62.燃える海に、魔女は決意する~4~
初めて独りぼっちになった。
両親がこの世を去った。好きな人が目の前で死んだ。信頼していた親友が自分を置いていった。
それだけじゃない。
この城からは生命という生命がすべて消えてしまった。毎日のように美味しい食事を作っていた料理長も、すれ違えば微笑みかけて挨拶してくれる侍女も、城の中庭に居座って花壇や樹木の手入れをしていた庭師も、みんなみんな、死んでしまった。
「なんで……なんでよ……」
涙を流すというやり方でしか、ツルカには感情を表すことができなかった。
その涙が悲しみによるものなのか、怒りによるものなのか、そんなことも分からないぐらいに、ぐちゃぐちゃに、嗚咽を漏らしながら、声をあげて泣いていた。
どうしたらいい。これから何をすればいい。何を頼りに生きればいい。そんな疑問にもならない疑問が心の中に浮かび上がって感情を圧迫する。
今まで感じていなかった不安感が、その涙を増加させた。
「アーロント、どうしてこうなったの……。他に、道は用意されていなかったの……」
ツルカは後ろを振り向き、未だ氷に閉ざされたまま息絶えている、かつての従者に尋ねた。
もちろん、返答などない。
――誰か私に、これから歩く道を与えてくれないか。
そう、切に願った。
願うしかなかった。
目の前の道は閉ざされていた。落とし穴が作られたかもしれないし、そこはもともと崖だったのかもしれない。
ただ、そこに道は続いていないのは確かだった。
ツルカは道の作り方を知らない。だって今まで、道は用意されていたから。
王女という身分に甘えて、大事な部分を放棄していた。現実から目を背け、夢ばかりを追いかけていた。
結果がこれだ。
誰も救われない、誰一人救えない今この時が、ツルカの人生そのものなのだ。
――魔法使いになるんでしょう?
つい数分前に聞いたはずの言葉が、頭の中に響く。
――魔法使いになりたくないの?
なりたかった。できる事なら魔法使いになって誰かを幸せにしたかった。
――魔法使いにならないの?
ならないんじゃない。なれないんだ。こんな自分本位で生きてきた人間に、誰かを幸せにするなんてできない。幸せにしたいなんていう感情は、魔法使いになった将来の自分を描くための材料でしかなかった。ただの偽善でしかないのだ。
――偽善でもいいじゃない。善に変わりはないでしょ? 誰かを幸せにする者は、往々にしてその偽善を貫き通した者よ。
自分にはそんなことはできない。覚悟が足りないし、一人では何もできないちっぽけな人間なのだ。
――一人だからやらないの?
そうだ。一人じゃ何もできないんだ。私は一人じゃ魔法使いにはなれないんだ。
――だったら私が、背中を押してあげる。どうしようもなく根性なしな、どこかのメルヘン少女さんのために、私が最後に背中を押してあげる。
コツ、コツと聞き覚えのある靴音がした。それはついさっき、ツルカを置いて遠ざかっていった足音だった。
「あなたがいつまでもうじうじしてるから、戻ってきちゃったじゃないの」
「アデライド……」
自分を置いて行った親友の名を口にする。
親友は未だに座り込んでいるツルカに右手を差し出した。
「とりあえず、いつまで座ってるの。立ちなさい。立たなきゃ前に進むこともできないわよ」
その顔は、少し笑っているように見えた。
「あり、がとう」
涙が溢れ続ける目元を拭ってから、ツルカはアデライドの手を掴む。ぐいっ、と引っ張られるようにして立ち上がる。
「あなた、魔法使いになるんでしょ?」
ツルカにとって三度目の質問だった。
「私には、無理よ。魔法使いみたいに孤独と戦うなんて、できっこない」
「だから私が背中を押しに来たんじゃない。絶対に会わないと思ってあなたに背を向けたのに。わざわざ引き返してまで。
いい? よく聞きなさい。そもそもあなたは別に一人じゃないのよ。確かに、これからあなたが進むであろう道は、一人旅になるかもしれない。けれどそれも完全じゃない。
きっと誰かがあなたを支えるわ。フィアル村の人や、その周辺の村や町に住む人だっている。本当に困ったらその人たちを頼ればいい。あなたは頑張れる人間よ。努力ができる人間よ。それは私が一番よく知ってる。
だからこそ、確信してることがあるの。あなたはやればできる子だ、って。前を見なさい。あなたの目の前にあるのは、落とし穴でも崖でもない。道が途切れているわけじゃないの。あなたの前にあるのは生い茂る森よ。それを自分の力で切り開きなさい。
涙を拭いて、足を動かして、前に進みなさい。あなたにはそれができる。あなたの一番の親友からの言葉よ。だから大丈夫。躓きそうになったら私の言葉を思い出して」
未だに目からこぼれる涙が止まらないツルカを、微笑みながらアデライドは優しく抱擁した。
