92.不安
この壮行会というには、きっと僕とジャスミンを送り出すためのものだったのだろう。
一番楽しむべきは僕とジャスミンだったのだろう。
このだらしない大人たちも、そのつもりで準備をしていただろう。
しかしそんな決意も、お酒の前ではどうやら無力だったようで。
目の前では酒の力に負けて机に突っ伏している男性が一人、未だに酒を飲んでいる女性が一人。ジャスミンの両親である。母親であるシエラとは面識があるが、父親の方は今日が初めてだった。
それから、酒をほとんど飲んでいない僕の父が座っている。どうやら自分の限界を把握しているようで、二杯目を飲んだところで、そのジョッキに酒を注ぐことはもうしなかった。
僕の母はというと、部屋の隅に寄せられたソファにぐったりと横たわっていた。どうやら相当酒に弱かったらしく、一杯目を飲み終わる前に潰れてしまった。
もともと応接室であった場所のソファと机を片付けた場所には、二つの机と、六つの椅子が用意されていた。
今の状況を踏まえると、その椅子に座っているのは現在僕とジャスミンを含めて五人だ。
「ごめんな、大人の父さんたちの方が楽しんじゃったみたいだ」
父レヴォルがなんとも言えない笑顔を浮かべた。
「そう、みたいだな」
そう言って、僕も同じような愛想笑いをその顔に浮かべる。
先に訂正を入れておこう。
父は「大人の方が楽しんでしまった」と言ったが、主に楽しんではしゃいでいたのはジャスミンと、その父親だ。
「うーん、そろそろお開きにしようかしらね。ジャスミンも疲れて寝ちゃったみたいだし」
シエラが酒の入ったジョッキを空にしてから、そう提案した。
横を見ると、これまた父親と同じような格好でジャスミンが料理の皿で埋まっている机の狭い空間に突っ伏して小さな寝息を立てていた。
「片付け、手伝いますよ」
言って立ち上がると、つい数時間前まで料理が山盛りになっていた大きめの皿に手を伸ばす。
「いいのよ。エル君はジャスミンをどこか寝られる場所に運んであげて」
「はあ」
とは言っても寝られる場所と言えば診察室のベッドぐらいなものだ。というか、この家に泊まるのか、この天才少女。
「シエラさんはどうするんですか?」
ふと疑問に思い、台所に向かうシエラを呼び止める。
「私は片付けが終わったらそこでいびき掻いて寝てる人を叩き起こして帰るわ。ジャスミンに渡し忘れた物もあるし」
「そうですか」
僕がそう返答すると、シエラは台所の奥に消えていった。
さて、そうとなるとこの机と椅子を片付ける必要もあるし、ジャスミンをとりあえず運ばねばならない。
「その子、眠りが深いから起きないと思うわよー」
そんな声が、台所の奥から届く。
それならと思い、ジャスミンが座る椅子を少しだけ引いて、ジャスミンの両手を引っ張って持ち上げるようにして背負う。
背中の上で未だに寝息を立てていることを確認してから、ゆっくりとした足取りで診察室へ向かった。
それにしても本当に起きないようだ。普通これぐらいされれば起きるだろうに。昏睡剤でも入れられたのかと疑うぐらいにはぐっすりだ。
全くそんなことをするつもりはないのだが、多少乱雑に扱っても大丈夫だろうとさえ思ってしまう。
診察室に着くと、そのベッドにジャスミンを腰掛けさせるようにして下ろす。
ゆっくりと自分の体ごと横になりつつ、ジャスミンの頭を枕の位置に丁寧に落とした。
「ふう……」
別に、この少女が重たかったわけではないのだが、僕が非力なせいか、これだけでも少しだけ、ほんの少しだけ息が上がってしまう。
「さてと……」
手が空いたことだし、自分も食器の片づけにでも向かおうか。
そう思ったときに、その一言が僕の足を引き留めた。
「エル……ありがと……」
目線だけを、声がしたベッドの上で眠っている少女に向ける。どうやら口だけが勝手に動いたようで、その目は閉じていたし、相変わらず、微かな寝息を立てていた。
一体、何の夢を見ているのかは分からないが、僕に感謝するのは見当違いだろう。
僕は今回の計画に関しては大したことはしていない。ジャスミンが計画し、僕の母が背中を押し、ジャスミンの母が許可を出した。それだけのことだ。
感謝をされるいわれも筋合いもない。
僕は探偵ごっこに巻き込まれかけているただの一般人なのだ。
僕に感謝する前に、然るべき人物に感謝するべきだろう。
「まったく……」
そうぼやきながら、僕は診察室を後にした。
