73.真実は泡のように
コレットがヴァイヤー診療所を開いてから一か月の月日が経っていた。昼夜問わず人の来る診療所で、主に診察、薬の処方を行っていた。エフォードらとも連携し、東西の病院で診察、コレットのもとに来て処方というやり方やその逆、コレットが診察し、彼女の手に負えない患者は東西の病院に搬送。そういうやり方が定着していた。
その一か月という月日がコレットをこの国に馴染ませた。一か月前までは天使様、天使様と言われるような状態だった。これにはコレットも少し戸惑っていた。
そんな風に人々から手を合わせられ、頭を下げられ、どこか人の世を逸脱してしまったかのようなコレットだったが、彼女も歳はまだ十八、魔女としても半人前だ。当然ミスもする。
階段で思いっきりすっ転んだり、薬を間違えて渡しそうになったり、薬を床にぶちまけたり。
その姿は人々の目には年相応の、ごく普通の女の子に映った。そこから彼女と人々の距離が縮まるまではそう時間はかからなかった。
§
夜、コレットは一人で薬品棚を一つ一つ指さしながら眺めていた。
「四十八番と、あと……七十二番も無くなりそう」
右手に持つメモ帳にさらさらとペンで何かを記す。
また同じように指さしながら薬品棚に置かれている薬を確認する。
「百三十三番も一応作っておいた方がいいかな……」
棚のほうに伸ばしていた手を右手のほうに落として同じようにペンを走らせる。
「コレット」
名前を呼ばれて振り返る。
そこには彼女と同じように白髪の、左目に黒い眼帯をつけた青年が扉のほうから顔を覗かせて立っていた。
「どうしたの? レヴォル」
「ああ、いや、何か手伝えることはないかと思って」
その言葉にコレットは短くうーんと唸る。
「今日はもう在庫の確認だけだから大丈夫だよ。ありがと、先に寝てて」
そう答えて顔を再度薬品棚のほうに向ける。
「分かった、無理はしないでね。おやすみ」
「うん、おやすみ」
レヴォルのほうをちらりと見ながら返事を返した。
ふと思い立ち、コレットは時計のほうに目をやる。すでに夜中の一時を過ぎていた。
五百種近くある薬の確認となると意外にも時間が掛かる。
「百六十二番、百九十四番……」
なぞるようにして順番に目を通していく。確認をするたびに左手に持ったペンを動かす。
さすがに寝る前に調合しておくというのは無理だろう。薬品を作るのにも薬草だったり木や花だったりそういうものが必要になってくる。
それらを買いに行くことを考えれば今日はこれが終わったら寝てしまうのもいいだろう。
そう思いながらコレットの指先は三百番台の薬品をなぞろうとしていた。
――チャリン。
扉の開く音がした。こんな夜更けに誰だろう、と思いつつも扉のほうに目を向ける。
「ごめんくださいな」
女性が立っていた。歳は、三十代ぐらいだろうか。艶やかで肩のあたりで綺麗に切りそろえられている黒い髪に、闇を閉じ込めたかのような紫色の瞳。その瞳から彼女が魔女であることはすぐに分かった。
「こんばんは、どこかお体で悪い所がおありですか?」
コレットが尋ねる。しかしその女性は無言でその場に立ちすくんでいる。彼女の読み取れない表情を作り出しているその目は、コレットのほうを真っ直ぐに見つめているようだった。
「あの、どうかされましたか?」
「……あなたが、『草原の魔女』ね。そう、あなたが」
女性はその後に小さくため息。
「期待はずれだったわ。毒を治療した魔女がどんなものか見てやろうと思ったのだけど、とんだ無駄足だったようね」
その一言が何を意味しているのか、コレットにはすぐ分かった。なんせこの件を片付けたのはコレット自身だ。この件に関して彼女以上に詳しい人間はいない。ただしそれは首謀者を除いての話だ。
「あなた、何者ですか」
声を低くして尋ねる。
――ちょっとやばいかも……。
コレットはどこか感じ取っていた。それは魔女としてなのか、それとも人間という一生物としての本能かは分からない。
しかし確実に分かっていることがあった。
――この女性、やばい。
