5.金糸と紫水晶~2~
ミレイユとの会話に花が咲いているとき、ふと馬車の向こうからジークハルトの姿が見えた。
彼が抱える紙袋の端から、ほんの少しだけ湯気が立ち上っているのが見えた。その紙袋の中から包み紙を一つ取り出し、乱雑に投げてくる。
ミレイユは投げられた包み紙をその小さな掌でふわりと受け取ると、
「ありがとうございます」
ペコリとお辞儀をする。その様子は本当に礼儀正しく、親の教育が行き届いているんだな、などと感じさせるものだった。
「ありがとうございます。ジークハルトさん」
同じようにして投げられた包み紙を同じようにして受け取る。包み紙を持つ手にできた手であろうそれの温かさがガサガサと音を立てる包み紙越しに伝わる。
甘い香りが鼻を通り抜ける。思わずよだれが垂れそうになる。
昨日の夕食を食べていないとなると、実に二十時間ぶりの食事ということになる。とは言っても今から食べるのはアップルパイだ。どちらかというとデザートの部類に入る。それを食事と言っていいのか分からないが、この際気にしてはいられないだろう。
包み紙を開けて中身を見る。確かに紛うことなきアップルパイだ。
隣では少女がすでに美味しそうに頬張っている。
私も思い切りかぶりつく。
(おいしい……)
リンゴの甘酸っぱい味が身体中にしみわたっていく、気がする。パイ生地も外側はカリっと仕上がり、内側はふんわり。
そういえば彼はなぜこんなにも私たちに良くしてくれるのだろうか。ふとそんな疑問が浮かんだ。彼が紳士的だというのは今までの行動を見ていて思うのだが。
それとは別の、何か理由があって私たちにやさしくしている、気がする。
わざわざそれを尋ねるというのは野暮だろうと思い、聞くのはやめることにした。代わりに別の質問を投げかける。
「そういえばジークハルトさん。夜の間もずっと馬の手綱を握ってたんですか?」
馬を走らせる彼に尋ねてみる。
「いや、夜の間は別の兵士と交代して仮眠をとらせてもらっている。今晩まではまた俺が馭者をやるつもりだ」
「そうでしたか。ちゃんと休んでいるようで安心しました」
魔女としてなのだろうか。きっと職業病というヤツだろう。少し疲れの色が見える彼の顔が少し気になっていた。
「……魔女というのは皆、そのように人のことを思えるような人間なのか?」
ジークハルトが訝しげに問う。
「そうだと私の祖母は言っていましたけど」
祖母曰く、心が優しい人でないと魔女になれないだとかなんとか。正直、その辺の基準は私もよく分からない。何をもって優しいと判断するのか、そんなもの相手によって変わってしまうではないか。
「……そうか。つまらんことを聞いた。忘れてくれ」
そう言って彼はまた前を向いた。
「ごちそうさまでした」
隣に座っている少女がすでに食べ終わっている。
「アップルパイ、好きなの?」
「はい。昔、母がよく作ってくれていて。コレットさんは好きな食べ物とかあります?」
「実はね、私もアップルパイ好きなんだ。昔よくおばあちゃんが焼いてくれて。すごくおいしかったなあ」
すると、ミレイユがクスリと笑う。
「どうしたの?」
「わたしたち、気が合うなあ、って思うとちょっと可笑しくて」
その笑顔を見ると、自分には今までなかった自信が沸々と湧き上がってくる。
――この子となら、もしかしたら。
そう思ったとき、私の口はすでに動いていた。
「ねぇミレイユちゃん」
「はい?」
ミレイユが不思議そうにこちらの顔を覗き込む。
「私たち、その、友達にならない?」
まさかこのセリフを言う日が来るとは思っていなかった。かなり勇気を出した方だと思う。そもそも、自分に友達など出来たことがないのだ。ずっと森の中で暮らしてきて、年の近い女の子に会うこともなかった。魔女になってからそういう人に会うこともあった。でもどこか、友達とは呼べるものじゃなかったと思う。
だってもし友達なら、『魔女様』なんて呼ばないだろうから。
「何言ってるんですか、コレットさん。わたしたち、もう友達ですよ」
「へ?」
その言葉には、驚きの表情を隠しきれなかった。果たしていつの間に友達になっていたのか。思えば、友達が出来たことのない私に友達の作り方が分かるわけがないのだ。
「友達って、大体、自然となってるものですよ」
「そういうもの?」
「そういうものです」
そういうものらしい。
「わたしはもう、コレットさんのこと友達だと思ってますよ」
自分のことを友達と呼んでくれた少女の顔は、今まで見てきた年の近い少女たちとは少し違う表情に見えた。私はその目の向け方を知っている。尊敬する者に対してする瞳だ。幾度となく見てきた。今まで会った女の子たちと同じ向け方だ。
しかしその中に垣間見える眼差しは、それとは異なるものだった。
それを何と呼ぶのか私は知らない。でもその眼差しの意図を、彼女はその言葉で教えてくれた。
「ありがとう、ミレイユちゃん。それじゃあ、改めて――」
私にとっての初めての友達、年が近い女の子で、私と同じように魔女で、好きな食べ物まで一緒。その女の子に、もう一度、はっきりと言いたかった。
「よろしくね、ミレイユちゃん」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
ミレイユはまた、その顔に笑顔を見せて言った。
「ところで、その、お聞きしたいことがあるんですけど」
「どしたの?」
「それ、本物……ですか?」
ミレイユが私の右耳を指さす。
「このイヤリング?」
「そうです。とってもきれいなサファイヤだな、って思って。ものすごく高価じゃないですか? それ」
「そうなの?」
