93.旅立ち
脳に、“朝”という情報を届けたのは太陽の光でもなく、ましてやニワトリの鳴き声でもなかった。
「エル、起きなさい。朝よ」
その声は僕の起床を急かしているようだった。
ゆっさゆっさと揺れ動く体が、未だに手放したくない睡魔を振り払った。
「……おはよう」
体を起こしながら、朝の決まり文句をジャスミンに届けた。
外に目を向けると、太陽どころか微かにだが星の輝きが目に入った。
「今何時だ?」
「朝の五時前よ」
「随分と早いな」
「目が覚めちゃって。二度寝する気にもならなかったからこうして君の部屋に遊びに来たのよ」
ふーん、と鼻で小さく返事をする。
つまり僕はもう少し寝ていてもいいというわけだ。出発自体は朝の六時半だし、準備はすでにできているわけで、朝食等々の時間を考えればあと三十分は寝れる。
「じゃあ僕はあと三十分寝るから。おやすみ」
「えーっ」
えーっ、じゃない。
「……本棚に何冊か読み物があるからそれでも読んどけ。良い暇つぶしにはなるだろ」
寝返りを打ち、ジャスミンに背を向けながらそう提案する。
僕がいくら薬学や植物以外に関心がないからと言って、それ以外の物事を疎かにしているわけではない。
薬学の教科書意外だって読むし、読書は割と好きな方だと自負している。
本は知識と思想の集合体だ。他人の知識と思想を知るにはもってこいの媒体だ。
どうやら僕の提案を飲んでくれたらしく、ジャスミンは僕が横たわるベッドから離れると本棚の方に向かった。
「……この本、借りてもいいかしら?」
その声と一緒に、厚みが買った本の表紙同士が擦れる音。
お気に召す本が見つかったのだろうか。
首だけを後ろに向け、その本の正体を目に移す。
「それか」
それは僕のお気に入りの推理小説だった。この国ではなかなか著名な作家の書いた小説だ。噂によると実体験をもとに書いているとか、そういう話もある。
「だって、知ってる名前の人の本、これしかなかったんだもの」
まあ、知らない人が書いた本というのは手を出しにくいのだろう。知っている部分があるほうがとっつきやすいのかもしれない。
「しばらくは貸しておくから好きなだけ読むと良い」
それだけ言って、後ろに向けていた首を正面に戻すと、静かに目を閉じる。
――ハラリ。
そんな心地のよい、紙のきめ細やかな動きが、早朝の未だ静かな室内に一定の律動で刻まれる。
その音を数えるうちに微睡みが意識を掴み、浅い暗闇に引きずり込んだ。
§
目が覚めると、カーテンの隙間から黄色い光が焦げ茶色の床に一筋の糸を作っていた。
その先。
ジャスミンが自分の荷物を纏めている姿が目に入った。
どうやら随分と大荷物なようで、大きめのパンパンに膨れ上がったカバンを、それに見合わない小さな背中に乗せながら、腰をかがめてもう一つの手提げカバンのようなものにゴソゴソと音を立てながら荷物を詰めていた。
「今何時だ?」
体を起こし、首をそちらに向けてジャスミンに尋ねる。
「すごい、ほんとに三十分ちょうどね。今は五時半前よ」
言われ、部屋に掛けられた小さめの時計に目を配る。確かにその針はちょうど真下より手前でゆっくりと、分からないぐらいにその動きを進めていた。
「小さい頃から寝付きも寝覚めもいいんだ」
「そう」
そう言いながらその荷物の詰まった手提げカバンを右手に、立ち上がった。
「さて、と。荷物もまとめ終わったし、私は先に一階に降りておくわね。おじさんの料理の手伝いしたいし」
ジャスミンの言うおじさんというのは僕の父のことだろう。確かに、先ほどから香ばしい朝の香りが階段を駆け上がって、有るか無いかも分からない部屋の扉の隙間からその体をねじ込ませている。
朝食を作るのは父の役目だ。母も料理ができないわけではないのだが、こればっかりは父の方が上だ。
どこでその料理技術を身に付けたのかは知らないが本当に父の作る料理はうまい。
そんな父にこのお転婆少女の手伝いなどいるのだろうか。
「足を引っ張ったらだめだぞ」
釘を刺しておいた。
「……それぐらい大丈夫よ。料理ぐらいできるんだから」
どうだか。
まあ、こんなところで引き留めても意味はないだろう。
「はいはい」
そう適当な返事を返しておいた。
「じゃあ、そういう事だから」
それだけ残してジャスミンはその大きな荷物を背負いながら部屋を出ていった。
その直後。
「ひゃっ」
短い悲鳴と共に、ドタドタと大きな音。
「いったーい!」
その音に負けないぐらいの悲鳴が階段の下から聞こえてきた。
おおよそ、あの大きな荷物で体勢を崩して転がり落ちたのだろう。
まったく、先が思いやられる。
「あいつ、本当に大丈夫かよ」
あれは包丁とか持たせたら危ない人種だと、咄嗟に感じ取った。
