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赤い夜に、魔女は泣く  作者: 与瀬啓一
第5章~ウィケヴントの種~
70/177

70.慕われたくて

 思わず鼻を抑えたくなる臭いがこもっている調合室の机の上には十二本の試験管が、木製の試験管立てにきれいに並べられていた。手前側に六本、奥側に六本。


 手前側はどれも透明で透き通っている。これがさっき持ち込まれたウィケヴントの種を使って作られた毒だ。それぞれがカゼトリソウ、ズベミナ、パモキアの花、ナンナ、ミパンレラ、ホワイトブルームといったそれ単体でも十分強力な薬になるものと調合されている。


 その後ろに置かれているのがそれぞれの毒に効く薬。本来ならば毒の成分を調査、解析してその成分を突き止めなければ薬は作れないため、一つ作るだけでも多大な時間と労力を要する。しかし私にとってそれをする必要はない。毒や薬の成分を示す、そういう魔術が存在するのだ。


 この魔術のおかげで成分の解析や調査といった工程を短縮して薬を作ることができる。


 それぞれの薬は赤や緑などの色とりどりな色をしており、調合室にある申し訳程度の小窓から入ってくる太陽の光に照らされ、それぞれがまた少し異なった独特の色合いを醸し出している。


「飲むだけでいいんだな?」


 不安げなレヴォルの声が室内に響く。


 私のお願いを彼は快く引き受けてくれた。普通だったら断る。この実験の実験台になるということは下手をすれば命を落とすということだ。普通だったらこんなお願い、引き受けないだろう。私だって渋る。


 しかし彼は引き受けた。どうやら彼には他人本位な考え方があるように思える。自分より他人を一番に考える考え方。他人の幸せを願う心、そういうものを彼は持っている。誰かの為なら、自分の何かを捨てることができるのだ。今この場で言うと、この国の国民を救うために自分の命を差し出している。そうするだけの価値がある、そう判断したのだろう。


「飲むだけで大丈夫。もし様子が明らかにおかしくなったら私が薬飲ませるから。安心して、って言っても無理かもしれないけど、大丈夫。私に任せて」


 少しだけ見栄を張った。正直なことを言うと、さっきから足の震えが止まらない。私が少しでも間違えてしまえば彼は死ぬかもしれないのだ。それが、怖くて仕方がない。


 それでも、やらなければならないのだ。ここで引いてしまえばこの国の人たちは助からない可能性が高まるし、なによりレヴォルの優しさを踏みにじることになる。


「じゃあ、一本目から……」


 そう口にして木製の試験管立てから毒の入った、一番右側の試験管を抜き取る。その小さな水面を細かく揺らめかせる試験管をレヴォルに手渡す。


 試験管を受け取ったレヴォルはそれを少しだけ凝視してから、覚悟を決めるようにその中身を口の中に流し込んだ。




§




 運よく二本目で当たりを引いた。


 一本目はというと、全身に発疹が出ただけで死に至るようなものではなかった。薬を飲ませればその発疹も引いていき、元通りに戻った。


 そして二本目。ウィケヴントの種とズベミナの組み合わせ。あからさまだった。その毒を口に入れた瞬間、もっといえば試験管が唇に触れた瞬間、レヴォルはその目を血走らせ、体が震えはじめた。顔が焼け(ただ)れたように赤くなっていき、手に斑点が現れ始めた。


 その全ての症状が出たことを確認すると床で体を痙攣(けいれん)させ苦しんでいるレヴォルの口に薬を流し込んだ。薬を飲んでしばらくすると痙攣(けいれん)は治まり、斑点と顔の赤みも引いていった。


