件はおろか、ウィケヴントの毒事件について手掛かりを握っている人間が少なすぎたのだ。


 だからこそ、こうして当事者の中で最もウィケヴントの毒事件について知っている人物を尋ねたわけだが。


「げっ」


 ヴァイヤー診療所の扉を開けた途端、ジークハルトはまずいものでも食べてしまったかのような声をあげた。


 いや、食べてはいけないようなまずいものではないのだが、見てはいけないまずいものだったのだ。


「ジークハルトさん?」


 そう言ったのは今日話を聞こうと思っていた『草原の魔女』コレット・ヴァイヤーだ。彼女がまず間違いなくウィケヴントの毒事件についてこの国で一番詳しい。


 なんせこの事件の対処に当たった第一人者だ。誰よりもウィケヴントの毒事件を知っている人物だ。


「あら、ジークハルトじゃない。ダイナは元気にしているかしら?」


 この声だ。この声を聞きたくなかったのだ。


「……悪い、今日は出直す」


 自分が秘密裏にこのことに首を突っ込んでいることは妹のダイナとマイクロフトしか知らない。


 もし、女王にバレでもすれば、何をされるか分かったもんじゃない。


「あなたが例の件についてコソコソと探っていることぐらい分かってるわよ? そのことについてコレットに話を聞きに来たんじゃないの?」


 肝心なことを忘れていた。


 この女王はこのネーヴェ王国を統べる『魔女』だ。そんな魔女が、国内でのことを把握していないわけがないのだ。


 こうなってはもう、逃げも隠れもできまい。


「……その通りですよ、女王陛下」


 諦めたジークハルトは閉じかけていた扉をもう一度開けて、診療所の中に入った。


 鼻を衝く薬品の匂い。天気が淀んでいるせいもあってか、暗い印象だった室内はさらにその明るさを落としている。


 受付台でぐったりとしているコレットの方に目を向けると、一言、


「患者として来れなくてすまない」


 そう断りを入れた。


「いえ、なにか大事なお話があって来たんですよね?」


 少し体を起こしてから、コレットが言う。


 たしかに、大事な話と言えば大事な話なのだが、こればっかりはジークハルト自身の好奇心が先を行っていた。


「ウィケヴントの毒事件について、何か知っていることは無いか?」


 ジークハルトは自分の目的を、真っ直ぐに言葉にした。


 さすがに彼女であれば何かしら有益な情報を知っているはずだ。いや、知っていてもらわないと困る。


「どうして急にそんなことを?」


 この際だ、コレットには誘拐事件のことを言ってしまっても構わないだろう。この女性が、誰かに漏らすなんてことはまずありえない。


「ある誘拐事件の解決に必要なことなんだ」


 そうジークハルトが答えると、コレットは少しだけ下を向いてから口を開いた。


「それって、ウィケヴントの毒事件を、誰が起こしたかってことですか?」


「そうだ、何か心当たりはないか?」


 するとコレットは小さく首を横に振った。


「ごめんなさい、だれが何のために起こしたのか、全然分からないんです。あの毒は、致死性の高いものじゃなかった。だから、人を殺すためにまき散らしたものではない、と思うんですけど」


「殺す目的ではない?」


 確認するようにそう口にする。


 それを見たコレットは静かに頷いた。


 致死性の低い毒という事実。その事実自体に驚きはしなかった。毒の被害に遭った者こそ在れど、あの事件で死亡者はいなかった。


「そういえば、危険人物がいるってダイナがその時に言ってましたよね。その人が犯人なんじゃないでしょうか?」


 思い出したようにコレットが言う。「そういえばそんな話もあったわね」とツルカも相槌を打った。


「そんな話、ダイナがいつしたんだ?」


「二十年前の、ウィケヴントの毒事件が本格的になる前です。入国の時に見たって話ですけど、ジークハルトさんも見たんじゃないですか?」


 はて、そんな人物いただろうか。


「……記憶にないが」


 なんせ二十年も前の話だ。もともと記憶力が良い方ではないし、忘れていても仕方がない。だが、もしその危険人物とやらがいたとした場合、ウィケヴントの毒事件とトカリナ・リャファセバル誘拐事件の関連性を繋ぐ鍵になりえるかもしれない。


「女王陛下の方で、そういった人物は見受けられなかったか?」


「残念だけど、そんな感じの人物が入国した記録も、出国した記録もないの」


 足跡を消している、ということか。


 これまでの話で、危険人物がいるという真実かもしれない何かがあると仮定すると、その危険人物はどうやってこの国から形跡を残さずに出たのか。いや、出た時だけじゃない。この国に入ったときも、なぜ記録が残っていない。


 自分と、妹のダイナと同じタイミングで入国したらしいが、ツルカはそんな記録はないと言った。


「犯人は、足跡を消す手段を持っている……?」


 一体どんな。


 それこそ皆目見当がつかない。


 ここは魔術先進国だ。いかなる技術、手法を用いても、その目を欺くことはできないはずだ。


 ここで行き詰ったとなると、この場所で得られる情報はもうないだろう。


「ありがとう、コレット。いい情報が手に入った」


「こんなので良かったんですか?」


「ああ、充分だ」


 正直、今までが何一つ得られなかっただけと言ってしまえばそれまでなのだが。


 ジークハルトは診療所の扉の取っ手に手をかけると、その取っ手を軽くひねる。


「ねえ、ジークハルト」


 突然、ツルカが後ろからこの場を離れようとするジークハルトを引き留めた。


「あなた、私に聞きたいことがあるんじゃないの?」


 その言葉は、真実だった。ジークハルトは一つ、この場で聞くことをやめた質問があった。


「もしあなたがこの事件に本気でいるつもりなら、教えてあげるわ」


 その見た目からは予想もつかない厳しい声が、ジークハルトの背中を撫でる。


「……“アンネの灯火”とはなんだ」


 この質問をしなかったのは、本当の意味で後戻りができなくなる気がしたからだ。


 知ってはいけない言葉、聞いてはいけない質問。


 この単語の意味を理解した瞬間、自分自身が一般人の触れてはいけないところに片足どころか半身を溺れさせることになると、ジークハルトは本能的に感じ取っていた。


「“アンネの灯火”はただの宗教団体よ。ゼラティーゼ王国で主に活動している、ね。なんでも、ワルプルギスの夜を引き起こした『想火の魔女』アンネ・ワルプルギスを崇拝しているそうよ」


「それが、トカリナ誘拐事件と関わっていると?」


「トカリナ誘拐事件だけじゃないわ。ウィケヴントの毒事件とも関りがあると、私は思うの」




§




 どうやら、ツルカはそれ以上のことを知らないようだった。国単位で情報が足りていない状態だったのだ。


 これではたしかにツルカにもどうにもできないだろう。


 あとは今日集めた事実を束ねて真実かもしれないものを見つけなければならない。マイクロフトがどういった情報を集めてくるかにもよるが、確実に前進していることは確かだ。


 前進していると同時に、どんどん沼の底に引きずり込まれている感じではあるが。


 それに、危険人物についてもダイナに確認する必要がある。


「こりゃ、難解になりそうだな……」


 ジークハルトのその呟きは、今しがた降り出した雨に流されるようにして、ネーヴェの街中に消えていった。


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