76.出会い~1~
薬草屋は僕のお気に入りの場所だ。丘に比べれば大したことはないが、ここにも数多くの植物がある。植物が好きならば花屋でもいいだろうと言われそうだが、花屋はどこかキラキラしていて個人的に合わない。
この薬草の独特の臭いが好きなのだ。非常に落ち着く。
「おう、ヴァイヤーんとこの。今日もお遣いか?」
「ええ、まあ。この二つをお願いしたいんですけど」
そう言ってくしゃくしゃになった紙をポケットから取り出し、白いひげを蓄えた強面の目の前にいる男性に手渡す。
「あいよ、ちょっと待ってな」
その声と共に奥のほうに消えていった。
この店は僕が小さい頃からよく訪れている。もちろん魔女である母について行って、だ。
当時から植物は好きだった。しかしその時はその辺の雑草を観察して、摘み取って、舐めてみたりもして、そういう感じだった。今思えば頭のおかしい子供だったなと思う。
薬草屋に足を運んだ時は目を輝かせたものだ。知らない色、知らない形、知らない臭い。そのどれもが僕の世界を輝かせるもの、子どもが親に買ってもらった新しいおもちゃそのものだった。
「ほらよ、持ってきてやったぞ」
その声と一緒に奥から強面を緩ませながら男が出てくる。
「ありがとうございます、これお代です」
そう言って反対のポケットから小さな袋をチャリチャリと言わせながら手渡す。
「確かに受け取ったぞ。ほんじゃ、気をつけて帰れよ」
「ありがとうございます、また来ますね」
薬草の入れられた包みを受け取ると店の扉を片手で開けながらぺこりと小さく頭を下げた。
店を出る。
街の中心に近いだけあって人通りが多い。それに今日は久しぶりの晴れだ。多くの人が外に出たいし買い物もしたいだろう。
――それにしても。
「多すぎないか?」
自然と目に映った光景が口を通して出てきていた。
つい先ほどまで、この薬草屋に来る途中は、それこそ休日のお昼時程度の人の数だったが、今の道にはそれどころではない、尋常ではない数の人で溢れかえっている。
簡単に言ってしまえば川だ。人という流水が一方向に激しい勢いで流れている。狭い道にあふれんばかりの人が、その地面を揺らしながら目の前を歩き去っていく。
中には流水に飲まれている人もいる。もみくちゃにされながらも流れに従って道を歩いている。
――これは帰るのに一苦労しそうだな。
その流れに乗るのはなかなか容易には見えなかった。一歩足を踏み込めば骨ごと砕かれそうだ。
「わっぷ」
人の流れの中からそんな声がした。
「ちょっ、ちょっと押さないで! 出ます! 出ますから!」
人ごみの中から白い腕がぴょこりと顔を覗かせる。その手だけが上へ下へ、右へ左へ行ったり来たりしている。
「ちょっと! 出るから! ここから出たいだけだから……って痛っ!!」
おそらく自分の目の前で、しかし人混みの見えないところで誰かがこの流れに抗って外に出たがっている、というのは何となく分かった。
腕は出ているわけだし、引っ張り出してあげた方がいいだろうか。
「ちょっとそこの君! 腕引っ張って!」
見ると今度は顔が出てきていた。艶のある茶髪、その先を髪の色よりも明るい金色のアクセサリで髪の両側をそれぞれ結っている。それに見たことのない瞳の色。なんというか、緑色に見える。
「ねえ、聞いてる!?」
悲痛そうな叫びが人々の喧騒に混ざって耳に届く。
少女の目は苦しそうにしながらもこちらを涙目で見つめている。
助けてあげるべきだろうか。放っておいても何とかなりそうだが、しかし一歩間違えれば人並みに攫われてしまいそうだ。
優しさなんて、親切心なんて馬鹿らしいと思っていた。だってその感情はただの偽善だから。人に優しくした自分に酔いたくて、だから人は優しさや親切心を持つのだ。
――だからこそ。
その差し出された細い腕をつかんだ時には正直自分でも驚いた。