 口元に手を当てる。息はある。ただどうやら気を失っているようだ。目が覚めるまで寝かせておこう。たしかまだ下の階に空きベッドが一つだけあったはずだ。


 そう思い、レヴォルを背負おうとして立ち上が……れなかった。


「あれ?」


 足に、というか腰に力が入らない。


 これは参った。完全に腰が抜けている。


「……どうしよう」


 現在この部屋には私とレヴォルの二人しかいない。誰か人を呼ぼうにも、実験に集中できるようにという無駄な計らいでエフォードらは下の階の患者のもとに行った。


 結構ざわついている空間だし助けを呼んでも来るかどうか。


 自分では動けない。レヴォルが目を覚ますのを待つしかないようだ。


 本当のことを言えば、待っている余裕などない。今すぐにエフォードにこの実験結果を伝え、早急に薬を大量に用意しなければならない。


 しかし身動きが取れないようではそれもどうしようもない。



 ピクリ、とレヴォルの眉が微かに動く。


「レヴォル? 目、覚めた?」


 その質問に答えることはなかったが、代わりにうっすらとレヴォルはその瞼を持ち上げた。


「コレッ……ト? 僕はどうなって……実験は?」


「うん、毒は判明したよ。あとはこれをエフォードさんに伝えて薬をたくさん作るだけ」


「伝えに行かないのか?」


「えーと……」


 腰が抜けたとか恥ずかしくて言いにくい。だからといってそのままにしておくわけにもいかない。


「もしかして腰が抜けた?」


 体を起こしながらレヴォルが言う。


「まあ、はい。そんな感じです……」


 そう言って笑って誤魔化す。魔女ともあろうものがこの体たらく。ツルカに話せばさぞ笑いものにしてくれるだろう。そうはならないことを祈る。


「まったく……」


 レヴォルが起き上がり腰をかがめた状態で背を向けた。両手を低くこちらに伸ばす。


「ほら、負ぶってあげるから」


 その状況を瞬時に飲み込めなかった私はぽかりと口を開けた状態で目をぱちくり。


 次の瞬間、恥ずかしさでみるみる顔に熱がこもる。


 しかしまあ、今はこれ以外に方法がないのはたしかだ。


「ごめん、お願い……」


 恥ずかしさをひた隠すように、なるべく淡々とした口調でそう答えた。


 別に負ぶられることが恥ずかしいわけじゃない。……いや、嘘を言った。負ぶられるのも恥ずかしい。それと同時に、これから人の命を救おうという魔女が負ぶられた姿で大衆の前に身をさらすということを考えると、余計に恥ずかしさに拍車がかかる。


 それに、だ。やたらと顔が近い。


 負ぶられること自体は初めてじゃない。最初のデートでは移動は全部この形だったのだ。ただ異なっているのは、見えているか、見えていないか、ただそれだけ。しかしただそれだけが大きな感情の変化を生んだ。


 冷静になろうとした、平静を保とうとした。しかしどうやっても心はざわついて、鼓動は激しくなって、この鼓動がレヴォルに伝わっているんじゃないかと不安になって、また激しくなって。


 その心臓の動きが早くなったせいか、顔だけでなく体全体が火照る。


 そんなことを考えているうちにどうやら階段を下りていたようで、人々の、主にエフォードらの視線が刺さる。


「コレット様!? どうかなされましたか!? まさかご自分も毒に……!!」


「わっ、私のことはいいので! とりあえず! 薬が完成しました。製法は魔術を使わない、一般的な調合方法で行うものです。ウィケヴントの種とズベミナの根を大量に用意してください。それとごめんなさい。全部投げる様で申し訳ないのですが、あとはお任せしてもいいですか?」


 これ以上は羞恥心に耐えられなかった。そのエフォードの勘違いも訂正しなければ。


「コレット様……ご自分の身のことよりもこの国の国民のために……! 分かりました、このエフォードにお任せください!」


――ああ、もういいや。


 ここまで言われると訂正するのも、なんというか、面倒くさい。


「それじゃあ、私は奥の部屋で休んでいるので……」


 大変申し訳ない。


 ただただ腰が抜けただけなのだ。別に毒にやられたわけではない。あとのことを全部投げるのは本当に悪いと思うのだが、エフォードなら大丈夫だろう。たぶん。


 負ぶされた状態で、奥の部屋に入る。部屋というか、ただの診察室だ。簡素なベッドが置かれている。そのベッドとは反対側に木製の机が置いてあり、横には観音開きの棚。中にはいくつかの薬品が並べて置いてある。


