87.思いを伝えて
なんだか、とんとん拍子で話が進んでしまった。
ジャスミンはその胸の高鳴りを感じながら、軽快な足取りで帰路についていた。
本当に、すごい女性だと感じた。『草原の魔女』という二つ名からは、穏やかな、春の暖かな日差しのような印象を抱いていた。
しかし実際はどうだ。
どんな物よりも美しく、どんな人よりも強い女性だと、ジャスミンは感じた。憧れていた人物像以上の人だった。
きっとこの胸の高鳴りは、高揚感は、そんな憧れの人と話したからだろう。決して、エルと旅に出ることが決まって嬉しかったからとかじゃない、はずだ。
ふと横を見ると、陳列窓に映る自分と目が合う。
ニヤニヤしたその顔が、こちらをからかうように見つめてきた。
慌てて頬に両手を当てて、その少しだけ吊り上がった頬を元に戻そうとする。
ようやくだ。ようやくなのだ。
やっと自分の夢が叶う。やりたいことができる。
沢山笑われた。沢山馬鹿にされた。沢山諭された。
できっこないと、大人に言われた。あほらしいと、同級生に言われた。それでも、自分がやりたいことに向かって進んだ結果が今だ。
別にまだ、犯人を見つけたわけじゃない。だけど、行動に移した。移すことができた。誰もかれもが、それすらできないと思っていた。
――どうだ見たか。
そんな気持ちがいつの間にかジャスミンの中に生まれていた。
さっきニヤついていたのはきっとこれだ。
今までさんざん馬鹿にしてきたやつを見返す機会ができたからなんだ。絶対にエルと旅に出られるからではない。そう確信した。
別に周りの人間に理解されなくても構わない。そういうヤツは見返してやればいい。
ただ一人。
「お母さんだけは、説得しなきゃ」
魔女になるつもりはない。その意志は伝えた。それを聞いてどう思ったのかは分からないが、魔女になれ、と無理強いするような事は無かった。
もし無理強いしてくるようなら、説得することは諦めていたかもしれない。
可能性があるから、説得する決意ができた。自分の話をちゃんと聞いてくれると思った。
もし旅に出ることを告げて、反対されたらどうしよう。
そんな事すら考えていなかった。
それぐらいには母親が自分の期待通りに返事を返してくれると思っていた。
思い返せば、自分のやりたいことを、母はいつも応援してくれていた。
「今回も、応援してくれるかな」
そんな声と一緒に、自分の家の扉に手をかけた。
§
「とんとん拍子で話が進みやがった」
ベッドに横たわりながら僕は誰に向けてでもなくその文句を放った。
誰に向けてでもなく、と言ったが正確に言うとこれはきっと、母親に向けて放った言葉だ。
しかしそんな文句を母親に向けて言ったところで決まったことが覆るわけじゃない。だからこの文句は誰に向けてでもない、自分の中の不満を吐き出しただけに過ぎない。それだけのものだ。
それにあそこまで真に迫った顔をされると、首を縦に振るしかなかった。
それと同時に、母親には敵わないな、とも思う。
きっと僕は、自分の母親が苦手なのだ。もちろん、薬師としては尊敬できる人物だ。それとは別で、どこか掴みにくい性格をしていると感じる。
自分のペースに乗せづらい。
それだけならまだよかったが、いつの間にか乗せられているのが困ったものだ。断れるものも断れない状況に持っていかれる。
本当に、面倒なことになってきた。
「はぁ……」
自然とため息が漏れる。
そのため息は、行く当てもなくふらふらと彷徨うように、その部屋に響いた。
§
ジャスミンにとって、母の工房は遊び場でしかなかった。それは魔術学校を卒業した今でもさして変わらなかった。
遊び場とは言っても、その内容は大きく変移している。小さい頃は本当に遊んでいたのだ。フラスコを割ったこともあるし、何やらよく分からない粉をまき散らしたことだってある。
そのときはめちゃくちゃに叱られた。