「わわっ」
その言葉と一緒に根っこが引っこ抜けるように少女の体が勢いよく人混みから抜ける。人混みに押し出されるように、異物を追い出すかのようにその少女が飛び出る。それと同時に、
「おわっ!?」
その勢いが僕の体ごとその少女の体を引っ張った。
――どさり。
先に音を立てて倒れたのは僕だ。思いっきり背中から、打ちつけるように倒れこんだ。
「痛ぇ……」
そう口から痛みを漏らしたときにはそれは目の前に来ていた。翡翠のような瞳が、太陽を吸い込んだかのように輝いたその瞳が、気がつけば目の前に来ていた。
ごちりと鈍い音。
「いっ……」
もう一度、痛みを口から吐き出そうとした。口に出してしまえば痛みも紛れるというものだ。
しかし吐き出そうとしたその言葉を、目の前の少女が乗っ取った。
「いったーい!」
耳を劈くように目の前で叫ばれる。空気の振動が直に感じ取れた、気がする。打ちつけたであろう額を両手で抑えている。半分涙目だ。
「君、もうちょっと優しく引っ張れないの!? おかげで怪我しちゃったじゃない!」
言いながらもその手はいまだ少し膨れた額を抑えている。地面にぺたりと座り込んだその翡翠色の瞳の少女は、その瞳を鋭くさせて、その矛先をこちらに向けている。
その態度が何となく気に食わなかった。
「怪我をしたのは僕だって同じだ。人混みにもみくちゃにされそうなところを助けてやったんだ、礼の一つぐらい言えないのか」
すると少女は顔をそっぽ向かせ、
「そのことはありがと」
小さく答えた。
「でもそれとこれとは話が別だよ。君は、私に、謝って!」
謎理論を展開された。
この少女がけがをしたのは完全に事故だ。意図的なものじゃない。普通に考えれば僕が謝るような案件ではないのだ。むしろ感謝されて然るべきだ。
「何で僕が謝らなきゃいけないんだ。事故だろ誰がどう見ても」
言うだけ無駄だったことに気づいたのは少女が無言を貫き通してからだった。まるで怒った母親にそっくり。
――ああもう、面倒くさいな。
溜息をつきながら右手を少女の手が抑える額の前にかざす。
「なっ、なに?」
その行動に警戒したであろう少女がその短い一言で自身の沈黙を破る。
「ちょっとじっとしてろ」
魔術というのは男性は使えない。どうやら精霊というのは男が嫌いらしい。それに加えて年寄りも精霊は嫌っている。
魔術という現象を起こす精霊。その精霊への命令の出し方、つまりは魔術の使い方を習得できるのは二十歳未満の少女。
それ以外の人は魔術は使えない。どれだけ魔術が使いたくてもそれは叶わないことだ。しかしそれは五年前までの話。精霊も目には見えないが命ある生物だ。鼻や耳、それに目だってついている。
要するに騙すことができる。
年齢を若くし、性別を女性にする。あくまで精霊にそう見えるようにする魔術が五年前に作られた。
「回復魔術」
ただし条件がある。使える魔術は一つだけ。それに対応した魔法陣を手の甲、もしくは手のひらに刻むことでついに魔術が使えるようになる。
この緑色の光を放つ魔術は治癒魔術。その中でも最も簡単な回復魔術らしい。
赤みを帯びていた少女の額が周りの肌と同化し、消える。
一連の出来事を一番間近で見ていた少女はきょとんとした表情でこちらを見つめる。
「……なんだよ」
「いや……唯一使える魔術に治癒魔術を選ぶなんて変わった人だなって思って」
確かにその通りかもしれない。大抵の人は四素因魔術とかいうやつの炎魔術を選ぶらしい。まあ炎であれば生活に使うだけでなく、使いようによっては護身術にもなるだろう。
「……職業柄、こっちの方が使い勝手が良かったんだ」
「へぇ」
興味なさそうに短く答える。それと同時にすっ、と立ち上がった。
「とりあえず、頭をぶつけたことは許してあげるわ。それじゃあ私はあっちに用事があるから、さよなら」