「よいしょ、っと」


 その掛け声とともにレヴォルが私をベッドに丁寧に下ろす。


「ごめんレヴォル、運んでくれてありがとう」


「いいよ。どのみちこうしないと話は進まないんだから。まだ立ち上がれそうにない?」


 そう尋ねられて足と腰に力を入れて、お尻をベッドから引きはがそうとする。


 まるでベッドに根でも張ったかのように動けなかった。


「まだ無理かも……」


「じゃあそこで休んでて。僕はエフォードさんの手伝いをしてくるから。事態が収束し始めたらまた来る」


 そう言い残して出て行った。


 私一人になった診察室には、暗い室内で鼻に残る薬品の臭いだけが漂っていた。


――本当にこれでよかったのだろうか。


 心のどこかにあった小さな不安が、暗闇を浴びてその芽を膨らませ始める。


 普通に考えて、何一つ不安に思うことは無いはずだ。薬がもう作れるのだから、これ以上あの発作で苦しむ人が出てくることは無いのだ。それなのに、私はなぜ不安に思っているのだろうか。



――慕われるのが怖いんだろう?



「え?」


 誰かがそんなことを言った、ような気がする。


 私はそこを知っていた。その真っ暗な世界を。どういうわけか薄暗いだけだった診察室はいつの間にか果てしない黒い世界にその姿を変えていた。


 そして私がぼんやりと見つめる方角に白い靄。何の形をとることもなくふわふわと宙に浮いている。


『慕われるのが怖いんだろう?』


 先ほどと同じセリフが、今度は明瞭に聞こえた。


「なんで、そう思うの?」


『なんでも何も、俺はお前の負の感情だ。感情そのものになぜそう思うのか、などと問いても意味は無かろう?』


 確かにその通りだ。感情にこれを問うのは、生きている人間に対して「なぜ生きている」と問いを投げかけるようなものだ。


『魔女というのは負の感情に弱い。少しの悲しみでも、怒りでも、嫉妬でも、絶望でも、すぐにその身を食い散らかして肥大化する。人間を助けるという大役を背負った手前、自分のそういう感情の変化に気づきにくいのだな』


「……あなたは、また私を侵食するの?」


 侵食、つまりは私自身を『ワルプルギスの夜』のような災害にすること。彼にその意思があるのか確認する必要があった。


『隙あらば、な。俺たちはそういうモンだ。

 誰もが負の感情は抱えるものだ。どんな聖人であっても、どんな偉人であっても。しかしそういう人間は侵食できない』


「どうして?」


『負の感情そのものに侵食する意思がないからだ。そういう風に出来てる。いつからかは知らんがな。意志を持って侵食を行うのは魔女に巣食う負の感情だけだ。誰かが魔女をそうあるべきだと決めつけたんだよ』


 どこか寂しそうに漂うその靄の言葉に私は違和感を持った。


「なんで、そんなことを教えてくれるの?」


『……負の感情の反対は、何か分かるか?』


 質問を質問で返され、言葉に詰まる。


「えっ、と……正の、感情?」


『そうだ。負の反対は正だ。

 感情っていうのは一枚の紙みたいなものだ。小さな風で、些細なことですぐに裏表がひっくり返る。俺もそうだ。慕われたいという感情が強まって、空回って。それが俺だよ。そうして生まれた感情が俺なんだよ』


 慕われたい、そういう感情が自分の中にあった事に驚いた。私自身、多くの人に慕われていると考えていた。レヴォルやツルカ、ダイナ、ジークハルト、アウリールやエフォード。彼ら彼女らに慕われていながら、私はなお慕われたいという感情を抱いていたのだ。それがどうやら転じて慕われることに恐怖を感じていたらしい。それがこの靄。


