83.昔話
少しだけ帰るのが遅くなってしまったな、と思う。家に入るとすぐに時計に目を向けた。時計の針はちょうど九時を指していた。
当たり前のように患者の姿はなく、診療所の中は静寂に包まれていた。カチ、カチ、という時計の秒針の音だけがその空間の時間をどうにか溶かして、進めているかのようだった。
災難といえば災難だった。
今日のツルカの目的はあの指輪を取りに行くことであって、決して僕と楽しくお買い物がしたかったわけではないはずだ。もちろん僕の方はこれっぽっちも楽しくなどなかったが。
そう言えばデートがどうとか言ってたなあ、と今になって思い出す。
「母さん、いる?」
あまりに静かな診療所の中でその呼びかけだけが響いた。どこからも返事はなかった。さすがにもう眠っているということはないはずだが。
診察室の方を覗いてみる。
「……いた」
そこには机に突っ伏して眠っている母親の姿があった。だらしなく口を半開きにしてよだれを垂らしながら小さな寝息を立てている。
――寒そうだし、何かかけてやろうか。
そう思って診察室に置いてあるベッドから薄い毛布を引っ張って、それを母親の肩から軽くかける。
幸せそうな顔とはこのことを言うのだろう。この人だけは裏切れない、信じ続けられる理由がこの幸せそうな顔だ。
それはきっと、僕に限った話じゃない。
「エル、帰ってきてたのか」
後ろの声に顔を振り向かせる。
「父さんか」
ここ数日姿を見ていなかったせいか、随分と久しぶりに会った気がした。思えば、父親のことをほとんど知らない気がする。母との出会いだとか、出自だとかそういう個人的な話、父親の過去の話を今まで聞いたことがなかった。
僕の中でも謎の多い人物だ。血のつながった父親なのに。
「コレットと休憩がてらにお茶でもしようと思って降りてきたんだが、眠っているのならしょうがないな。エル、ちょっと付き合ってくれ」
またいつものだろう。父は時々、ずっと部屋に籠っている時がある。小さい頃に部屋に籠って何をしているのか尋ねたところ、「調べ物」と言っていた。それは今でも続いているようで、
「また調べ物?」
「まあ、そんなところだ」
予想通りの答えだ。そう答える父の顔には若干ながら疲れの色が見えていた。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい? 僕が淹れるよ」
さすがに疲れている人間を動かさせるわけにもいかないだろう。そう思って自ら台所に足を運ぶ。
「コーヒーで」
短い返事が耳に届く。
その返事を聞くとすぐに台所の戸棚のもとへ歩み寄り、腰をかがめる。引き出しを開けて適当なコーヒー豆を引っ張り出す。とは言っても豆の原形はとどめていないが。
「父さんは……」
コップの上に乗せられた湿った布に砕けているコーヒー豆を入れながら、
「いつも何を調べているんだ?」
疑問に思っていたことを聞いた。別にこれで答えを得られたからと言って自分の人生に影響が出るわけでもない。ただの興味本位だった。
父だって博学な人間だ。どこでそんな知識をつけたのかは分からないが、今更何か調べなければならないものでもあるのだろうか。
「父さんの知識量を考えたら、調べることなんて大してないはずだ。それなのに昔から部屋に籠って何を調べているのか、少し気になって」
布からぽたぽたと黒い液が滴るのを眺めながら言う。
少しだけ間をおいてから、父が口を開いた。
「いくら知識のある人間でも、その人がこの世の全てを全部知っているわけじゃない。父さんだってそれは同じだ。小さい頃からたくさん勉強してきたし、コレットに会ってからは薬学の知識だって身に付けた。それでも当たり前のように知らないことが目の前に現れる。ある一つの事柄を知ろうとすればそのために別の知識を十覚える必要が出てきたりする。そうやって知識は木の根のように繋がっていくんだ」