ぶっきらぼうに言って薬草屋のすぐ横、細い路地のほうに向かって歩き出した。
歩き出したと思ったら、
「あっ」
言ってこけた。
無様に地面をその全身で抱きしめている少女は即座に体を上げ、振り向き、涙目で顔を赤くさせながら、何かを乞うようにじっとこちらを見てきた。
その視線が何を伝えたがっているのかは考えなくても分かった。
「あーもう、面倒くさいな。足出せ、足」
地べたに腰を落としている少女に歩み寄りながら言う。
座ったままの状態で不機嫌そうに少女は右足を突き出してきた。
「何だよ、えぐれてるじゃないか。よくこの怪我で立って歩こうと思ったな」
真っ赤な血を流す右足。ちょうど脛の下あたりがえぐられたようになっている。思った以上に重傷だ。一体何がどうなればこんな傷がつくのか。
「そもそもの話、さっきの人混みはなんだ」
それが少し気になっていた。怪我をしたとすればさっきの人混みの中だろう。誰かに踏まれたか、誰かの荷物がたまたま偶然それなりに鋭利なものであって、それがたまたま偶然この少女の足に当たった、そんなところだろう。
「今日、女王様の誕生日だから、それで祝日で街中のお店がセールしてるから人が溢れかえってるみたい。それに巻き込まれた」
「ふーん」
適当に返事をしながら傷のあるところに手をかざす。先ほどと同じように呪文を唱えた。
傷口のあたりが緑色に発光し、傷口を塞いでいく。
半ばほど塞がったところで光は傷口に吸い込まれるようにして消えた。
「これが限界かな」
肩に掛けた鞄に手を伸ばして中から小さな瓶と包帯を取り出す。
瓶の中身を包帯にしみ込ませる。
「ねえ、なにしてるの?」
「ちょっと染みるぞ」
少女の問いには答えずに一つだけ断りを入れておく。包帯の瓶の中身、薬が浸み込んでいるところを傷口に当て、ぐるぐる巻きにする。
「っ……」
染みたのだろう。少女が少し顔をしかめさせる。
包帯の両端を結びながら、
「終わったぞ。痛むか?」
尋ねた。
「あんまり……痛くない、かも」
その言葉を聞くとすぐ立ち上がる。
「じゃあ僕はこれで」
短く別れの言葉を告げて立ち去ろうとする。あまり長い間家を空けるとまた母親が心配して探しに来そうだ。
そう思い歩き出そうとした足のズボンの裾を、何かが引っ張った。
「ちょっと待って」
「断る」
これ以上の面倒ごとはごめんだ。それにこの少女だってさっきはそそくさと逃げるように立ち上がっただろうに。
「君、職業柄治癒魔術を選んだって言ってたけど、何の仕事してるの?」
そのことを口にしたときは全く興味を示していなかったように見えたのだが、なぜ急にそんなことを尋ねてくるのか分からなかった。
「何でそんなこと聞くんだ。知っても意味ないだろ」
「いいから答えて」
その目は、その声はどこか真剣だった。何がこの少女をそこまでさせているのかは分からないが、答えてやるべきだろうとは感じた。
「薬師だ」
「そう、薬師ね」
繰り返すようにその言葉を口にすると少女は小さく俯いた。そして何かを決めたかのように「よし」と短く口から発した。
「君にお願いがあるんだけど」
「断る」
それこそ断る。お願いということは何かさせるつもりなのだ。そんなの嫌だ、面倒くさい。
それに他人に構っていられるほど暇じゃない。
「悪いけどそのお願いとやらは他をあたってくれ」
「君にしか頼めないからこうやってお願いしてるの」
まだ会って間もない人にそんなことを言われても。どこをどう判断してそう思ったのか。
「そんな風に言ってもそのお願いとやらは聞かないぞ。これ以上あんたに構ってる暇はないんだ」
それに、この少女が言うお願い事、何やら面倒ごとの臭いがプンプンする。根拠はないがそんな気がする。
