53.フィアル村へ~1~
彼を好きになったのはいつだろうか。
ふと、ツルカはそんなことを思った。
「……いつだっけ」
誰に問うでもなくその疑問を口にする。
あれはたしか、九歳の時だ。城内の庭の池に足を踏み外して落ちた時。引っ張り上げてくれたのが騎士見習いだったアーロントだった。その日はアーロントは城内の見学で城に来ていたらしい。
確かそのときに。
「……一目惚れだったなぁ」
誰に伝えるでもなく口が動く。
そう、一目惚れだった。
ひな鳥が一番最初に見たものを親と認識するみたいな勢いで惚れてしまったのだ。顔立ちが好みだったというのもあるのだが、なによりも助けられたことが大きかった。
その思いは、未だに彼に伝えていない。いや、何度も伝えようとした。こうして十八歳になるまでに何度もこの主従関係に終止符を打ち、なんとか恋仲になろうとした。
アデライドにも色々手伝ってもらった。それでもどうやら自分は臆病だったらしく、一歩も踏み出せないままただただ漠然と時間だけが過ぎた。
「何で私ってこうなんだろう」
その言葉は朝日の射しこむ窓の向こう側に消えて行った。
ツルカにとっては魔女になってから七回目の朝である。
つい一週間前だ。ツルカとアデライドは『魔女』になった。それぞれ『氷の魔女』、『森の魔女』という名前をラトリアから授かった。
正確に言うと、アデライドに関しては授かったと言うより引き継いだと言うほうが正しい。
どうやらツルカ自身もアデライドも魔女としての素質が高かったらしく、魔女になる日を少しだけ前倒しにしたらしい。
魔女の名前というのはその魔女の特徴的な魔術からつけられることが多いらしい。それがどうやらツルカにとっては“氷”だったらしい。
たしかにツルカはよく氷を生成する魔術を使っていた。というのもおとぎ話に出てくるガラスの靴をまねて氷の靴を作ったのが始まりだった。別にその魔術が得意というわけでもないし、好きというわけでもない。
ただラトリアの目にはツルカは氷魔術が得意な女の子というように映ったのだろう。
さて、魔女になったからには何かしら魔女らしいことをしなければならない。
魔女らしいことと言ってしまえば随分と大きな括りになってしまうが、要は人助けだ。困っている人に手を差し伸べる。それが魔女の存在する理由だとラトリアは言っていた。
それ自体はツルカも同意見だったし、ツルカも誰かを救う魔法使いになりたくて魔術を学んだのだ。
そしてツルカは考えた。どうすれば人の役に立てるのか。何をすれば誰かの魔法使いになれるのか。
「やっぱり、助けるべきはこの国の民よね」
きっと初めから、やりたいこと、やるべきことは決まっていたんだと思う。
ベッドから出ると、クローゼットを開く。フリフリとしたドレスが顔を覗かせる中に手を突っ込んであるものを引っ張り出す。
それは薄い青色をしたローブだった。これはつい一週間前にラトリアから貰ったものだ。
どうやら『森の魔女』は昔から弟子にはローブを渡す風習があるらしく、ツルカも例外ではなかった。
そのローブもどうやらただのローブではなく、魔術繊維と呼ばれる特殊な素材で出来ているらしく、特定の加護魔術が込められているそうだ。
ツルカが貰ったこのローブには氷と対を成す炎を退ける、みたいな加護が込められているらしい。ツルカ自身、加護魔術がそれほど得意ではないから、それ以上のことを知ろうとは思わなかった。
ツルカは寝間着を動きやすい服装に着替えると最後にそのローブを羽織った。
「さて、と」
そう呟くとまだ眠っているであろう親友の部屋に足を回転させた。
ちょうど隣の部屋が親友の居室だった。部屋を出てすぐ横の扉をノックなしで開ける。
「アデライド、朝よ。起きなさい」
その声にアデライドは寝返りを打つことで反応した。
「んん……」
「ほら、起きて。今からフィアル村に行くわよ。準備しなさい」
唐突と言えば唐突だろう。だがそれはツルカからすれば数日前から決まっていたことだ。
フィアル村はネーヴェ王国の端、簡単に言えば辺境の小さな村だ。その村がここ最近の日照りで作物がダメになりつつあるらしい。
そんな話を聞いたツルカはこれだと言わんばかりに魔女としての初仕事の地をそこに決めた。
ただ、一人で行くのはなんだか違うと思った。別に一人で行くのが心細かったわけではない。ただ、一緒に魔女になったアデライドを置いて行きたくなかったのだ。
だからこうして部屋に押しかけて起こそうとしている訳なのだが。
「あと五分寝かせて……」
そう言ってアデライドは一向に起きようとはしなかった。
アデライドは朝に弱い。そのくせ夜は遅くまで起きている。何度も早く寝るように言っているのだが、なんだかんだ理由を見つけて夜更かしを継続している。
その様子を見てツルカは小さくため息を漏らす。こんな朝をツルカは毎日のように続けている。だって自分が起こさなかったらアデライドは下手をすれば昼まで寝ているのだから。
「とりあえずその布団から手を放しなさい」
「ん……やだ」
そういってアデライドは布団を抱きしめる力を強めた。
毎朝この調子なのだ。だからこそ、ツルカもこうなった場合の対処法は心得ていた。
「あなた、頭はいいのにこういう事は本当に学習しないのね」
未だにすやすやと寝息を立てるアデライドに目を落としながらツルカは一人呟く。
少し前まではアデライドを起こすのは至難の業だった。本当に何をやっても起きなかったのだ。ひっぱたいてもつねっても、鼻と口を塞いでみても、起きなかった。息苦しそうにはしたが。
しかしただ一つ、アデライドが絶対に起きるものをツルカは一年前に見つけていた。
「凍結」
それはツルカにとってはアデライドに朝を告げる言葉となっていた。本来はそういう意味で用いるものでは全くないのだが、こうも毎日使っていると「おはよう」と同じ意味合いに聞こえてくる。
アデライドの布団からはみ出した足先から、何らかの薄い膜につつまれていく。その膜は徐々に厚くなり、アデライドの足を完全に包む。それだけだ。それだけで十分だった。
「冷……たい」
「目は冷めたかしら?」
「うん、目は覚めたからとりあえず足の氷を何とかしてくれない?」
未だに体をベッドに横たえたままでアデライドは答える。
「ダメよ。あなたがその体を起こすまでその氷はそのままよ」
それを聞いたアデライドは少々不貞腐れた顔で、気だるげにその上体を起こした。
「はい、よくできました。さ、出掛ける準備をしなさい。朝食を食べたらすぐに出発よ」
「ちょっと待って。出掛けるってどこに?」
驚いた顔でアデライドが尋ねる。たしかに、寝起きに準備して出掛けるなんて伝えたらそんな顔もするだろう。
「言ったでしょう、フィアル村よ。私は先に朝ごはん食べてるから。じゃあまた後で」
言い残すとツルカはアデライドの部屋を出て行く。
「初耳なんだけど」
その文句は虚しくも誰の耳にも届くことなく、ただ朝日だけが唖然とする彼女を照らしていた。