――とりあえず、台所に行って洗いものの手伝いをしよう。
そう思った僕は、その足を一直線に台所に向かわせた。
§
「エル君ごめんなさいね、娘の世話ばかりさせちゃって」
僕が台所に入ると、皿を洗っていたシエラがこちらに少しだけ顔を向ける。
「別に、あれぐらいはなんともないです。……父はどこに……?」
台所にいると思っていた父の姿が見当たらない。こういう事は率先してやる人のはずなのだが。
「レヴォルさんならコレットさんの所にいるわよ。なんだか、コレットさんがうなされてたみたいで、傍に居てあげたいんだって」
ほんとラブラブよねー、と付け加えながら、シエラは目線だけを壁の向こうの応接室に向ける。
まあこういう事は昔からだ。どちらかが体調を崩すと何もかもほったらかして看病に当たる人たちだ。その間、診療所では僕だけがせっせと働いているわけだ。
そのおかげもあってか、診察もなれたし、患者の顔や持病も覚えた。薬師として、診療所を継ぐ者としてはなかなかいい傾向だろう。
そうですか、と軽返事だけを返しておく。
洗い場の様子を見ると、まだまだ汚れがこびりついた皿やら容器やらが山積みだ。
「僕も手伝いますね」
言って、シエラの隣まで行くと腕まくりをして、蛇口のすぐ横に置いてある食器用石鹸に手を伸ばす。
「エル君は……」
突然、シエラがそう口を開いた。
「どうしてジャスミンのお願いを聞いてくれたのかしら?」
その一言に、僕は手を止めることなく淡々と答える。
「ただの結果論です。別に、僕はジャスミンの探偵ごっこに付き合うつもりなんて元々ありません。ただ、母の無茶ぶりを受け入れざるを得なかったから、そうしただけです」
「随分と正直なのね。初めて見た時から悪い子だとは思ってなかったけど、正直なところは好感が持てるわね」
その言い方だと、僕がジャスミンの犯人探しに乗り気ではないことにこの女性は気づいていたのだろう。
別にそのことを隠す必要もないし、気づかれていたのならそれはそれで構わないのだが。
「別に、やめてしまってもいいのよ?」
「一度引き受けたものに、そう簡単に背中を向けられるほど僕は薄情じゃないですよ」
多分。
それに、やめてしまえば困るのは僕の母であり、この診療所だ。
何が何としてもローイラの花は取りに行かなければならない。
「旅はそんな短いもんじゃないんです。僕がローイラの花を取りに行く合間で、ジャスミンが犯人探しをしておけば、まあ、僕はいいと思ってますよ」
「うん、それで私もいいと思うわ。あの子、結構面倒くさいところあるから、それぐらいの距離間で、見守ってあげてちょうだい」
その言葉に僕は首を縦に振らなかった。
子供のお守はごめんだ。ただでさえ面倒くさい子どもなのに、見守ってやれとか冗談じゃない。
「善処はします」
そんな曖昧な言葉で片付けた。
「うん、よろしく頼むわね。……さてと、洗いものももうすぐ終わるし、あとは私に任せてエル君もおやすみ? 明日朝早いでしょう?」
そう言われて時計の方に目を向ける。時刻はちょうど十一時を回ったところだった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて休ませてもらいます。おやすみなさい」
濡れた手を傍に掛けてあった布巾で拭きながら言うと、「あとはお願いします」と言い残して台所を出た。
それにしても、いざ旅立ちの日が明日となると、どこか落ち着かない。
もちろん、不安な部分だってある。これから旅に行くのは行ったことがない国の、さらに言ったことのない知らない場所だ。
不安に思うなと言うほうが無理があるだろう。
「はあ……」
そんな不安がため息と一緒に出る。
不安材料はそれだけではない。ジャスミンの犯人探し、仮にもしこの犯人探しで犯人と顔を合わせることになったらと思うと、不安と恐怖で頭が埋め尽くされた。
いや、犯人探しは自分には関係がないのだ。勝手にやって、勝手に犯人を捕まえておけばいい。
「――あいつは怖くないのかよ」
誰に問うでもなくその疑問を口にした。
そんな考えが、ぐるぐると頭の中身をかき混ぜてくる。こういう時はあれだ。薬の名前を番号順に頭の中で言うんだ。
――ラドシア、ボルメイナ、ネツトリソウ、ギモク……。
ふっ、と一瞬だけ瞼が落ち、意識が飛ぶ。
薬草の名前を無心で言い続ける傍らで、眠くなってきたなと考える。
十秒後にはその意識は完全に微睡みの中に溶け込んでいた。