その考えに至るだけで精一杯だった。それ以外の言葉が見つからなかった。
「私が誰か、ね。別に答えてあげてもいいわよ」
その回答はコレットにとって少々予想外のものだった。もしこの女性が毒をまき散らした犯人だというのなら名前を教えるなんてことはするべきではないはずだ。
「私はファム。ただの魔女よ」
にこりと笑ってファムと名乗った女性は言う。
「あなたの、目的は何? 人を殺すこと?」
一つずつ、彼女の考えを探り出すように質問を投げかける。
「目的ね。言ってもあなたみたいな三流魔女には分からないわよ」
「なっ……」
その言葉をコレットは否定できなかった。彼女はまだ十八歳だ。魔女になってからまだ三年しか経っていない。魔術の腕も一流どころか二流にすら届いていない。
対する相手は、その容貌から魔術の腕はいいというのは見て取れる。その妖艶さ、不思議さ、いろんなものをひっくるめてその女性が一流の魔女であることはすぐに分かった。
「でもいいわ。特別に教えてあげる。あなたも器だったみたいだし、ひび割れを直せばまた使えるかもしれないわね。だったら私の考えを聞いてもらってあなたに決めてもらうしかないわ。
とりあえずあなたの質問にだけ答えるわ。教えてあげるのは毒をまき散らした理由でいいかしら?」
コレットは小さく首を縦に振る。
「分かったわ。毒をまき散らした理由ね。
とりあえず言えることは毒をまき散らしたこと自体には大した意味はないわ。あれは魔術の痕跡をカモフラージュさせるためだもの。ウィケヴントの種とズベミナを混ぜた毒を飲んだ人間にはどういうわけか魔術痕が残るの。それを今回は使わせてもらったわ。
正直、あんなおぞましい症状が出るとは思わなかったけど。その現象を使ってまで隠したかったものも一応教えてあげるわ。一言で言ってしまえば、ただの器探しよ」
「器……?」
先ほども出たその単語。コレットもその単語の重要性には薄々感づいていた。しかしそれが何を指すのか、何の器なのかは分からなかった。
「もっと簡単に言えば、ワルプルギスの器かしら」
そこまで言われてしまえば嫌でも気づいた。コレットのことをファムはひび割れた器と表現した。
「まさかあなた、あの災厄を……?」
ファムがにたりと笑った。
ファムの目的はつまり、ワルプルギスの夜と同様の災厄をもたらす器を探し出すこと。ワルプルギスの夜も一人の魔女が原因で引き起こされたとされる。
この時、コレットの中で全てが繋がった。事態が収束したのちに起きた事件。一人の少女が失踪したその出来事の意味。
「それで女の子を見つけた器として攫ったのね?」
「そうよ。それが私の目的。その器を探すために使った魔術を隠そうと思って毒をまき散らしたの。これでいいかしら?」
「ワルプルギスの夜をもう一度引き起こそうとする理由は……?」
さらに踏み込んだ。踏み込む必要があった。
「そこまで教えると言った覚えはないけど、あえて言うならこの世界のためよ」
「世界の……ため?」
そんなはずがない、とコレットは思った。人を大量に殺すことのどこが世界のためなのか。
「もしあなたが私と一緒に世界を救いたいというのなら、ついてきなさい?」
そう言ってファムは真っ直ぐこちらに手を差し出す。
世界を救う、その言葉にコレットは強く魅了された。できることなら世界を救ってみたいし、救いたい。
けれどその差し出された手はコレットにはどこか薄汚れていて、鉄の匂いがして、赤く見えた。
「その手は取れない。あなたのやり方は間違っていると思うの。あなたの詳しい事情は知らない。けど世界を救うために災厄をもたらして人を殺すのって、なんか、おかしいと思う」
その回答は、ファムにとっては想像通りだったのだろう。コレットの言葉を聞くや否や、「あなたはそう言うと思ったわ」と言って、少し寂しそうにその場からふわりと姿を消した。
一人部屋に取り残されたコレットは自分の中に、頭の中におかしな違和感を覚えた。
「あれ?」
――私は一体、
「誰と話してたんだっけ?」
頭に浮かんだ真実という名の泡は、その時音もなく弾けて消えた。