64.正直になって
痛みは感じなかった。
ただ目の前で何かが起きて、それはすでに終わっていた。
声だけが聞こえてきた。
「ちょっと、レヴォル! あなた大丈夫!?」
ツルカの声だった。いや、そこはどうでもいいのだ。大事なのはその言葉の内容。
「レヴォ……ル?」
レヴォルの身に何かあったのはすぐに分かった。その声が、音が、風が、その室内で起きたことを全身に伝えてきた。
「レヴォル? ねえ、レヴォル!? 返事して! ねえ!」
必死に叫んだ。
必死に体をゆすった。
怖くなった。また自分のせいで誰かを失ってしまうのだと。
だから何かしらの反応を求めた。息さえあれば自分が何とかする。絶対に死なせまいと。
「……君は、横着だな」
「え?」
その目には、右目だけを苦しそうに開いて、少しだけ体を持ち上げるレヴォルの姿が映っていた。
――生きてる。
目の前にいる彼はその目を開き、息をしている。
「レヴォル……生き、てた……良かっ、た……」
「ちょっ、コレット!?」
首元に飛びつくようにしていろいろなことを確認する。
その温かさを感じた。いつもいつも私を包んでくれた温かさ。その鼓動を感じた。どういう訳かそれは激しく脈打って、はち切れそうなほどの音を上げていた。視線を感じた。少し困ったような、それでいてどこか安心しているような。
――生きている、生きている。
死んでなどいなかった。
「良かった……本当に、良かった」
目が焼けるように熱かった。その目からさらに熱いものが延々と湧き出るように流れ続けた。
「……その様子だと、目は見えているみたいだね。良かった」
その事実に気がついたのはその言葉から二秒ほど経ってからだった。
今の今まで気がつかなかった。
自分のことを気にしている余裕がなかったと言ってしまえばそれまでなのだが。
今までその視界を覆っていた闇は消え、光が、色がその世界を満たしていた。
「ほんとだ……見えてる……」
はっきりと映っていた。窓から光の入る室内。横に置かれた魔法陣のようなものが描かれた大きめの紙。どこかニヤニヤとした表情でこちらを見つめる一人の少女、おそらく彼女がツルカだろう。声から想像していた通りの容姿をしていた。
そして自分の下で、というか目の前で、困ったように笑っているレヴォル。……自分の下で?
今の状況に後れを取っていた頭がようやく追いついてくる。ツルカのそのニヤニヤとした表情の意味が、今なら分かる。
今の状況はこうだ。
寝そべっている、というか倒れているレヴォルの顔の両側に手をつき、胴体にまたがって、これからキスでもするんじゃないかという姿勢。
「あっ、こっ、これはその、違くって……!」
耳が、そして頬が熱くなり、その熱が顔全体に広がる。額に冷や汗が浮き上がる。
「大丈夫、コレットが僕のことを心配してくれたのは分かってるから」
なんというか、その優しさが今は余計に恥ずかしい。
「それで、ツルカさんはいつまでニヤニヤしてるんですか……」
未だに私たちを眺めてニヤニヤした表情を浮かべているツルカに言う。
「あ、私にお構いなく、続きをどうぞ?」
「からかわないで下さい……」
誰がどう見てもツルカはこの状況を面白がっている。確か、八十年近く生きているはずなのだが、中身は見た目相応という事だろうか。
立ち上がって、横にあるベッドにすとんと腰を掛ける。
「その様子なら、問題点も大した問題点になりそうもないわね」
にこりと笑いながら、ツルカは小さく笑った。
「結局何なんだ、問題点って」
おそらく事前に説明を受けていたであろうレヴォルがツルカに尋ねる。
「そういえば言ってなかったわね。この魔術ね、距離が離れると効果が消えるのよ。これはあくまで予想でしかないんだけど、半径五百メトル。それ以上離れるとコレットはまた何も見えなくなって、レヴォルはその左目が見えるようになる。でも解決策はあるわ」
「その解決策とは何だ?」
「あなたたち、結婚しなさい」
一瞬時が止まった、と思う。
その一瞬の静寂はそう錯覚してしまうほどに長く感じた。
「ちょっ、ちょっと待ってください……何でそうなるんですか」
色々と過程をすっ飛ばしすぎじゃないだろうか。いきなり結婚しろと言われても、第一レヴォルとは交際しているわけでもないし、どちらかがプロポーズしたわけでもない。
別に嫌というわけではないのだが。
はい喜んで、と言いかけた自分がいるのが少し恥ずかしい。
床を見ると上体を半分ほど起こしたレヴォルが珍しく顔を真っ赤に染めている。
「僕たちは別にそういう関係じゃ……」
「だったら今すぐあなたがコレットに告白しなさいよ。好きです、結婚してくださいって」
なんだって?
「コレットは自分の気持ちに結構正直になってたわよ。デートに誘ったりとか。あなたもその気持ちに応えなきゃ、ね?」
ちょっと待ってほしい。今告白されるというのはなんというか、ダメだ。
同じことを言っているようであれだが嫌ではないのだ。ただ心の準備がちょっと……。
「コレット」
「はっ、はい!?」
いきなり名前を呼ばれた。その声はいつもの柔らかい彼の声とは違い、どこか硬さを感じた。
まだ心の準備が整っていない。というか、何一つ整っていない。シチュエーションも何というか地味だし、私自身も帽子は外しているが、いつもの黒いローブ姿だ。さっきまで寝ていたせいか少しだけ寝ぐせも立っている。
髪にくしを入れるぐらいの猶予はもらえないだろうか。
徐々に激しくなる鼓動を抑えようと両手を胸にあてる。その腕をがしりと何かがつかんだ。
「へ?」
「ごめん、コレット。ちょっとついて来てくれないか?」
私の腕をつかんだまま、レヴォルは引っ張るように部屋を出て、急に走り出した。
「ついて来てってどこに!?」
扉が後ろでパタリと音を立てて閉まった。
その音に見送られるようにレヴォルに腕を引かれるがまま、彼の走る少し後ろをしがみつくように走った。
§
パタリと扉が閉まった。
一人部屋に取り残されたツルカは、小さくため息をつきながら床の魔法陣が描かれた紙を回収する。
「若いっていいわね」
扉のほうを眺めながらぼそりと呟く。
コレットの瞳の色はその黒さを失くし、赤い色、つまりある程度正常な色に戻っていた。
これならもう、大丈夫だろう。きっと幸せに生きてくれる。
レヴォルもいるのだから間違いないだろう。
「幸せになりなさい。私のシンデレラ」
言いながら紙を小脇に抱えてその小さく開かれた扉に体を通した。
誰もいなくなったその部屋は、昼の日差しのせいか、少しだけ暖かかった。