ふーん、と思って聞いていた。
言っていることは分かる。むしろ分かりすぎる。確かにこの世の全てを知っているなんて人間はいないだろう。もしいたとしたらそんなの神様とか、そういう次元になる。
「それで、なにについて調べてたんだ?」
コーヒーの入ったマグカップを一つ片手に持ちながら、一般的に応接室と言われるような部屋で座って待っている父の所に向かう。
「魔術について、少しな」
開けっ放しの扉を通って部屋に入ったところで父のその答えが聞こえた。
「魔術?」
なんでまたそんなものを調べているんだろうと思う。調べたところでそれは何にもならない。知識の容量を圧迫するだけでその知識を自分自身は使うことができない。
そんなものを知って、一体何になるのか。
「父さんの昔話、少しだけ聞くか?」
それはとても興味のあることだった。それは小さい頃から、頭の片隅で気になっていたことだ。父が一体どんな人生を歩んできたのか、無性に聞きたくなった。
小さく、首を縦に振る。
「妹がいたんだ」
衝撃の事実だった。
「妹?」
「そう、妹。それも異母兄妹でな」
複雑そうな家庭だ。本当にどこかの没落貴族なんだろうか。そんな気がしてならない。
「その子、目が見えなかったんだ。すごく優しい子で、父さんもよく可愛がっていたんだ。でもある時、忽然と姿を消したんだ」
「それはなぜ?」
「父さんにも分からない。悪魔に連れ去られただとか、悪い魔女に喰われただとか、そういう噂が当時は立っていたよ」
なんとも物騒な話だし、偏見が過ぎるものでもある。魔女が人を喰うわけがないだろう。その噂を流したやつはよっぽどの馬鹿だ。
「コレットに出会ってからすぐ後に、その妹と再会できたんだ。でも喜べなかった。目が見えない妹は、コレットから視力を奪ったんだ。何が妹をそうさせたのかは分からないが、そんな非道なことをする子じゃなかった」
ああ、それでか。父も母も、二人とも眼帯をつけていることにこれで合点がいった。視力を共有しているという魔術のこともこれで納得がいく。
以前聞いたときは「いろいろあった」とごまかされていたのだが、それが真相だったのか。
「それで? 復讐するために魔術を調べていたのか?」
「逆だ。人から視力を奪うほどに壊れてしまった妹を救いたいんだ。そのための手段がきっと魔術の中にあるはずなんだ」
その言葉の後に、コーヒーを静かにすする。
この人もそういう人なんだなと、改めて思う。魔術は人を救うものだと、母は言った。そうであると信じているとも。それは父も同じだろう。魔術が人を救うと信じて疑っていない。
「まあ、父さんならできるんじゃないかな」
正直、父がどうしたいかとかは興味がない。勝手にやればいいと思う。ただやはり、少しばかり心配になることだってある。
「あまり根詰めるのもよくないから、僕もこうやってたまには付き合うよ」
「ありがとう」
感謝された。
「僕も今日は寝るから、父さんも寝なよ」
父がコーヒーを飲み干したのを見届けてから立ち上がる。
「そうさせてもらうよ。おやすみ、エル」
「おやすみ、父さん。コップは洗っておいてね」
そう言って、部屋を出た。
部屋に戻ると机の上に小さな紙片が置いてあるのが目に入った。それの差出人は考えなくてもすぐに分かった。母だ。次の日にお遣いに行ってほしい時にはこうやってメモ書きを渡しに来る。
今日は僕が出掛けていていなかったから机の上に置いておいたのだろう。
――明日も勉強できそうにないな。
そう思いながら月明かりに照らされる部屋の隅に置かれたベッドに腰を掛けて、
――ボフッ。
音を立てながら倒れこんだ。
あれほど連れ回されたのだ、きっと疲れていたのだろう。何を考える間もなく瞼が意識とは無関係に下がりだす。
そうして今日の記憶と一緒に、意識が闇の中に溶け込んだ。