「私に、できるかしら……」
「さっきから言ってるじゃないの。もう一度言わないと分からないかしら?」
その言葉は、まるでわが子に向けられるかのような包容力があった。
「……それじゃあ、こうしましょう?」
そう言ってアデライドは左手を突き出し、その小指を真っ直ぐ上に立てた。
「なに? これ?」
「いいから、ツルカも同じようにやってちょうだい」
その言葉と一緒に、アデライドの右手が沈むようにぶら下がっているツルカの左腕をとった。
わけの分からないまま、持ち上げられた左手の小指をアデライドがそうするのと同じように立てる。
それを確認すると、アデライドは自分の小指でツルカの小指を軽く握った。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った」
たったそれだけの、ツルカには聞き覚えのない歌と一緒に、アデライドはその左手をツルカの左手と一緒に上へ下へと動かした。
「なんの歌?」
「約束をするときのおまじないよ。大丈夫、本当に針を飲ませるつもりなんてないから」
にこやかな笑みを浮かべながらアデライドが言う。
「……変なの」
ツルカの顔からも、自然と笑みがこぼれていた。
「多分、もう大丈夫。あなたの言葉で勇気が湧いた。覚悟ができた。本当にありがとう」
一人だと思っていたのはツルカだけだったのだ。勝手に一人だと思い込み、視野を狭めていた。
「もう、私がいなくても大丈夫ね。これで本当にお別れよ。もし、どうしようもなく私の声が聞きたくなったら、いつでも私の家に来なさい。それと、アーロントのこと、本当にごめんなさい。あなたの気持ちを知っていたのに、あんな結末しか選べなかった。本当にごめんなさい」
アデライドが深々と頭を下げる。
「それは、もういいの。仕方がなかったんでしょう? 大丈夫。あなたが人を殺したくて殺すような人じゃないのは知ってるから。アデライドの方こそ、自分を責めないで。笑顔でお別れしましょう?」
「……引き留めないのね」
「引き留めてほしかったの? ……あなたが一度決めたことは貫き通す頑固者だってことぐらい、私だって分かってるんだから。さようなら、アデライド。私の一番の友達……」
アデライドがそうしたように、ツルカもその腕でアデライドを包み込んだ。きっともう、会うことはないかもしれないと思いながら、彼女の温もりを確かめるように。
「ええ、さよならツルカ」
耳元で、囁くように小さく口を動かした。
アデライドは、ツルカの首元に回していた手を解くと、背を向け、黒いローブをはためかせながら、つい先ほど見た光景と同じように、いや、少しだけ軽快な足取りでその場を去った。
その後姿をツルカはぼんやりと眺めていた。
――そういえば、パフェ、奢り損ねたな……。
感謝を返す機会を完全に失ってしまった。しかしまあ、アデライドはいつでも会いに来いと言っていた。
もし、会いたいと思う時が来たら、この国のではないが、パフェを奢ってやろうと思う。
そんなことを思いつつ、アデライドの言葉を思い出す。
アデライドは言ってくれた。一人ではない、と。その言葉が、たったそれだけの音が、ツルカには十分すぎるほどの励ましだった。
頑張ろう、という気概になれた。この国を一人で背負っていく覚悟もできた。魔法使いになってやろうと、心に決意した。
ただ一つだけ、ツルカの中では未だにふらふらと揺れ動く感情があった。
後ろを振り返る。
そこには誰もいない。誰もいないが、彼はずっとそこにいた。
「本当に、大好きだったんだなあ」
その氷像に近づき、そっと手を添える。
――冷たかった。
その氷は、今まで感じたことのない冷たさを放っていた。なんの温もりもない。そこでようやく本当の意味で実感した。アーロントは死んだのだ、と。
いつだって傍に居てくれた。いつだって微笑みかけてくれた。困ったときは助けてくれた。誕生日にはプレゼントを用意してくれた。私の好きな花を知ってくれた。私の愚痴を聞いてくれた。私の、全部を受け止めてくれた。
きっかけは簡単なものだったのかもしれない。それでもツルカは、その年月の中で少しずつ、確実に彼に惹かれていた。
この気持ちだけは、なかなか整理がつかなかった。
魔法使いになるために、誰かを幸せにするために、変わらなければならなかった。多くのことに決意をし、覚悟を決めた。
でもこの気持ちは、この気持ちだけは失くしたくなかった。それは、覚悟が足りないということになってしまうのだろう。
アーロントは裏切り者だ。そんな彼への気持ちを引きずって、なんになるというのか。
何にもならないのだ。ずっとずっと、その気持ちのせいで足を引きずることになるかもしれない。もしかしたらそのことで障害が生まれるかもしれない。