扉を開けて階段の下に目を向ける。旅に出る前だというのに、怪我でもされてしまっては元も子もない。
目を向けた先には、だらしなく荷物を下敷きにしながら、半べそを掻きながら倒れこんでいるジャスミンの姿があった。
ぱっと見た感じ、怪我はしていなさそうだった。
――全く本当に、先が思いやられる。
僕の口からは自然と長いため息が漏れ出ていた。
§
「行ってきます」
僕が発言したのはその一言だけだった。
「それじゃあ、行ってくるわね」
ジャスミンが発言した言葉もそれだけだった。
僕もジャスミンも、それだけで済ませようと思っていたのだ。こうしてお別れを告げる時間が長くなれば長くなるほど、心残りなんてものが付き纏ってくる。
あれやっとけばよかったなーだとか、あれ買っておきたかったなー、あれ食べておきたかったなー、みたいな未練たらたらの状態で旅をしなければならなくなる。
それが分かっていたから、僕もジャスミンも一言だけでこの場を離れようと思っていたのだ。
しかし見送る側はそうもいかないようで。
「ジャスミン! ちゃんと帰ってくるんだぞ!」
一人だけ、大号泣していた。
それも今目の前にいる大人の中で一番屈強な男性。
その体躯を微かに震わせ、鼻をすすりながら泣いていた。
「お父さん、そんなに泣かなくても……」
この光景にはさすがのジャスミンも少々困惑していた。
周りの大人も苦笑いだ。
きっとこの大泣きしているジャスミンの父はその両手に抱えた白い布に包まれた長い何かをジャスミンに渡すつもりだったのだろう。
しかし感極まってしまったのか、それを渡すこともできずにこうして泣いている。
「ほら、あなた、そろそろそれ渡さないと」
シエラがそう促す。
「あ、ああ。そうだな……」
頷いて、その両手に抱えた物をもって一歩前に出る。
「本当は、卒業祝いで渡すつもりだったんだがな。ジャスミン、お前にプレゼントだ」
ジャスミンの父がその白い布を勢いよく剥ぎとる。
「これって……」
そこから姿を現したのは細長い、杖のようなものだった。
雪のような純白の杖の先に、ジャスミンの瞳の色と同じような緑色の宝石のような装飾。
「父さんと母さんで作った杖だ。お前を守ってくれるよう、特別な加護がかかってる。肌身離さず持っていれば、それがお前を守ってくれるものだ」
にっこり笑ってその杖をジャスミンに手渡す。
それをジャスミンも大事そうに受け取った。
「ありがとう、お父さん、お母さん。大事にする」
ジャスミンのその一言がけじめをつけさせたのだろう。
ジャスミンの父はその逞しい両腕で、娘の小さな体を抱き寄せた。
「気をつけて、行ってくるんだぞ」
静かに、自分に言い聞かせているかのようにそう告げた。
それにジャスミンも小さく頷いた。
「エル」
突然名前を呼ばれて、その視線を越えのした方に向ける。
そこには父と、未だに少しだけ顔色の悪そうな母の姿があった。
「行ってらっしゃい」
それだけだった。
この時間が長ければ長いほど未練が残ることを、うちの両親は知っていたのだろう。
「行ってきます」
一番最初に言ったセリフをもう一度送り届けるように口にする。
それを聞いて母がにっこり笑う様子を見ると、その笑顔に押されるがままに背を向け、その場を後にした。
別れを済ませたのか、ジャスミンが追いかけるように僕の傍まで来る。
「お別れは終わったか」
「うん」
大事そうにその杖を抱えながら、後ろを振り返るまいと首を前に向けていた。
「別に、やめてもいいんだぞ」
僕のその提案自体に、意味がないのは分かっていた。
「行くに決まってるじゃない。今更寂しくなってやっぱりやめますなんて言えないもの」
口ではそう言いつつも、その顔にはやはり寂しさがこびりついているようった。
それでも、ジャスミンの足はその歩みを確実に、踏みしめるように勧めていた。
彼女の決意は固かった。
それは、あの喫茶店でこの度の話を聞いたときから知っていた。自分のすべきことを見つけ、前に進んでいた。
なら僕は。
僕が本当にしたいことは何なのか。
ローイラの花を取りに行くのは母に言われたからで、別に僕がどうしても取りに行きたいっていうわけじゃない。
やるべきことであることに変わりはないが、誰かから与えられたすべきことだ。
この悩みの結論はすぐに出た。
――今考えるべきことではないな。
それだけで、回答になった。
別に、この旅ですべきことを自分で見つける必要はない。そもそも成り行き上こうなってしまったのだ。僕がそんなことで悩むのは色々とおかしいだろう。
「まあ、とっととすべきことを終わらせて帰るぞ」
それだけ言うとジャスミンも「うん」と小さく頷いてその歩速を少しだけ速めた。