しかし今は、それは遊びとは言えないものになっていた。傍から見ればただの親の手伝いのようにしか見えない。
曇ったフラスコを磨いたり、散らかっている床を掃除したり、向きや種類が乱雑に収納されている本棚を整理整頓したり。
ジャスミンにとっては遊びのようなものだった。
工房に入り浸っていることには変わりないし、何より自分が楽しければそれは遊びなのだ。
今日もそんな風にして、親の帰りを待っていた。どうやら両親共々出掛けているらしく、店の表にも、両親の部屋にも、台所にもどこにもその姿は見当たらなかった。
またいつものやつか、と思う。
両親は本当に仲が良い。喧嘩をしているところを見たことがないし、何よりも、しょっちゅう二人きりで出掛けている。
なんでも行きつけのお店ではおしどり夫婦として有名だとか有名じゃないとか。
「そろそろ帰ってくるかなぁ」
日はすでに完全に傾き、太陽は姿を隠して月が煌々と夜の街を照らしていた。いつもならそろそろ帰ってくるはずなのだが。
ガチャリ、と玄関の扉の開く音が耳に届いた。
直後に「ただいま」という声。
どうやら両親が帰ってきたようだった。一体何を買ってきたのだろうか。母はどうせまた服を買ってきたのだろう。
あの人のおしゃれ好きには困ったものだ。父もよく付き合っていられる。
「ジャスミン、どこー?」
名前を呼ばれた。なんだろうと思い立ち上がり、工房を後にする。
晩御飯にしようとか、そういう要件だろうか。思い返せば両親が二人で出掛けた時も、なんだかんだ言って家族そろって晩御飯を食べていた。
二人だけで外で食べてくるなんてことは今までなかった。
工房を出て、ちょうど玄関の見える位置に差し掛かると、
「どうしたの? お母さん」
言いながらそちらの方に目を向けた。
そこには両手に荷物を持った両親の姿が映っていた。母は両手に紙でできた白い箱を提げていた。その箱から目を移し、両親の顔と目線を合わせる。
「二人とも、どうしてそんなに笑っているの?」
すごくニコニコしていた。別にそれが不気味だとか思ったわけではないが、本当に自然にこぼれているであろうその笑顔の理由が、よく分からなかった。
「今日はお祝いよ」
母が言う。
「なんの?」
「お前のだよ、ジャスミン」
父が言う。
「私の?」
はて、どういうことだろう。
別に祝われるような事は無かったはずだ。誕生日はまだ先だし、別に今日という日が特別な祝日なわけでもない。
思い当たる節はジャスミンが考える限り見当たらなかった。
「私、何か祝われるような事したっけ……?」
そんな疑問をそのまま投げかけた。
すると両親はきょとんとした表情をした後、どっ、と笑いだした。
「なっ、なに!?」
ジャスミンは何かおかしなことを言ったのではと思い、その顔を少しだけ赤面させた。
「魔術学校卒業おめでとう、ジャスミン。なかなか時間が取れなくて遅くなっちゃったけど。だから今夜はケーキでも食べてお祝いしようと思ったの」
なるほど、その両手に提げられた紙箱にはケーキが入っていたのか。
――ああ、本当に。
「どうした!? ジャスミン!? もしかして、嫌だったか?」
父の声がした。でもその姿はどういうわけかぐちゃぐちゃに歪んでよく見えなかった。今二人はどういう表情をしているんだろう。
そして自分は、どうしてこんなにも泣いているんだろう。
ずっと一人で頑張ってきた。誰も頼らずに、ずっと一人で。嘲笑われたこともあった。
石を投げられたこともあれば根拠のない罵声を浴びせられたこともあった。
それでも一人で頑張ってきたのだ。
それが、こんな形で……。
「あり……がとう、お父さん、お母さん……」
こんな形で、報われるだなんて。
どんな顔で泣いていたんだろう。
今自分がどんな顔をしているのか、ジャスミンには分からなかった。
ただそれでも、瞳に浮かんだ涙の向こう側で、微笑んだ両親の顔が見えた気がした。
§
「私、旅に出ようと思うの」