それでも、ツルカはこの気持ちを手放したくなかった。
ツルカは氷に触れた手を今度は自分の胸にあてがう。
――温かかった。
当たり前かもしれないが、そう感じた。自分が生きていることを確認した。死者の想いを継ぐのが生者の使命、みたいな台詞を何かの本で読んだ気がするな、と一瞬考える。
「大好きだったわ、アーロント。そしてこれからも大好きよ。ずっとずっと、あなたのことだけは絶対に忘れない。だから、ね? 安心して、眠ってちょうだい」
それだけ言うと、目を瞑り、わずかに冷えた空気をその肺に送り込んで、ゆっくり吐き出すように呪文を唱えた。
「感情凍結」
その呪文はとても短い、たったそれだけの音の繋がりでしかなかった。
けれどそれは、ツルカがこの一瞬で思いついた、いわば大魔法に等しいものだった。
――感情の、凍結。
ツルカ自身もなぜそんなものが一瞬で頭に浮かんだのかは分からない。魔術というのは呪文が分かっているからといって、詠唱したらその詠唱にそぐう事象が必ず起こるというものではない。
それなりの鍛錬が必要になってくる。要するに、魔術を行使する上でその呪文がどれだけ命令という形で精霊に届けられるのかが重要だった。
ツルカが唱えた魔術は、感情を表す”フュール”と、凍結を表す”リーレン”を組み合わせただけの、呪文そのものはごく単純なものだ。
たったそれだけのものに、ツルカの中の精霊は皆従順に従った。普通ではあり得ない事だった。
感情の凍結なんてものは、自然の摂理に反するものだ。成長するにつれて考え方や感じ方はそれぞれ人によって異なっていく。
その可能性を潰す行為だ。
それがどういうわけか、まかり通ってしまった。
ツルカ自身、その魔術を使ったからといって、何かが変わったとは感じなかった。ただ、魔術が成功したのだという確信はあった。
理屈では説明できないが、そう感じた。
「これで、よし。あとは、そうね……」
ツルカはそのとき、自分は欲張りな人間だな、と思った。
感情を凍結させた。彼のことを忘れないために。ただそれだけではどうやら我慢できなかったようで。
「これ、貰っていくわね」
アーロントの握る剣に触れながら、ぽつりと呟く。
なんて事のない、普通の剣だった。騎士長ならば業物を使っているのかと思っていたが、アーロントが握るその剣は一般の騎士が持つものと同じものだった。
先ほどの氷を割ったのが原因かは分からないが、ひどく刃毀れしていた。側面は傷だらけで、使い込まれた柄はすり減り、彫り込まれた国章や文字が薄れていた。
これを形見にしようとツルカは考えた。
ホッフヌング城は八割方焼け落ちている。偶然にもツルカがいたところはギリギリ火の手の弱い所だったようで、残りの二割の場所だったらしい。
きっとアーロントの部屋はすでに崩れているだろう。
そう思うと彼の形見はこの剣か、彼の身に付けている衣服だけだ。だがアーロントは今も見事に凍り付いている。唯一、剣を握る右手の先だけがその氷の侵食を免れていた。
死んでいるはずなのに、彼のその手はなぜか剣を握りしめていた。
柄を握る指を、一つ一つ丁寧に外していく。思い出を一つ一つ確かめるように。
初めて会ったとき、助けられたこと。二人で出掛けたこと、夜遅くまで二人でなんてことない無駄話をしたこと。もっともっとたくさんの思い出が詰まっていた。数えだしたら限がなかった。
カラン、と音を立ててその剣が滑り落ちる。
その剣をツルカは拾い上げた。
重たかった。今まで手にした物の中で、一番重くて、だからといって手放したくないものだった。
その重さが、彼の重さそのものなのだと、ツルカは思った。彼の人生の重さがこれなのだ。
重たくて、重たくて、一人じゃ抱えきれないものをアーロントは抱えていたのだ。
――ああ、ようやく覚悟が決まった。
その重たい剣を握りしめ、引きずりながら、確かな足取りで歩みを進めた。
目的地は、フィアル村だ。この現状を説明しなければならない。周辺の村や町にも説明して回らなければならない。
そういえば、王都で別れたあの兵士はまだ生きているだろうか。生きていたら彼に国中を駆け回ってもらおう。
この滅んでしまったネーヴェ王国の、そして新しく建てられる、新生ネーヴェ王国の領土を。
一本道ではないし、歩こうとしているのは未だ切り拓かれていない森の中の、しかも茨の生い茂る道なき道だ。
それでも進むと決めた。友が背中を押してくれた。その思いに応えんとするために、ツルカはその足を動かす。
人を導く女王になるために。人を幸せにできる魔法使いになるために。
ツルカの過去話、いかがでしたでしょうか。ああ、こんな過去がある人だったんだなあ、ぐらいに思っていただければ幸いです。