この少女のことだって僕はよく知らない。世の中は悪い人間で溢れかえってる。それはこの国だって例外じゃない。詐欺とかそういう可能性も拭いきれない。
「そこまで言うなら分かったわ。一つゲームをしましょう? 君が勝ったらこれ以上は付きまとわない。私が勝ったら私のお願いを聞いてもらう。ゲームの内容は、そうね、君の考えていることを私が当てる。私が外せば君の勝ち。私が当てれば私の勝ち。どう? すごく簡単なゲームでしょ?」
人が勝負を申し出るのは大きく二種類に分けられる。一つ目はただの馬鹿。勝ち目のない勝負を提案してあっさり負ける。これが一つ目。二つ目は勝算があると分かっての申し出。この場合は負かすのは難しい。なんせ相手には勝ちの道筋が見えているのだから。
そしてこの少女は圧倒的後者だ。その表情にはすでに勝ち誇ったかのような色が浮かんでいる。
「いいだろう、その勝負受けるよ」
自信満々に答える。
自分には勝てない勝負を受ける奴には二種類ある。一つはただの馬鹿。もしかしたら勝てるかもとかいう甘い考えのやつがこっちだ。そしてもう一つ、勝ち筋を見出したやつだ。
「当ててみろよ、僕が考えていること」
この少女は僕の考えていることを答える。ただし、絶対に正解にはならない。たとえ考えていることを言い当てられたとしてそれを正解か否か判断するのは他でもない僕だ。
適当に、頭の中にあるものを浮かべる。赤くて、ちょっとすっぱくて、でもとっても甘い果物。
「君が考えていること、というか考えているものね、林檎でしょ」
自信に満ち満ちた回答。どうだと言わんばかりのどや顔。
本当に言い当ててきた。それ自体にはあまり驚かなかった。この国なら人の心を読み取る術なんていくらでもある。なんせ魔術大国なのだから。この少女が魔術を使っても不思議じゃない。
だがそれを正解と認めるかどうかは僕次第。
「残念ながら不正解だ。ついでに言うなら正解はオレンジ。果物のオレンジだ」
「なっ……」
「なんで違うの、魔術で見た筈なのに、って言うんだろどうせ」
反対に少女の思うことを言い当ててやった。魔術で見たというのはおそらく事実だろう。少女が回答を言う前に小さく何かを呟いたのを僕は見逃さなかった。
顔を赤面させて黙り込んでいる様子を見るに、図星だったのだろう。
ズルをしてまで言おうとしたお願いが何かは知らないが、はっきり言ってしまえば初対面の僕には全く関係のない話だ。
「これでいいだろ、じゃあ僕はもう帰るから」
帰ろうとした。自分には関係ないと心に言い聞かせ、泣きそうな顔の、翡翠色の宝石を濡らした少女を背にして帰ろうとした。
「そうやって、みんなみんな私のこと馬鹿にして。誰も信じてくれない。誰も私と一緒に行きたいなんて言ってくれない。人は助け合う生き物だってお母さんは言ってたのに、頼みごとをしたら快く引き受けてくれる人がいるって、そう、言ってくれたのに。みんな知らん顔して、無視して。君もそんな一人。もしかしたら、って思った私が馬鹿だったみたい」
その言葉に胸のどこかがズキリと痛んだ。
きっとこの感情は、親譲りだ。だからこの感情は殺してしまおうと思っていたのに。気持ち悪いから、偽善者みたいだから。
でもそれは、案外間違っていたのかもしれない。人には優しくしなさいと言い聞かせてきた両親が正しかったのかもしれない。
ズルをして生きているのは、自分も同じだ。感情に嘘をついて、薬師になったのだってそうだ。家を継ぐからなんて理由で、本当は人に優しくしたかったのかもしれない。
「……話だけなら聞いてやる。けど今日はお別れだ。明日の昼、そこの喫茶店で待ち合わせだ。いいな?」
驚いた顔をしていた。その顔を覆うようにして目に浮かんだ涙をグシグシと拭きながら、
「うん!」
元気な声で頷いた。
「じゃあまた明日ね!」
その声と一緒に少女は薬草屋の横の路地にその姿を消していった。