皿に乗ったケーキを半分だけ食べたところで、ジャスミンは唐突にその気持ちを告げた。
いつまでも引きずっていていいものではない。両親に自分の考えをしっかりと伝え、それに賛同してもらう必要があった。
この二人にだけは、そのことを知っておいてほしかった。
「随分と急だな」
フォークを置きながら、静かに、落ち着いた声で父がそう言った。
「ごめんなさい、何度も言おうと思ったんだけど、なかなか言い出せなくって……」
反対されるのが怖かった、訳ではない。多分自分は反対されていても旅には出ていただろう。
きっと本当に怖かったのは、失望されることだ。魔女になるという道に背を向けて、まったく別の、整備されていない道を歩くようなものだ。
魔女になるとばかり思って育ててきた両親の意向に背くようなことだ。そんなことをすれば、きっと二人を、本当の意味で失望させてしまうと思っていた。
「別にいいんじゃないか?」
「え?」
その言葉は随分とあっさりと、簡単に父の口から引っ張り出された。
「いいの?」
言って黙っていた母の方を見る。口いっぱいにケーキを頬張っていた。
それを急いで咀嚼し、ごくんと音を立てて流し込み、一息置いてから、
「いいんじゃないかしら?」
それだけがケーキの代償のようにその口から出てきた。
「いいか、ジャスミン。お前にとっての家族は誰だ?」
どうしてそんなことを聞くのだろう、と思う。
頭の中で家系図を思い浮かべる。母方の祖母はつい一か月前に亡くなった。祖父に至っては見たこともない。生まれる前に死んだと聞いた。
父方の祖父母はどうやらこの国にはいないらしかった。帝国の方にいるとかいないとか。
ジャスミンは一人っ子だった。別段、姉だったり弟だったり、そういう存在に憧れはしたが、それを欲することはなかった。
となると家族という括りで認識できるのは。
「お父さんと、お母さん……」
「そうだ。お前の家族は父さんと母さんだ。お前の家族が、お前の我儘を聞かなかったら誰が聞くんだ?」
確かにその通りだ。一番近くにいた。一番自分を見てくれていた。そんな両親以外に、こんな我儘を聞き入れてくれる人がいるだろうか。
「人は他人に構っていられるほど寛容な生き物じゃない。常に自己の利益を求めて動くんだ。世の中に存在する善者っていうのはその利益を求める感情をうまく隠しているか、なんにでも利益を見出せる奴だ。
まあ何が言いたいかっていうとだな、子供の我儘を無条件で、何の利益も見出さずに受け入れるのが親ってモンだ。だからそんな風に遠慮はするな。言いたいことはどんどん言え。それを聞くのが親の仕事だ」
そう言って、にっこりと笑った。
母も、うんうんと頷いていた。
その言葉を聞いて、ジャスミンは安心した。今まで全部我慢していた。夢も望みも、何もかもを自分の中で押し込んでいた。
それを、さらけ出していいと言われた。
言いたいことはどんどん言えと、言ってもらえた。
「ウィケヴントの毒事件の犯人を捕まえたいの」
「うん」
「多分すごく危険だと思う」
「そうかもね」
「……それでも、笑って送り出してくれる?」
すると母は小さく頷き、
「子供が巣立つとき、笑顔で送り出すのは親の役割だもの」
優しい、穏やかな声でそう答えた。
これはきっと、ただの確認でしかなかったのだ。確認することが怖くて、ずっと足踏みしていただけなのだ。
両親がそう答えてくれることぐらい、分かっていたのかもしれない。ただ少し、勇気が足りなかっただけ。
今の気持ちなら、なんだってできそうな気がした。
犯人探しだろうが何だろうが、この勇気があれば立ち向かえる気がした。
もし足踏みしたままだったら、もしかしたら旅に出たところで何もできなかったのかもしれない。
「ありがとう。お父さん、お母さん、本当にありがとう」
そう言って、笑って見せた。
でもそれでも、頬を伝う涙はどうしてか止まらなかった。