58.火の海
それはもう、手遅れだった。
「なんで、こんな……」
王都に足を踏み入れたツルカはその惨状を見てそう呟いた。
足を踏み入れた、とは言ったが、王都とその外の境界なんてものはすでに無くなっていた。
それほどまでに荒廃し、炎に飲まれ、“街”という原形をとどめてさえいなかった。
そして街の中心、少し高度の高い所に一つの城がある。ホッフヌング城。”希望”を冠するその城は、今や絶望に飲まれ、自らその白亜の体を燃やしているかのようだった。
「まさか、生き残っているのは我々三人だけ……?」
動揺を隠しきれていない兵士が一歩だけ後ずさり、誰に問うでもなくその問いを吐き出した。
「……いえ、そうと決まったわけじゃないわ。兵士さんは街の生存者の捜索を。私は城の方に向かうわ」
「お待ちください! あの燃え盛る城に入ろうというのですか!? いくらなんでもそれは自殺行為です! 早くこの場から逃げるべきです!」
「それはツルカだけに適用される話よ。だって私、ただの魔女だもの。もしかしたら城の方に誰か生きてる人がいるかもしれない。その可能性がある限り、私は魔女としてこの手を、足を、動かすわ」
そう返して、アデライドはその身を真っ黒なローブと一緒に翻した。駆け足で城の方に向かって行くのを、ツルカはただ眺めていた。
「ツルカ様は馬車へお戻りください。手綱の握り方は知っておられるはずです。御身一人でお逃げください」
その声はツルカには届いていなかった。正確に言うと届いていたが無視した。ただただアデライドの走っていった方をぼんやりと眺めていた。
今一人で逃げるべきではない、とツルカは思った。
とは言っても、逃げる方が危険がまとわりつくとか、そういう見当違いな予測をしたわけではない。
今逃げれば確実に命は助かる。幸い、ツルカは魔女だ。それこそ初心者の称号を外せないが、腕の立つ魔女であることには間違いなかった。
一人で逃げた先で、一人で生きることなど、ツルカにとっては造作もなかった。
そこまで考えが至ったからこそ、その結論を出した。
自分は逃げるべきではない、と。
「私も、城の方へ行くわ。生存者が見つかったら、あなたはその人たちを連れて逃げなさい」
「それは……承知できません」
その返答はツルカも予測していた。彼はこの国の兵士なのだ。国に、国王に仕えることを心に決めた忠誠心高き兵士だ。
だから王女であるツルカが自ら死地に飛び込もうとするならばそれを引き留めるのが彼の仕事だ。
それが分かっていたから、彼の回答に対する答えをすでに用意していた。
「これはもう国家滅亡の危機よ。そんなときに限って王族だけおのおのと逃げてるようでは国民に示しがつかないわ」
この答えが正しいとはツルカ自身も思っていなかった。だからといって間違っているとも言えなかった。
ただ、自分のすべきことがこれなのだ、と心に決めてしまったからにはそう動く以外に選択肢はツルカの中には存在しなかった。
もっと奥深い本音をさらすならば、ただただ、アーロントのことが心配だったのだ。彼は王女側近の騎士であり騎士長を任せられている人物だ。
だとするならばその所在は自然とホッフヌング城に絞られる。
「じゃあ、そういう事だからあとは任せたわよ」
それだけ言い残してツルカはアデライドの走った道をたどるようにホッフヌング城に駆け足で向かって行った。
§
「どうすんだよ……これ」
一人取り残された兵士、ケインは炎に飲まれつつある王都の中でぽつりとそう呟いた。
ケインは忠義深い兵士だった。国に貢献したい、王を守りたい、そういう心構えで兵士に志願した。
ならば騎士にでもなればよかったのにと言われることも間々あるが、ケインは騎士になれるほど厳格な人間にもなれなかった。
しかし今になって、もしも自分が騎士だったらツルカを引き留めることができたかもしれない、と自責の念を抱いた。
アデライドがこの場を去った。彼女の言い分は筋が通っていた。『魔女』はどうやら人助けが好きな生き物らしい。
アデライドは別に王族ではない。だからケインにとっては忠誠を捧げる対象ではなかった。しかし彼女は、他ならぬツルカの親友であることはケインも知っていた。
逃がす理由はそれだけで十分だったのだ。
だが城に向かうアデライドをケインは引き止めきれなかった。
ああ言われてしまってはケインにはもうどうしようもなかった。
ツルカもこの場を去った。それだけ言ってしまえば無事逃げたように聞こえる。それならどれだけ良かったことか。
兵士として、王族の命令は絶対だ。何よりも守るべき最優先事項だ。しかし今回はそれを適用してはならないとケインは判断した。
――この国は滅ぶ。
ケインはその答えを王都に入ったときから確信していた。だからこそ、王族の命令に背いてでもツルカを逃がす必要があった。王族が生きてさえいれば国は再興できる。
仮にもし、この静まり返った王都内でまだ国王と女王が生きているならそれに越したことはない。が、その可能性をケインは早々に潰した。
ネーヴェ王国の騎士団というのは兵士と違って強い上にどんな組織よりも統率が取れている。騎士長であるアーロントの威厳を鑑みればその強さも、統率性も納得がいった。
そんな騎士団が機能しているのなら、こんな惨状には絶対にならない。彼らは少数精鋭だ。誰がどんな反乱を起こそうが、それを鎮圧する力があった。
しかし現状はこの有様だ。この光景が、騎士団が機能していないことを指していたことに、ケインはいち早く気づいていた。
そこから導き出される結論。
「反乱の首謀者は……騎士長だ」
その答えをツルカの前で言えなかったのはツルカが騎士長であるアーロントを思い慕っていることを知っていたからだ。
なぜ騎士長アーロントがそんな行動をとったのかはさすがにケインにも分からなかった。
だが、自分の取るべき行動は自然と導き出していた。
首謀者がアーロントであるという事実に蓋をして、ツルカを逃がすことが、ケインがとろうとした行動だった。
しかしそれも、ツルカの一言に言いくるめられてしまった。
若い少女のあんな真っ直ぐな目を見てしまえば、ケインにはもう何も言うことはできなかった。
「本当に、どうしたもんかね」
そう言って途方に暮れつつも、やるべきことは見つかっていた。
ふらりとその足を動かしながら、辺りを見回しながら、絶対に見つかるはずのない生存者を探して、その重たい鎧の擦れる音を燃え盛る炎の中にまき散らした。