そう答えるとミレイユの顔に驚きの色が映る。
「そ、そうですよ! そんなにきれいなサファイヤ、そうそうみませんよ! どこで手に入れたんですか?」
はっきりと覚えている。忘れようもないあの出来事。すごく怖くて、すごく温かかった出来事。
「小さい頃にね、おばあちゃんについて城下町の商店街に行ったことがあるの。でもおばあちゃんとはぐれて迷子になっちゃって。そのとき助けてくれた男の子が、泣いてる私を励まそうとして買ってくれたんだ。あの子、どうしてるかなあ」
しゃべり終わってふとミレイユのほうを見ると、口をあんぐり開けて固まっていた。
「……その人、多分相当のお金持ちですよ」
確かに、そんな雰囲気だった気がする。地味な顔立ちだったためそこまで覚えていないが。また逢えたらいいなとは思う。
突然馬車が止まる。
「どうかしたんですか?」
そう言って前方を見る。犬のような生き物が倒れている。
「ウィードウルフだ。数が多く、群れで町や村を襲うこともあるが、大体はゼラティーゼ王国の兵士が処理をしている。その生き残りだろう。ほおっておいてももうすぐ死ぬ。少し迂回していくぞ」
さっきと同じだ。その単語を、私は看過できなかった。これも職業病というやつだろう。
(死ぬ……か)
「ちょっと待ってください」
「どうした」
そう言ったジークハルトは不信感を隠しきれない表情だ。無理もない。王女を殺した容疑者がどういうわけかこの状況で出しゃばりだしたのだ。後列の馬車からも何やらヒソヒソとした話し声が聞こえてくる。
「助けます」
「……必要ない。助けたとしてこいつが町や村を襲わないとは限らない」
しかしだからと言って引き下がるわけにはいかない。魔物だろうが人だろうが、同じ命であることに変わりはない。
「目の前で失われる命から目を背けるんですか!
私は魔女です。『草原の魔女』なんです。命を救うのが私の仕事なんです。そこに種族の違いなんて関係ありません」
かなりの怒鳴り声だったと思う。こんな風に怒鳴ったのは初めてかもしれない。もちろん、私がこの魔物を助けることで生まれる危険性は理解している。このウィードウルフという魔物が、もしかしたら群れを率いて村を、街を襲うかもしれない。そうしたらきっと怪我人が出るだろう。下手をすれば死人も出るだろう。
けれどそれは言い訳だ。目の前で奪われかけている命を見捨てるのに人の命を天秤にかけていい理由にはならない。
すべての命を平等に扱い、平等に救う。それが私だ。私という魔女の在り方なのだ。馬鹿げた在り方であることも重々承知の上だ。だからといって、「仕方がない」の一言でどちらかを切り捨てるなんてことはしたくない。助けるのであれば、両方助ける。
「……好きにしろ。しかしお前は拘束されている身だ。手の縄は外すことはできんぞ」
「それでも問題ありません」
そう言って馬車を降りる。ウィードウルフに近づく。
まずは傷の観察。腹部に大きな刺し傷が一つ。それ以外の外傷は特に見当たらない。普通の生物なら死んでいるはずだ。魔物というのはこうも生命力が強いのか。
子供の頃に住んでいた大森林にも魔物は居た。ただ、それも友達のような関係だ。お互いに傷つけあうなんて事は無いから、こんなにも生命力が強いなど知る由もなかった。
クゥン、と苦しそうに唸る。それはまるで虐められた子犬のようだった。
少しの怪我なら手持ちの薬で何とかなるが、これほどの傷となるとそうもいかない。
「今治してあげるからね」
ぼそりと優しく呟きながらウィードウルフの血で足元に魔法陣を描く。綺麗な円、その中に五芒星を描く。
すうっと息を吸い込む。魔法陣に手をかざす。本当のことを言うと、魔術を用いた直接治療などほとんど経験がないのだ。
普段は薬を作る時しか魔術を用いなかったのだ。果たして成功するのか。
「草木草花に宿りし精霊よ。汝らから溢るるその命をもってして、この者の傷を癒したまえ……」
静かに呪文を唱えた。魔法陣が淡い緑色に光りだす。
(お願い……治って!)
目を瞑って、そう祈った。
しばらく沈黙が続いた。
(もしかして……失敗した?)
恐る恐る目を開ける。
そこには未だにウィードウルフが横たわっている。
腹部をのぞいてみる。傷は……しっかりと塞がっていた。
横たわっていたウィードウルフの前足が少し動く。自分が生きていることを確認するかのようにゆっくりと目を開けて立ち上がる。周囲を見回してから最後にこちらを見つめてくる。
「もう大丈夫だよ。さあ、お行きなさい」
その視線に返事をすると、ウィードウルフはすぐにどこかへ走って行ってしまった。
「良かった……ちゃんと、治せた……」
張り詰めた空気の中にその漏れ出るような息を漏らすと、全身の力が抜けた私は地べたに座り込んだ。
「コレットさん、すごいです! 本当に治してしまうなんて……」
馬車の方からミレイユの叫ぶ声がした。
「ううん。これくらいできなきゃ『草原の魔女』なんて名乗れないよ」
少し笑ってみせる。正直、自分でも驚いているのだ。
確かに、この魔術は今までにも成功したことはあるのだが、これほどまでにきれいに成功したのは今回が初めてだ。
「満足はいったか」
少し離れたところでジークハルトの呆れ交じりの声が聞こえる。
「はい。すいません、わがままを聞いてもらって」
「構わん。そういう生き物なのだろう? 魔女というのは」
そうかもしれませんね、と呟きながら立ち上がろうとする。
「あの……もう一つお願い聞いてもらっていいですか?」
「なんだ」
「馬車まで担いでもらえませんか? その……腰が抜けちゃったみたいで……」
それを聞いたジークハルトは嫌そうに深いため息をついた。