 いったい慕われることの何がそんなに恐ろしいのだろう。


「私は、慕われることの何にそんなに恐れを感じているの?」


『熱した鉄は冷めやすいんだよ。それと同じだ。多くの人に慕われたら、その分失うことを恐れるのが人間だ。親密なものほど失ったときに悲しくなるのはそういう理屈だ』


 失うことに恐れをなしている。なるほど、そうかと思う。


 その答えが実にしっくりきた。


「あなたが負の感情だというなら、私はどうすればいいの? 形になるほどなら、そのまま大きくなっていくんじゃないの?」


 その靄は自分は負の感情だと言った。だとすればまた私を侵食してくるはずではないのか。


『そいつはどうだろうな。あんたはもう、その辺は大丈夫だろう』


「どういうこと?」


『そのままの意味だ。あんたの中には肥大化するような負の感情はたいして残っちゃいない。俺も直消える。慕われたい、ただそれだけの感情に戻る。

 俺は、そういう感情があったってことを知ってほしかっただけなのかもしれん。魔女コレット、多くの人を愛せ、多くの人から慕われろ、多くの人から愛されろ、多くの人を慕え。そうすればお前はもう呪いに負けることはない。失うことは恐れるな。大丈夫、お前の周りから人が奪われることはもう無いはずだ』


 闇に霞み始めた靄はその声すらも暗闇に溶かし始めた。


「あなた、本当は誰なの?名前は、なんていうの?」


『さぁな、名前なんてもう忘れたよ。ただ、そうだな……どこかにいたかもしれない、一人の盲信者とでもいっておこうか』


 その言葉を最後に、白い靄は完全に消え、そこには暗闇だけが広がる。



 気がつけば、元の診察室に戻っていた。頭がぼんやりしている。どうやら眠ってしまっていたようだ。


「さっきのは……夢?」


 その夢は、今まで見てきた暗闇の夢とは違って、温かかった気がする。


 その時、コンコンとノックされる音がした。そちらに顔を向けると少しだけ息を荒げたレヴォルが扉を開けて突っ立っていた。


「レヴォル?」


「……君は本当にすごいな。コレットが作った薬のおかげで、全員持ち直したよ。意識がなかった人も意識を取り戻した。全部君のおかげだ。少なくとも、この病院の中には発作を起こしている人はいない」


 信じられなかった。いや、彼の言葉が信用できなかったわけではない。しかし信じられなかったのは事実だ。


「ほん、とに?」


 そう呟くと足に力を入れて思い切り立ち上がり、大きな音を立ててドアを押し開けた。


 その光景は、どこか私にとって輝いて見えた。きっと、喉から手が出るほど見たかった光景。誰もかれもが、目を覚ました家族に笑いかけ、嬉しさのあまり涙し、医師たちも安どの表情を浮かべていた。


 その中から女の子が一人、こちらに駆け寄ってきた。その顔は泣き腫らして赤くなった目じりを隠すように満面の笑みを浮かべていた。


「びょーきにきくおくすり、おねーちゃんが作ってくれたんでしょ?パパを助けてくれてありがとう!」


 さらにニカッと笑う。


 その表情が、私に向けられた笑顔が少し怖かった。別に不気味な笑顔だったとかそういうのじゃない。ただ、この笑顔を向けられることによって、また自分が傷つくことになるんじゃないかと、それを恐れた。


――多くの人を愛せ、多くの人から慕われろ、多くの人から愛されろ、多くの人を慕え。失うことを恐れるな。


 名も知れぬ誰かの言葉が頭をよぎった。


 きっと、前向きに生きろと彼は言いたかったのだろう。前向きに、失うことは考えない。今ある現実を、この幸福な時間を、大事にする。


「ありがとう、本当にありがとう」


 私に感謝してくれて、私を慕ってくれて、私を必要としてくれて、ありがとう。


 女の子と同じ目線まで腰をかがめると、ギュッと抱きよせる。


「おねーちゃん?」


 不思議そうな声をしていた。


「泣いてるの? おねーちゃん」


 いつの間にか溢れ出したそれは、頬を伝い、流れた。


 それがどうして流れたのか、私には分からないままだった。ただただ、女の子に(すが)るようにして静かに泣いていた。


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